バーチャルYouTuberの三つの壊れ――設定、身体、画像(『ヱクリヲvol.10』刊行イベント「一〇年代ポピュラー文化のアニマ」特別寄稿)


『ヱクリヲvol.10』刊行イベント「一〇年代ポピュラー文化のアニマ」特別寄稿

 

 

はじめに

 バーチャルYouTuberとは何であり、それはどのような魅力を持つのか。「オブジェクト指向VTuber論を開始する」と題された、小説家名倉編の論考は、グレアム・ハーマンの「四方対象」の枠組みを用いてこの問いに迫っている。本稿では、四方対象の枠組みの使用のただしさについて議論しない。これはそれとして重要な仕事だが、わたしの知識には手に負えないし、本稿でやりたいことではない。

 本稿では、名倉が言いたいことが「三層理論」という、わたしが提示するより簡単な枠組みで説明できないかを試みる。それによって、名倉が言いたいことが三層理論によって説明できないとすれば、その余りの部分がこれから問うていくに価値ある問いであることがわかる。それにより、名倉の議論をさらに発展させることができるだろう。そのため、本稿は名倉の批判ではなく、名倉の議論を受けて何を議論すべきかを明らかにする試みである。

 本稿の構成は以下の通り。第一に、名倉の議論を概観し、四方対象からのバーチャルYouTuber理解をまとめる。第二に、難波優輝が提示したバーチャルYouTuberの三層理論を概観する。最後に、両者を比べながら、これから問うに値するだろう概念を提示する。

 名倉の議論を端緒として、最終的に、「上演する配信」「壊れているキャラクタ」「三つの壊れ」という概念が提示され、それらがこれから問うべき対象であると提案する。

 

1.四方対象とバーチャルYouTuber

 まず、名倉が提示する限りでの四方対象の理解を行う。ここでは、グレアム・ハーマンの主張との正誤は問わない。あくまで名倉の言葉づかいを理解するためのステップだ。なお、名倉がOOOへのVTuber(以下「VTuber」はバーチャルYouTuberを指す。)の貢献について議論する部分は主題的には扱わない。本稿は、あくまで名倉の議論がVTuberの分析にどう寄与しうるかを検討するものであり、OOOそのものに関心はないからだ。

 

1.1. 名倉の四方対象

 名倉は、援用する「オブジェクト思考存在論(Object Oriented Ontology: OOO)」を次のように説明する。

OOOではあらゆるものが対象だと考える。対象はobjectを訳したもの。「オブジェクト指向存在論」の「オブジェクト」もこの「対象」のこと。そしてひとつの対象を4つの極で考える。感覚的性質。感覚的対象。実在的性質。実在的対象。対象はこの4つの極に分極し。構成される。(名倉 2019

ここで、オブジェクトに関しては、あらゆるものがそうである、と指摘する。すなわち、「車も。にんじんも。いぬも。それから電子も。軍隊も。国も。さらに四角い円も。ドラゴンも。ユニコーンも。ぜんぶ対象」であり、「実在的なものも非実在的なものもどれも対象ではある」とされる(ibid.)。

 名倉の理解での「対象(object)」とは、フィクショナルキャラクタに代表されるいわゆる非実在的なものと、テーブル、原子といった実在的なものをも指す。では、「4つの極」で指示されるものとは何か。名倉が説明する四方対象は次のように整理できる。

 

(1)感覚的性質

 名倉は感覚的性質を「感覚のなかにあらわれる性質」だと説明する。

たとえば目のまえにりんごがある。りんごは「赤い」って性質をぼくの感覚のなかでもつ。ほかにも「黄色い」点々や筋をもつかもしれないし。へたは「茶色い」。たべると「甘酸っぱい」。(ibid.

あるいは、VTuberを用いて例示を行なっている。

VTuberでいえばキズナアイは「ピンクの」「ハート型の」カチューシャをしてるし。ミライアカリの瞳は「碧い」。シロは「イルカみたいに」わらう。(ibid.

