「映画」というフィクションについて
――濱口監督が原作を読んで映画にしようとして脚本を書き始めたときから、麦と亮平を一人二役にするというのは想定していたんでしょうか。
濱口 そうですね。この原作をやるんであれば一人二役であることが一番経済的であろうし、僕自身もより楽しめるものになるだろうという気がしました。
――東出さんの一人二役を観ていて、『天国はまだ遠い』での亡くなった女子高生の霊が憑依するシーンを思い出しました。絶対にありえないことを、映像上で演技を通じて成立させることに対して特に関心をお持ちですか。
濱口 映画はカメラで現実を記録することによってできています。予算が大きくなければ現実を改変することもままならないので、僕がいるような制作状況においてはどうしたって映画は現実やそれが引き連れてくるリアリティと最大限付き合っていかなければいけないというところがあります。一方で目的はあくまで現実から飛躍したフィクションを作ることなので、リアリティとの付き合い方の枠組みを少しずらしてみたり、緩めたりすることをしたいと常に思っています。「演技」は現実のからだを使って、フィクションをつくりだすわけなので、その可能性そのものです。
『寝ても覚めても』の原作に惹かれたのも、細密な現実描写と同時に、「全く同じ顔の男」という荒唐無稽な設定があったからです。麦も亮平も、現実的には明らかに誰がどう見たって東出さんであるにもかかわらず、別の人間なんですと映画では強弁する。あからさまな嘘なんだけど、それを信じるところから始めてもらっていいですかと観客に迫る。それを受け入れた観客にとっては、この映画は非常に面白いものになり得ると思っています。観客の想像力による参加というのは、僕が作るような映画を現実から飛躍させてくれる鍵だとは常々思っていますね。
――先ほどのお話にもありましたが、濱口監督はジョン・カサヴェテスからの影響を公言されています。カサヴェテスの映画は『ハズバンズ』(1970)や『ミニー&モスコウィッツ』(1971)で夫婦がよりを戻すように、事件や事故が起きても登場人物たちがスタート地点の日常/現実に戻ってくる印象があります。一方、濱口監督は『ハッピーアワー』や『PASSION』のように、事件や事故を経た後に最初の日常に戻ってこない、日常の現実が壊れていく作品が多いと思います。なぜそうした変化を起こすのでしょうか。
濱口 なるほど……作り手はみんなそうだと思いますが、自分のやっていることがどういうことなのかということをちゃんと認識しているわけではありません。その都度都度、状況に規定されて演出や物語の発想は生まれてきます。前にやったことであれば、少し違う形で前よりうまくやってやろうと思うだけなんです。
ただ、どんな作品でも基本的には作品で描かれていることは日常に起こりうるし、現実の世界であるという認識でやっています。ただ、現実や日常はけっして強固な枠組みが守られているわけではなくて、むしろこのようなことが起こり得ることが現実や日常であるという認識なんだと思います。
――『寝ても覚めても』だと麦という登場人物、あるいは麦と出会うこと自体に、一種の非現実性があります。『ハッピーアワー』では鵜飼がそういう存在だと思います。もしそう考えられるなら、濱口監督自身に通底したテーマとして現実の中の非現実性があるのではないでしょうか。
濱口 前に言った、僕が演技に求めている役者の「はらわた」というのは日常にはあくまで現れないけれど潜在しているものというイメージです。だから僕は、この現実というものを実際に現れているものと潜在しているものが一つになったものだというように理解しています。なので、麦は非現実なものというよりも、潜在的なものに属しているのではないでしょうか。朝子がそれ(麦)に反応するということ、朝子がすんなり恋に落ちるということは、朝子もそもそもそういう人なんだという気がします。ただ、繰り返しますと潜在的なものは非現実なのではありません。あくまで現実の一部なんです。
――『寝ても覚めても』を観て、黒沢清監督の『CURE』(1997)を思い出しました。『CURE』は破壊衝動のようなものが伝染していく話ですが、『寝ても覚めても』では麦が朝子にしたことを、同じように朝子は亮平にしてしまう。潜在していたものが表に出て、伝染していくところが似ています。
濱口 『CURE』は大好きです。本当に素晴らしい映画だと思っていますし、その影響を受けているということでまったく問題ありません。『CURE』の間宮のようなキャラクター、今回の麦とか『ハッピーアワー』の鵜飼とかは物語内の現実に働きかけ、潜在的なものを引き出す「演出家」として必要という感覚があります。
さっきも言ったように映画は現実を写し取るものなので、リアルではないものを描くときに基本的に分が悪いんですよ。だからリアリティに沿ったものを作るときに、ある程度の力を発揮しやすいのが映像表現だと思うんですが、ただリアリティに沿っているだけではなにも起こらなかったりして、さして面白くない。そこに対してリアリティそのものを壊さずに、だけど現実にはあまり起こらない何かを入れることで、描かれた世界全体のリアリティがある程度保たれたまま、単にリアルな感覚に寄り添うだけでは行けない次元までいけるという気がしています。
本当は「演出家」みたいなキャラクターを物語の中に出さずに、そこまでいけたらそれが理想なのかもしれませんが、まだ自分のなかで演出や作劇として手がない。カサヴェテスはそういうのがなくてもその次元までいっているので、それが一つの理想ではあります。
――『ハッピーアワー』が顕著だと思いますが、女性の描き方が濱口監督は特徴的であるように感じます。今回の『寝ても覚めても』は観客によっては女性不信になってしまう映画でもあると思うんですが、女性観・女優観を伺ってもよろしいでしょうか。
濱口 『寝ても覚めても』を観て女性不信になってしまうなら、その人は女性と付き合うべきではないのかもしれません。女性に限らず他人を信じるということは、その他人の自分への「忠誠」を信じるということなのでしょうか。私はまったく違うと思います。格別に「女性像」というものは持っていません。一人一人まったく違うのだな、という認識を持っています。なので、できるだけ「一人一人まったく違うのだ」ということが映画に描かれることが望ましいと思っています。そのまったく違う一人一人が一緒にやっていくことには限りない困難があると思います。だからこそ、一瞬一瞬の通じ合いが奇跡のように思われることもあると思っています。そのことをそのまま映画にしたいと常々考えています。
濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ)
……1978年12月16日、神奈川県生まれ。2008年、東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作『PASSION』がサン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスに出品され高い評価を得る。その後も日韓共同制作『THE DEPTHS』が東京フィルメックスに出品、東日本大震災の被災者 へのインタヴューから成る『なみのおと』『なみのこえ』、東北地方の民話の記録『うたうひと』(共同監督:酒井耕)、4時間を超える長編『親密さ』、染谷将太を主演に迎えた『不気味なものの肌に触れる』を監督。15年、映像ワークショップに参加した演技経験のない女性4人を主演に起用した5時間17分の長編『ハッピーアワー』を発表し、ロカルノ、ナント、シンガポールほか国際映画祭で主要賞を受賞。一躍その名を世に知らしめた。自らが熱望した小説「寝ても覚めても」の映画化である本作で、満を持して商業デビュー。第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選ばれるという快挙を果たし、世界中から熱い注目を集めている。
〈上映情報〉
『寝ても覚めても』
9月1日(土)、テアトル新宿、ヒューマントラストシネマ有楽町、 渋谷シネクイントほか全国公開!
■やがて来る〈危機〉の後のドラマ――濱口竜介論
■連載「新時代の映像作家たち」バックナンバー
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