記号的身体の健康と美味について ―『東京喰種』論―


正しく食べなくてはならない

 飢えとはなにか。空腹とはなにか。それは通常、欠乏として自覚される。生理的な空腹を埋めるために必要十分の食事をとることが、生理的身体において想定される食行動である。
 記号消費としての「健康」はそうではない。積み上げられていく記号は、それが身体の欠損を埋めることなどありえない、いわば余剰であった。より強く、より健康に、より遠くまで行くことを目指す身体の拡張の物語のもとに、記号が際限なく消費される。それは、他者とともに食べるとき、他者の眼があるとき、彼等に対して示される記号でもある。

 しかし、佐々木/金木や喰種化したヒトの食事は、これともまた異なる。生理的に満ち足りてもなお、なにかが欠如したままの身体を埋めるかのような、底なし沼か井戸に向かって何かを放り込み続けるかのような食衝動は、むしろ自らの内側へと向かう欲望に根差す。「食べる」ことそれ自体が、それに付帯するあらゆる対外的な意味をそぎ落とされ、どこまでも研ぎ澄まされた純粋な記号と化す。こうした空腹を生理的空腹と区別して情動的空腹と呼ぶが、ここではこう呼ぶほうが適切だろう——つまりこれが、記号的な飢えである。
 この意味での記号消費は、むしろ他者の眼に触れないように行われる。誰かに提示するためではなく、自らの満足を計量するためにのみ記号がある。良識ある人間社会において、記号的な飢えは存在しないことにされている。しかし実際には、それは存在する。『東京喰種:re』はその隠蔽されれた飢えの激しさをつまびらかにしている。そして彼等が人目を忍んで胃袋に放り込む空疎な記号は、実際のところしばしば「美味しい」のである。

  「美味しい」を思考できないのは「健康」のせいである、という命題から本稿は始まった。生理学的な美的感覚の調整は無意識下に行われ、生命維持のための「美味しい」食事はその主体が「美味しい」と意識することを必ずしも要求しない。一方で、「強さ」としての「健康」もまた、食材に「健康」的であるという以上の意味を求めない。しかし記号的な飢えを満たすための食事においては、「食べる」ことそのものが自己目的化し、逆説的に食そのものの喜びのみが追及される。もちろん、それは必ずしも味覚に頼らない。視覚、嗅覚、胃壁の伸展、あらゆる感覚器から得られる食の刺激が、その記憶が、身体をこの記号的な食行動へと駆り立てる。
 はたからみればいかに醜く空疎な食事であろうとも、当の本人にとってみればそこには快楽しか存在しない。このもっとも純粋な食行動の様式は、國分がした問題提起の見え方に変容を迫る。

カール・シュミットはどんな領域でも究極的な区別というものが存在し、例えば、美学なら美/醜、道徳なら善/悪、経済なら利/損、そして政治においてはそれは友/敵であると言った。言うまでもなく、食という領域における究極的な区別とは、うまい/まずいである。ならば、食についての考察はかならずこの究極的な区別に踏み込まねばならない。うまいとは何なのか?

  「美味しさ」などという属性は、本当は存在しない。「美味しい」という経験だけがある。美学という観点から言えば、それとは別にそれを経験する主体が美しいか否かという問題がある。食べる者自身の美醜、あるいは食べること自体の美醜は、それをそのように食べることが「美味しい」か否かとは無関係で、ましてや食材そのものの「美味しさ」とは全く別の問題である。「美味しい」は食材のための形容詞では決してなく、他ならぬ「私」に属する趣味判断である。にもかかわらず、人間社会ではまず美醜の問題が先行する。
 デリダはこうも言った。「問題はもはや、他者を『食べる』のが、またどんな他者を『食べる』のが、『よい』〔=美味しい bon〕かどうか、あるいは『正しい』〔bien〕かどうかではない。いずれにせよ我々は他者を食べるのだし、他者によって食べられるがままになるのだから」。たしかにそのとおりだが、食べることの一部を差し控えたりもする今日の我々にとっては妥当ではない部分がある。

 もはや自らが食べられることを忘れ、自らが「美味しい」ことを忘れた強者は、生理的にはいかなる隣人をも「食べる」ことができるにもかかわらず、実際にはそうすることを慎んでいる。目につくものすべてを食べることもできる我々は、「美味しさ」とは別の美的感覚によって、ある種の対象を「食べない」ことを意識的に選択している。そしておそらく、その周辺においてのみ立ち上がる「美味しい」の思考がある。つまり「美味しい」は、美しくはないということである。