 

(2)感覚的対象

 次に、感覚的対象については、「「ぼくたちが捉えてるかぎりでの」対象と考えるのがいい」と言う。「ぼくたちが捉えてるかぎりでのぽんぽこやピーナッツくん。ぼくたちがしらない彼ら彼女らの側面はそこにふくまれない。でもともかく対象ではある」(ibid.)。

 

(3)実在的性質

 名倉にとって実在的性質とは、時間とともに変化する感覚的性質とは異なり、「それを消せばあるものがあるものでなくなってしまうような……「本質的な」性質」を指す。それは、わたしたちがアクセス不可能なものであるが、同時に、「それがあることは知ってる」ものだと述べる(ibid.)。

 

(4)実在的対象

 名倉は「実在的対象も実在的性質とおなじでアクセスできない」と指摘する。

たとえば目のまえにあるりんごをみてる。でもそれは「りんごそのもの」をみてるわけじゃない。物理的にはりんごが反射した可視光をみてるのだし。「見る」というプロセス自体なんらかの変換でもある。ぼくたちがみてる「りんご」の像はぼくたちが受けとめられる形に変換された「ぼくたちに捉えられる限りでの」りんごでしかない。つまり感覚的対象。ぼくたちは感覚的対象を見ることはできるけど実在的対象を見ることはできない。でもたしかにそこにある。実在してる。(ibid.

 「りんご」と指示される対象の感覚的対象ではない対象を実在的対象と呼ばれる。たとえば、わたしたちは、ある石を感覚的対象として捉えるが、その石そのものにアクセスできているかははっきりしない。そうしたそのものとしての実在的対象はアクセス不可能であると定義されている。

 

1.2. バーチャルYouTuberOOO

 この枠組みから、名倉は、VTuberについて二つの議論を行なっていると理解できる。すなわち、(1)構造、そして、(2)魅力とである。

 

(1)構造について

 名倉は、「VTuberの構造はOOOの提示する四方対象のモデルに似すぎてる」と述べる。

 月ノ美兎の配信動画や生放送を見るとき。ぼくたちは月ノ美兎を「見てる」。でもぼくたちは同時に月ノ美兎を「見てない」ことも了解してる。アニメのキャラクターであれば「中の人」とよばれるような――VTuberにおいては「魂」とよばれることもある――次元の。現実に存在する身体をもつ「配信者」をぼくたちはみることはできない。

 つまりVTuberにおけるキャラクターの図像は感覚的対象で。感覚的対象は見える。でも配信者は実在的対象に相当して。実在的対象は見えない。OOOの特色のひとつとして感覚的対象と実在的対象をわけたことがあげられると思う。なら。まさしく感覚的対象――図像――と実在的対象――配信者――の分離を隠しながらもそのことにより強く意識させるVTuberのありかたはOOOのモデルと呼応してる。(ibid.

 第一に、「VTuberにおけるキャラクターの図像」が感覚的対象であり、第二に、その配信者は実在的対象に相当する、と指摘する。名倉は、キャラクタの画像を「感覚的対象」と述べる。そして、キャラクタの動きを作り出し、声を出している対象を「実在的対象」に対応させる。加えて、前者の感覚的対象と後者の実在的対象の「分離」が、いわば異なりやずれを隠しつつ、それを意識させるあり方が、「OOOのモデルと呼応」していると述べる。

 

(2)魅力について

 名倉は、魅力ではなく、「魅惑」という概念からVTuberを論じようとしている。とはいえ、その主張は広義の意味で、「VTuberの何が魅力的なのか/何に鑑賞者は惹かれるのか」に答えるものであり、魅力について議論していると理解できる。「魅惑」について、名倉は次のように説明する。

 ハンマーが壊れて道具としての存在意義を失い。ハンマーとも呼べないただの物体になったとき。はじめてその存在感が意識される。目に見えてるそれは感覚的対象でしかないとしても。その奥にとにかくなにかが実在する。見えなくてもそれが暗示される。実在的対象がそこにある。

 そして感覚的対象がまとってたはずの感覚的性質――ハンマーの固さや黒さや持ち手の木目の感じ――が実在的対象のまわりを周回してその存在を暗示するそのさまをハーマンは「魅惑」とよぶ。(ibid.

