バーチャルYouTuberの三つの壊れ――設定、身体、画像(『ヱクリヲvol.10』刊行イベント「一〇年代ポピュラー文化のアニマ」特別寄稿)


2.三層理論とバーチャルYouTuber

 本節では、前節のまとめを受け、名倉が説明しようとしたVTuberの構造と魅力について、三層理論からどこまで議論できるのか、そして、どこから議論できないのかを検討する。

 

2.1. 三層理論

 一九五〇年代、メディア研究者のホルトンらは、テレビやラジオのパーソナリティと鑑賞者とが作り出す独特な関係へと注意を向けた(Horton & Wohl 1956)。彼らは、ラジオ、テレビといったメディアを介したある「ひと」の現れを「メディアペルソナ(media persona(e))」と呼んだ(単数形は ‘persona’、複数形は ‘personae’ であるが、本稿では一貫して「ペルソナ」と表記する)。鑑賞者は、メディアを介してのみであるにも関わらず、あたかも現実の対面的な関わりにおけるようにペルソナと様々な仕方で関わる。その独自な関わりは、「パラソーシャル関係(prasocial relationship)」と呼ばれる。

 以前、わたしは、VTuberがどのような鑑賞の対象から構成されているのかを「三層理論(three tiered theory)」から分析した(難波 2018a; 2019; ナンバ 2018b)。ここで、三層理論とは、VTuberの鑑賞の対象は、じっさいのひとであるパーソン、そのパーソンのメディアを介した現れであるペルソナ、そして、パーソンが用いるひろい意味でのアバター/擬人的な画像が表象する「フィクショナルキャラクタ(fictional character)」の画像(ここで画像(picture)とは、静止画(still picture)のみならず動画(moving picture)を含む。たとえば、絵やイラストレーションのみならず、映像や2D3Dモデルも含む)の三層の身体から構成され、それらの関係づけにおいて、それぞれが、あるいはその総体が、そのつど、鑑賞者の鑑賞の対象になっている、とする理論的枠組みである(図1)。

図1 バーチャルYouTuberの三つの身体

 たとえば、『キズナアイ』というVTuberは、「キズナアイ」というキャラクタの画像、そしてその動きをつくりだしているひとであるパーソン、そして、そうしたキャラクタの画像と重ね合わせられたペルソナからなる。さらに、こうしたペルソナは、TwitterYouTube、各種イベントを介して、ファンによって共通理解としてつくりあげられる特定のペルソナイメージを伴う。ここで、ペルソナイメージとは、鑑賞者が受けるペルソナの印象の総体を指す。ペルソナイメージは、パーソン自身の性格や印象とつねに一致するわけではなく、その多くは、メディアを介してのみ構築されえたものである(難波 2018a: 119, 123)。『キズナアイ』の知覚可能な見た目は、「キズナアイ」というキャラクタの画像であり、パーソンのそれではない。また、「キズナアイ」という画像が表象するキャラクタには性格がほとんど存在せず、鑑賞者が『キズナアイ』の性格とみなしているのは、「キズナアイ」の動きをつくりだしているパーソンがメディアを介して現れたペルソナによってもたらされているペルソナイメージである。鑑賞者は「キズナアイ」というキャラクタの画像のかわいさ、すなわち、その造形的なかわいさと、『キズナアイ』というペルソナイメージの愛らしさ、あるいは、『キズナアイ』のパーソンについてのなんらかの知識を、自覚的あるいは非自覚的に総合させながら、『キズナアイ』というVTuberの総体を鑑賞している(図2)(cf. ナンバ 2018c)。

図2 キズナアイの三つの身体

 加えて、VTuberは、ペルソナとしての複数の鑑賞のされ方が存在する点に特徴がある。一方で、あるVTuberは、その外見から一般に想像しうるような声や性格を逸脱し、かつ、そのパーソンの経験や考えをあからさまに語っているようにみえる。他方で、動画内にとどまらず、SNSにおいてもロールプレイに徹しており、設定上、キャラクタとして鑑賞者に鑑賞されるVTuberもおり、こうしたVTuberのふるまいの種類に応じて、鑑賞者の鑑賞のあり方も変化している。