 

汝の隣人を食べよ

 國分はうまさについて問題提起したのと同じ文章で、食物のもつ情報量について論じていた。
 巷ではよくファストフード/スローフードという対比が用いられるが、実際のところファスト/スローとは調理にかかる時間ではなく、食べるのに所要する時間のことだと國分はいう。そもそも食べる時間の違いを生む差異はどこにあるかというと、食物に含まれる情報量である。國分は「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」なる新たな区分を提案する。

  「質の悪いハンバーガーはケチャップと牛脂の味しかしない」のに対し、「味わうに値する」ハンバーグは絶妙な比率の合い挽き肉、甘みを引き出されたタマネギ、肉汁を保持するためのつなぎ、その香り、盛り付け、等々によって複雑に構成される。記号的食材そのものが持つ情報量は、適切な調理によって掛け算的に増加する。
 このようにして豊富な情報を含んだ対象を食べることは「美味しい」。食物の周囲ににもまた、膨大な付帯情報がある。「食べ物は単に舌だけで味わうものではなく、全感覚を喜ばせるもの」と書いた魯山人は、食材の良し悪しと同じくらい器の美を重要視し、自らも陶芸家として知られることになった。魯山人は香りや盛り付けといった食材の非味覚的情報の、さらに周辺にある情報をも味わっていた。栄養素から食材へ、食材から料理へ、料理から盛り付けへ、それが盛り付けられる器へ、と視野を拡大するにつれて、「食べる」ことが含む情報量はおびただしく増えていく。

 翻って、記号的な飢えを満たすこともまた「美味しい」のだとしたら、「美味しい」と感じるために味覚的な情報量の多寡は、実はさほど重要ではない。売春婦のように着飾ったジャンクフードは、しばしばその奥行きではなく表層の情報量でもって、「食べる」ことを忘れ飢えた獣に猛烈に媚びている。コンビニや話題の店に入れ替わり立ち代わり並ぶ食材の「記号的身体」は、意外にもそれが纏う情報の新規性によって、國分の指摘とは別の形で「美味しい」。

 このとき、「美味しい」と「正しい」は必ずしも同じことを意味してはいない。國分の批判は、味覚的な美味しさの追及が「健康」によって阻害されていることに向けられていた。しかし「健康」を抜きにしても、味覚的に空洞化した「美味しい」が「正しい」とはどうしても思えない。
  「美味しい」がごく私的な趣味判断であるという前提に立つならば、いかに「美味しい」かは食べる者が予め持つ情報の量にも依存する。だとすると、「正しく食べなくてはならない」という問題の局限において、我々はこう問わねばならない。あなたのよく知る隣人は、あなたの愛する人は、どのようにして食べるのが最も「美味しい」か。あなたにとって「美味しい」人は、どこに住み、どんな職業につき、どんな服を着て過ごし、どのように美しいか。その食材はどんな食事をとり、その健康をどのように維持し、成熟していくか。それをあなたが食べることは、いったい何を意味するか。
 彼について考えた時間によって、彼と過ごした時間によって、捕食対象は代替不可能な固有性を帯びる。このようにして初めて、記号的食材は奥行きを獲得する。「食べる」ことへの問いがマンガにおいて発露したことのひとつの理由はここにある。我々が食材の奥行を再び発見するとき、その様式はおそらく、マンガ表現では繰り返されてきた記号的身体の内面獲得プロセスを模倣する。

 かくしてこのグルメマンガにおいて、金木が最後に「食べる」のは、冒頭から共に過ごしてきた霧嶋トウカの肉であった。
 必然的に愛し合うようになっていた二人は、終盤に至り結婚することになる。喰種社会の婚姻の儀は、相手の肉体に咬み傷をつけることだという。今度は金木が、トウカの僧帽筋に噛みつく。できるだけ強く、死んでも消えないくらいの傷跡を残すほど強く、愛する人に噛みつき、その肉を食いちぎり、咀嚼までしたであろうか。残念ながら彼女の肉が金木にとって美味しかったかどうかについては一切記載がないが、作中で最も幸福に「食べる」金木の姿が描かれるのはこの場面であったような気がする。
 皮肉にも、「食べない」から「食べる」への横滑りは新たな禁忌を生んでいる。他の喰種に咬み傷を残すことが婚姻の儀であるとしたら、つまり喰種同士の、少なくとも命を奪わない範囲での共喰いは、不貞に当たるという新たな理由で禁じられる。こうして彼の周りには、新たに無数の「美味しい」の奥行が立ち上がる。(了)