楕円幻想としての『ラ・ラ・ランド』(サイン・シンボル篇)


ウロボロス的円環――円の象徴による天と地の聖婚(ヒエロガミー)

 リアルト劇場で『理由なき反抗』を観ていた二人は、かの有名なプラネタリウムのシーンに合わせて唇を重ね合わせようとする。しかしそこで映画は突然断ち切られ、場内は明るくなる。せっかくのムードが台無しになってしまうも、ミアの粋な提案で、二人はその映画の舞台となったグリフィス天文台へ、闇に紛れて忍びこむことになる。「科学の間(Hall of Science)」にあるフーコーの振り子に合わせクルクルと回転運動しつつ【5】、二人はプラネタリウム室へと向かう。

図5 

 

 ここで初めて恋に落ちたと確信した二人は、(一種の抽象表現として)宇宙へ浮かび上がり、そこで遊星と共に三拍子の軽快なワルツを踊る【6】。正に「愛はほがらかで軽やかな動きをその本性としている」[10]ことの視覚的表現だ。そして宇宙を漂う二人の円軌道は、惑星の公転軌道と重なりあうようにして、二重の円運動を開始し、地上と宇宙を円というシンボルを媒介に結び合わせる。そもそもシンボルという言葉が、「一つの品物を二つに分割した割符」を意味し、離ればなれになった二人が再会できるようにするためのものであったことに鑑みれば、ここでの天と地の聖婚(ヒエロガミー)は必然とさえ言えよう。

 

図6

 

 またこの映画を支える二本柱といっても過言ではない「アナザー・デイ・オブ・サン」や「シティー・オブ・スターズ」という楽曲が、宇宙空間を連想させるsun(太陽)やstars(諸星)といった一語をそれぞれ含むことは示唆的だ。また四季の転移が惑星の公転運動と密接に連動しているのであれば、「春」「夏」「秋」「冬」という四パートを持つ『ラ・ラ・ランド』は、宇宙を支配する回転運動を物語自体が反復しているといえるだろう。「ラララ」という澱みない「3」文字を身振りするごとき「3」拍子の軽快なワルツは、LAと宇宙とを繋ぐ上昇螺旋なのである[11]。そもそも「サムワン・イン・ザ・クラウド」において歌われる “Someone in the crowd could take you flying off the ground”(群衆の中の誰かが、あなたを天界に拉し去ってくれる)という一節は、このアップリフトな螺旋運動を告知していたとさえいえる。

 映像と同時にカメラワークの妙も相俟って、地上と宇宙を円で媒介する作用はより強固なものとなる。「サムワン・イン・ザ・クラウド」において、『バードマン』の舞台裏のような心理的迷宮ともみえる室内[12]から飛び出したミアが、青いドレスをはためかせると、カメラは一気に上方へと振り上げられ、画面は夜空(=宇宙)に切り替わる。そしていつのまにかクレーン撮影に移行したカメラは、下方にパンされ、高みから円をなして舞う四人のドレスの女たちを俯瞰する【図7。青(水)、赤(火)、黄(風)、緑(土)という錬金術に必要な四元素を象徴する色のドレスを纏った四人の女たちが円をなし、その円環をぐるぐると動かすさまは、さながらウロボロス(宇宙の蛇)である[13]。

図7

 

 ヨハンネス・ファブリキウスの『錬金術の世界』によれば、錬金術における循環作業(オプス・キルクラトリウム)は、己の尾を噛み円環するウロボロスとしてイメージされたという[14]。この頭で尾を咥え込むウロボロスが、錬金術においては黄道十二宮を巡る太陽の円形の通り道に喩えられるということに鑑みれば、冒頭で歌われる「アナザー・デイ・オブ・サン」という「太陽」を名に冠する曲は、この四元素のウロボロス的循環を予告していたとさえいえよう。