 こうした鑑賞のされ方の違いは二つに分類することができる。まず、前者のようにペルソナにおいてパーソンがはっきりと現れているようにみえる場合、鑑賞者はVTuberを「パーソンのペルソナとして(qua person’s persona)」鑑賞している。こうした鑑賞がなされるVTuberは、パーソンに関するメタ的な発言を行なっているとしても構わないだろうし、ある程度変更を加えながらも、パーソン自身の体験や思想をVTuberとして発言しているとみなされる。他方で、後者においては、鑑賞者は、あたかもキャラクタが現前しているものとして、すなわち、「キャラクタのペルソナとして(qua character’s persona)」VTuberを鑑賞する。このとき、鑑賞者は、VTuberのキャラクタとしてのロールプレイを重要視し、彼女をパーソンについてのメタ的な発言をほとんど行わないものとして鑑賞し、ふつう、鑑賞の最中にはパーソンへの言及を控える(難波 2018a, 119-120)。

 

2.2. バーチャルYouTuberTTT

 配信者が「実在的対象」に相当する名倉の議論には、名倉自身が留保するように、重要な問題がある。配信者は一般に鑑賞者によってアクセスできないとしても、実在的対象ではない。名倉もこの点には注4において気づいている

ただし注意が必要なのは。現実の身体が実在的対象。ではないってこと。たとえば生身の人間と直接向かい合ったとして。そのときぼくに見えてるのはやっぱり感覚的対象に過ぎない。おなじくVTuberにおける生身の身体も実在的対象であるというよりは実在的対象[ママ]と同じ位置にいる。(名倉 2019

 ここでは、おそらく、名倉もまた、「VTuberにおける生身の身体」すなわち、配信者の身体も、実在的対象であるというよりは感覚的対象だとみなしていると理解できる。

 三層理論は、名倉のこの議論をより細かく、誤解のない形で行えるかもしれない。

 まず、パーソンとペルソナの概念を用いることで、名倉の議論における、実在的対象の層をより細かく扱える。鑑賞者はVTuberのパーソンには、一般に直接アクセスできない。しかし、たとえ、直接VTuberのパーソンに直接会えたとしても、鑑賞者がみるのは、やはりパーソンの現れとしての「リアルなペルソナ」なのだ。たとえば、わたしたちは、日々異なる装いをする友人たちと出会い交流するが、わたしたちが知覚できるのはあくまでそれら友人たちの現れであり、友人たちとして一定の一貫性を持って扱われているのは、わたしたちの側の理解に基づいたパーソンとしての対象である。すなわち、実在的対象と呼ばれるものは、配信者そのものではなく、また、配信者と直接会ったとしてもいまだ知覚できないような対象として理解すべきであること。ゆえに、配信者もまた感覚的対象である。

 これは魅惑の議論と関わってくる。以上のようにVTuberを理解すれば、名倉の言い方での魅惑はやや的を外した議論だとわたしに思える。VTuberの感覚的対象が何らかの機能を果たせなくなったとき、それが感覚的対象を介して暗示する実在的対象は配信者ではない。配信者は実在的対象ではなく、あくまで見えないだけのアクセス可能な感覚的対象である。

 さて、それでは、「魅惑」の概念からVTuberの魅力をうまく説明できないとすれば、名倉の議論は重要ではないのか。そうではない。名倉の議論において重要なのは、VTuberの魅力を、ある種の「ずれ」から、そして、上演という概念から議論しようとした点にある。次にこの点をより発展させる形で考察を行おう。

(次ページへ続く)

ヱクリヲ vol.10 
特集Ⅰ「一〇年代ポピュラー文化 〈作者〉と〈キャラクター〉のはざまで」
アイドル/メディア論研究で知られる西兼志と、ポップカルチャー批評のさやわかによる対談【アイドル〈の/と〉歴史】ほか、 一〇年代文化が持つコミュニケーション要素の系譜を総覧した、 【コンテンツ-コミュニケーション発展史 「会いにいける」から「反逆される」まで】他を掲載。
●さやわか×西 兼志「アイドル〈の/と〉歴史」
●高井くらら「コンテンツ-コミュニケーション発展史 〈会いにいける〉から〈反逆される〉まで」
●難波 優輝「バーチャルYouTuberエンゲージメントの美学――配信のシステムとデザイン」
●楊 駿驍「あなたは今、わたしを操っている。――「選択分岐型」フィクションの新たな展開」ほか
特集Ⅱ「A24 インディペンデント映画スタジオの最先端」