引き裂かれたアメリカン・ドリーム
『ラ・ラ・ランド』(2016年)を、MGMミュージカルの傑作『踊る大紐育』(1949年)と比較して幕を閉じることにしたい。NYに寄港した「3」人組の水兵たちの24時間の情事を描いた作品で、最後は冒頭とは別の「3」人組の水兵たちがNYの港に降り立つことで幕切れ、という完全な円環構造となっている【図13-14】。『ラ・ラ・ランド』に見出された苦悶と救済、現実と妄想の二焦点からなる楕円のような内在的歪みは、ここでは一切見つからない。またここで注視すべきは、『踊る大紐育』で美脚ダンスを惜しげもなく披露したアン・ミラーという女優が、先ほど『ラ・ラ・ランド』の精神的双子として挙げた(もうひとつのLA的楕円である)『マルホランド・ドライヴ』に、かつての美貌とは程遠い、年老いた大家の役で出演しているということだ。時代形象の円から楕円への変遷を、アン・ミラーという女優の変遷(「かつて美しかった美女」というパラドックス)に、リンチは仮託したのかもしれない。
図13-14.『踊る大紐育』の3人組の水兵。キングが『数秘術』で披歴した「3」と「円」の繋がりは、この物語が24時間というサイクルを経て、また異なる3人組の水兵で締め括られるウロボロス的構造に明らかである。
しかし、そもそもなぜハリウッド黄金時代のミュージカルを模したはずの『ラ・ラ・ランド』は、円ではなく楕円に変貌することになったのだろう、ともう一度よく考えてみたい。今まで縷述してきたものとは別視点の答えが、海野弘の「もうひとつのアメリカン・ドリーム」というエッセーの中にあるように思う。『ラ・ラ・ランド』が、アメリカがイノセントだった頃の、それこそ50s的なアメリカン・ドリームを志向したものだと述べたうえで、海野は以下のように続けている。
この映画を見ながら私はふと、トランプ大統領のことを思った。彼は失われたアメリカン・ドリームをとりもどすことをスローガンにしている。しかしそれは「ラ・ラ・ランド」のアメリカン・ドリームと同じものだろうか。もしかしたら、私たちはこれから二つのアメリカン・ドリームの戦いに入っていくのではないだろうか。[37]
アメリカという国家そのものが、二重の焦点(夢)に引き裂かれた楕円国家であるとしたら? そこから生れる円は、時代精神としての楕円に歪むはずだ。とはいえ、こうしてアメリカが「二つのアメリカン・ドリーム」へ分裂するのに留まらず、その各々の「アメリカン・ドリーム」自体もまた、光と闇の二焦点からなる楕円へと再-分裂しているという入れ子構造を忘れてはならない。映画研究者のグレッグ・タックは、「ラフター・イン・ザ・ダーク」というネオ・ノワールにおける笑いを論じた文章で、デヴィッド・リンチの楕円映画について語る際、以下のように見事にアメリカン・ドリームの本質を突いた。
リンチのシュルレアリスムは、これらの世界[※『ブルー・ベルベット』においてカイル・マクラクランが生きる現実的世界と、デニス・ホッパーが生きる超-現実的世界]を等しくキメラ的で奇妙なものに変え、闇が光のなかに棲みついていることを明らかにする。これら想像上の対立は、現実には同じ……夢の二つの側面なのである――すなわち「アメリカン・ドリーム」という夢の……。[38]
こうして、『ラ・ラ・ランド』におけるプラネタリウムのシークエンスを中心に見た聖数「3」の完全性は、隠された「2」のパラドックスによって打ち砕かれる。楕円が個人を、国家を取り囲む。しかし、それは「不安の時代」の要請する形象なのだ。最後に予言者ヴェンダースの言葉に耳を傾けよう。
両義的な見方のほかに
この国とその夢を見つめる方法がいったいあるのだろうか?
「二つに引き裂かれた」態度のほかに
いったいどんな態度が考えられるだろうか?