 この点の理解は難しい。わたしの理解するところでは、ある感覚的対象が有していたはずの機能が果たせなくなったとき、その感覚的対象が有してはいたが、しかし注目されてはいなかった感覚的性質へとわたしたちの注意が向けられうるとき、わたしたちは、その感覚的対象と関係する特定の実在的対象を暗示される、という主張である。

 そして、名倉は、この「「魅惑」のメカニズム」から、VTuberを分析する。

……属性は破壊され。壊れたハンマーみたく。道具性を失ったシロや月ノ美兎は「キャラクターでないなにか」として視聴者のまえにすがたをあらわす。ハンマーと同様。手許性から手前性へ移行する。そしてそのトリガーを引いたのは彼女たちのキャラクター(=感覚的対象)とはちがう。異質な実在的対象がわずかに露出し暗示される瞬間――つまり魅惑の瞬間だった。(ibid.

 名倉は、VTuberは、「キャラクター(=感覚的対象)」とは異なる、実在的対象としての「配信者」が「わずかに露出し暗示される」ことで、「魅惑」をもたらすと言う。ここでは、先ほどのハンマーの例に対応するように、ある機能を果たすはずの「キャラクタの設定」が、しかしその機能を果たせないとき、そのキャラクタの画像や身振り、すなわち、アバターの画像や映像といった感覚的性質へと注意が向けられ、その感覚的対象の感覚的性質が実在的対象であるところの配信者を暗示する。そのとき、魅惑が起こっているという主張だ。

 名倉の整理は次のようにまとめられる。すなわち、VTuberとは、一方では、感覚的対象としての「キャラクター」の要素をもつ。キャラクターとは、「当初彼女らに期待されたキャラクターは清楚やAIやツンデレや委員長キャラといった属性の束」だとされる。ここで、「属性の束」とは素直に読めば「感覚的性質の束」だろうか。とはいえ、ここで感覚的性質とされているのが、いわゆる「キャラクタの設定」のような「清楚である」「委員長である」といった抽象的な性質なのか、それとも、「黒髪」「白い肌」といったより具体的な性質を指すのかが判明ではない。いずれにせよ、わたしたちがアクセス可能ななんらかの性質を指すものと思われる。他方で、VTuberとは、その感覚的対象に尽くされず、実在的対象としての配信者とも関与している。VTuberは感覚的対象と実在的対象の二層の構造を持つとされる。

 そして、その魅力(の一部)は、前者の感覚的対象としての「キャラクター」が何らかの機能を果たせないことで、その感覚的性質を介して、実在的対象である配信者を暗示し、「魅惑」することによってもたらされているとされる。

 次節ではこの主張を「三層理論」から検討する。

 

(次ページへ続く)

ヱクリヲ vol.10 
特集Ⅰ「一〇年代ポピュラー文化 〈作者〉と〈キャラクター〉のはざまで」
アイドル/メディア論研究で知られる西兼志と、ポップカルチャー批評のさやわかによる対談【アイドル〈の/と〉歴史】ほか、 一〇年代文化が持つコミュニケーション要素の系譜を総覧した、 【コンテンツ-コミュニケーション発展史 「会いにいける」から「反逆される」まで】他を掲載。
●さやわか×西 兼志「アイドル〈の/と〉歴史」
●高井くらら「コンテンツ-コミュニケーション発展史 〈会いにいける〉から〈反逆される〉まで」
●難波 優輝「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン」
●楊 駿驍「あなたは今、わたしを操っている。――「選択分岐型」フィクションの新たな展開」ほか
特集Ⅱ「A24 インディペンデント映画スタジオの最先端」