 そもそも『ラ・ラ・ランド』は(比喩的な意味での)死からの再生、挫折からの成長といった「自己発展」を中心的主題とするユング心理学的な(すなわち『心理学と錬金術』的な)読解が幾分可能であるゆえに[15]、心理学―錬金術的な円環(自己変容のプロセス)の象徴としてこのダンスを捉えることは、それほど馬鹿げた話ではないように思える。ミアを演じたエマ・ストーン本人の「(お互いを通じて)最終的にはふたりとも、自分自身のなかにあったのに、あえて近づこうとしなかった新しい世界へと足を踏み出すのだと思うわ」[16]という発言を考慮すれば、この物語が自分の気づかざる部分を統合して成長発展するユング的な「自己実現」を達成するプロセスを描いた寓話と窺い知れる。ユング派心理学者であるマリー=ルイゼ・フォン・フランツによれば、第一質量(マテリア・プリマ)に相当する「アダムを堕落させた蛇」は、「四元素を通して加工されると賢者の石-もうひとつの神-人の象徴となる」といい、「後者は最終的には『丸いもの』(ロトゥンドゥム)として考えられ、宇宙の最も基礎的な構造であった」のだという[17]。この記述を『ラ・ラ・ランド』に引きつければ、四元素の舞踏-錬金術は、堕落形態としての蛇(不完全な円)からロトゥンドゥム(完全な円)にまで陶冶される、すなわち売れない女優の卵から宇宙規模の星(スター)に至るミアの上昇螺旋の自己発展プロセスの象徴と見做すことができよう。

 ここからさらに、映像に現れる円と、それを映し出すスクリーン(矩形)の関係についても考察してみよう。蓮實重彦は『映画の神話学』に収められた「映画、荒唐無稽の反記号」という文章の中で以下のような興味深い指摘をしている。

映画館が球体や円型を排した空間であること。とりわけスクリーンが、横長の矩型として八十年近くの歳月をかけて人びとの視線をうけとめ続け、曲線とか放物線とか螺旋とかを厳しく排するひたすら平坦な四辺型的世界を放棄したためしがないということ。この事実は、映画にとってはとるにたらない偶然として捨象することは困難な、回避しがたい現実を構成している[18]。

 すると矩形のスクリーンに映し出された円というのは、それだけで何かしら象徴的な意味合いを持つのではないか。いみじくも、『世界シンボル大事典』の「円」の項目には以下のような解釈がみられる。「四角形に円を付け加えると、人間の心理はその図形を自然と、人間が本来的に希求する超越的天上界と、現在身を置いているが、記号の協力を得ればただちにそこからの移行を実現できると考えている地上界の間の弁証法的関係のダイナミックなイメージとして解釈する」[19] これは同項目にある、「〈マンダラ〉の四角から円への移行は空間的結晶状態から〈ニルヴァーナ・涅槃〉、すなわち、始原の不確定状態への移行」[20]であるという記述とも響き合う内容で、これにより四角から円への移行とは、地上から天上への移行であることが了解される。それゆえミアを含む四元素の舞踏-錬金術によって描かれたウロボロス的円環は、天と地を繋ぐ世界軸(アクシス・ムンディ)であり、LAを聖なる場所へと変容させる(無意識的な)儀式であったと分かる。ここで矩形と円のテーマをさらに敷衍させるならば、舞台となったグリフィス天文台【図8も、方形の上に半球が置かれた外見をしているのであり、これは天(半球)と地(方形)を媒介するドーム型の教会建築と同じ機能を象徴的に担っていることが分かる。

 

図8.画像は日本語版wikipediaより転載。

 

 ここまでチャゼル・マナーである〈方法としての百科全書/円環知〉、及びそれに交響するようにして現れる天と地を結ぶ円環象徴をいくらか見てきた。「なぜ天は円運動をするのか。天は《知》を模倣するからである」[21]というプロティノスの言葉を裏付けるかのように、『ラ・ラ・ランド』を見るものは、象徴を通じて古代的宇宙の情緒に浸され、プトレマイオス的な同心円宇宙に知らず知らずの間に引き込まれていく。しかしここで問わねばならないのは、『ラ・ラ・ランド』の描くこれらの一見美しい円軌道は、果たしてそのような古代的なロトゥンドゥム(完全な円)なのか、ということである。そもそも〈方法としての百科全書〉が、寄せ集めの断片でフィクショナルな真円を構築する近代的な縫合の術だとしたら、その円にはある種の歪みが刻印されているのではなかろうか。『ラ・ラ・ランド』という仮構された真円は、よく目を凝らせば、楕円というダイアグラムが見せる幻影であったことが知れるだろう。