ヴィム・ヴェンダース「アメリカン・ドリーム」[39]
後藤護
※本論考における『ラ・ラ・ランド』の画像はすべてLA LA LAND[Blu-Ray](Lionstage, 2017)よりキャプチャーしたものである。
註
[1] ヴィンセント・F・ホッパー、大木富訳『中世における数のシンボリズム』(彩流社、2015年)、15頁。
[2] ホッパー(2015年)、16頁。
[3] ジョン・キング『数秘術 数の神秘と魅惑』(青土社、1998年)、96頁。
[4] キング(1998年)、101頁。
[5] 本稿は円/楕円のテーマ批評の形態をとるが、姉との口論の末に出たセブの「ロマンティックで何が悪い?」、およびミアの歌う「夢みる道化(the Fools Who Dream)」からも明らかなように、『ラ・ラ・ランド』を語る上で「ロマン派」と「道化」の問題は避けては通れない。それゆえこの二つの問題に関しては別稿を立て、ヱクリヲWebにて近日発表する予定(仮題「夢みる道化のような芸術家の肖像」)。
[6] 脱「線」の符丁はレコードの回転にも見られる。セブはセロニアス・モンクの演奏する「ジャパニーズ・フォーク・ソング(荒城の月)」のレコードを何度もかけ直し、そのフレーズを反復し練習し続ける。21世紀にレコードという古色蒼然たる円盤をわざわざ登場させる意味は、50年代ミュージカルの雰囲気を出すためであるとか、セブのジャズ・イデオローグ的なレコード原理主義の側面を描き出すためであるとか、そういった意識的な演出はさておき、無意識なレベルでは、円環する運動/時間の象徴表現となっているといえるだろう。例えば同じくポストモダン・ミュージカルであるラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・サ・ダーク』でも、レコードの回転が、ビョーク演じるセルマの殺した男トムの時間を巻き戻し、蘇生させ、二人がクルクルと踊り始める契機となっていた。
[7] 佐藤友紀「ミュージカル映画に愛をこめて」(『キネマ旬報3月上旬号』2017年、15頁)。
[8] 『キネマ旬報3月上旬号』(2017年)所収。
[9] ハーマン・メルヴィル『白鯨』の「百科全書的エクリチュール」については高山宏の諸々の論考に詳しい。とりわけ『アリス狩り』所収の「メルヴィルの白い渦巻き」は重要。
[10] 中沢新一「愛の天体」(ダンテ・アリギエーリ、寿岳文章訳『神曲 煉獄篇』集英社、2003年、483頁)。
[11] チャゼルの次回作は人類初の月面着陸を達成したニール・アームストロングの伝記映画『ファースト・マン』だというが、彼の想像力が宇宙へ向かうのは『ラ・ラ・ランド』のギャラクシー感覚が掴めた者からすれば「ああ成程」という発展様式である。
[12] コレオグラファーのマンディ・ムーアが、本作を “Birdman meets Singing in the rain”(『バードマン』と『雨に唄えば』の出会い)と絶妙な喩えをしている。
[13] 続いて「サムワン・イン・ザ・クラウド」は夜のパーティー・シークエンスに移るが、そこでカメラがプールの中心にダイヴする(おそらく『ブギーナイツ』の引用)。そこを軸にくるくる自転し始めたカメラはプールサイドを映し続け、回転数が最大値に達した瞬間に、振り切れるように夜空に打ち上がる花火にパンされる。肝要なのは、ここでも円運動がそのまま上昇螺旋を描いてギャラクシー感覚へ向かうということ。地上の円環と宇宙の円環は、映像的に結びあわされるのだ。
[14] ヨハンネス・ファアブリキウス、大瀧啓裕訳『錬金術の世界』(青土社、1995年)38頁。
[15] セブは失恋から立ち直り夢を叶え、ミアはオーディション恐怖症から立ち直り夢を叶える。それぞれの挫折(ニグレド)と成長(ルベド)が描かれる。
[16] 「エマ・ストーン インタビュー」より(『ラ・ラ・ランド』劇場用パンフレット所収)。
[17] マリー=ルイゼ・フォン・フランツ、秋山さと子訳『時間‐過ぎる時と円環する時(イメージの博物誌12)』(平凡社、1982年)27、62頁。
[18] 蓮實重彦『映画の神話学』(泰流社、1986年)、186頁。
[19] ジャン・シュヴァリエ+アラン・ゲールブラン、金光仁三郎ほか訳『世界シンボル大事典』(大修館書店、1996年)、151頁。
[20] シュヴァリエ+ゲールブラン(1996年)、150頁。
[21] シュヴァリエ+ゲールブラン(1996年)、150頁。
[22] このあたりの事情は、楕円宇宙の発見という「科学」が楕円の「詩学」を生み出したことを縷述したFernand Hallyn, (tr.)Donald Leslie, The Poetic Structure of the World: Copernicus and Kepler (Zone Books, New York, 1990) に詳しい。
[23] Jennifer Vineyard, “Damien Chazelle Reveals th Movie That Influences La La Land’s Ending” (January 5, 2017).
[24] 花田清輝『花田清輝著作集Ⅰ』(未来社、1975年)、170-171頁。
[25] 草森紳一『円の冒険』(晶文社、1977年)、291頁。
[26] 花田(1975年)、172頁。
[27] Special Features – Ryan and Emma: Third Time’s the Charm, LA LA LAND[Blu-Ray](Lionstage, 2017).
[28] 菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評:世界中を敵に回す覚悟で平然と言うが、こんなもん全然大したことないね(「リアル・サウンド音楽部」)(http://realsound.jp/movie/2017/03/post-4278.html)
[29] 町山智弘「ラ・ラ・ランドの扉を開ける鍵」より(『ラ・ラ・ランド』劇場用パンフレット所収)。
[30]【映画評書き起こし】宇多丸、『ラ・ラ・ランド』を語る!(2017.3.11放送)
(https://www.tbsradio.jp/128901)
[31] 蓮實重彦『光をめぐって 映画インタヴュー集』(筑摩書房、1991年)、231頁。
[32] 高山宏『アリス狩り』(青土社、1995年)、231頁。
[33] この映画も朝に始まりその日の夜明けに終わる24時間の円環を描く。
[34] 海野弘『ハリウッド幻影工場 スキャンダルと伝説のメッカ』(グリーンアロー出版社、2000年)、211-214頁。
[35] ケネス・アンガー『ハリウッド・バビロンⅡ』(リブロポート、1991年)、124頁。
[36] 前田敦子「私はこう観た!『ラ・ラ・ランド』」(『キネマ旬報3月上旬号』2017年、16頁)。
[37] 海野弘「もうひとつのアメリカン・ドリーム」(『キネマ旬報3月上旬号』2017年、33頁)。
[38] Greg Tuck, “Laughter in the Dark: Irony, Black Comedy and Noir in the Films of David Lynch, the Coen Brothers and Quentin Tarantino” in Mark Bould, Kathrina Glitre & Greg Tuck, NEO-NOIR (Wallflower Press, London & New York, 2009), p.161.
[39] ヴィム・ヴェンダース、松浦寿輝訳『エモーション・ピクチャーズ』(河出書房新社、1992年)、249頁。
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