『ナミビアの砂漠』山中瑶子インタビュー


『あみこ』(2017年)の衝撃から7年、山中瑶子が帰ってきた。カンヌ国際映画国際批評家連盟賞を女性監督として史上最年少で受賞した彼女の新作『ナミビアの砂漠』が9月6日に公開された。映画を見れば、単に海外で評価されたニッチな作品ではないことが一目瞭然だ。カサヴェテスのように、ユスターシュのように俳優の身体が、一貫しない感情が脚本とキャラクターを食い破る。映画が壊れそうになる不安に拒否感を覚える観客もいるかもしれない。それでも余りある自由と熱で彼女は映画を遊びまわる。このメディアはまだ決して古びない。人間の中に眠る奔放な自然と、それを捕まえることのできるこの形式の未来に山中瑶子とともに迫る。(聞き手/構成 伊藤基晴)

演出:セリフのアドリブは好まないのでぜんぶ脚本通りです

――『ナミビアの砂漠』は元々原作ものの企画があったところ、撮影半年前にインドへの旅行中に企画を降りることを一度決心し、紆余曲折を経て主演の河合優実さんを残してオリジナル企画に代わったものだと聞いています、完成した映画を見てあまりに自由な演出に驚きました。どこまでが元々決まっていたことで、どこまでが即興的に決まったことなのでしょうか。

山中   私は基本的にセリフについては、絶対にアドリブを好まないので、ぜんぶ脚本通りです。直前まで書き直しているシーンも多くありますが。セリフではなく動きのアドリブならいくつかありました。後半で金子さん演じるハヤシがカップラーメンを食べているときに起こる喧嘩のシーンで、金子さんが河合さんの元に移動したカップラーメンをとり上げて逃がす動作があるんですけど、あれは私が演出したものではなく 金子さんがその場で自分でやったことでした。河合さんの細かい仕草含め、そういうのはいくつかありましたね。

――主演の河合優実さんはセリフがないシーンでも、仕草に満ちていると思いました。何かを食べるシーンや、独特な歩き方もすべて意図されて作られたものなのでしょうか。

山中   「キャラクターは歩き方に出る」ということはリハーサル時に話していて、こう歩いてほしいとかは、ざっくり言いましたが、あんまり具体的に言い過ぎないようにもしていました。動きの機微は河合さんが自分で考えてきていることも多かったです。河合さんは僅かな指示でかなりこちらの意図を理解してくれていたように思います。本人から「今のはやりすぎちゃってませんでしたか?」と、確認してくれることもあって、エンターテイナーといいますか、サービス精神が旺盛な人だなとも思いました。

 リハーサルは事前に念入りにやっています。俳優たちはいつも、わからないことがあっても私に尋ねるより先に「まず実際にやってみます」という感じでした。やってみて、そこで私が(セリフを)聞いていて、言いにくそうかどうか、セリフが役の言葉ではなく私の言葉として聞こえるようになってないかとか、そういうところを慎重にチェックしました。違ったら書き直すし、 動きに無理があるように見えたら変えるし、どうすればいいかというのはリハーサルでかなり見えてきました。ただ、この人はこういう人だからこういう行動になりますというような感情の話は全然してないですね。

――現場で共通言語をつくるのに役立った作品があれば教えてください。

山中   ジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』(2013年)をみんなに見ていただきました。今回喧嘩のシーンを作るのに、安全面も含めアクション部の方に入っていただいたんですが、そもそも映画のアクション部はやっぱり基本的に、暴力をアクションとしてかっこよく、そして恐ろしく見せる振りをまずつけてくれるんですよね。

――殺陣みたいな感じでしょうか?

山中   そうですね。今回目指していた喧嘩における滑稽な暴力のニュアンスを共有するのがすごく難しくて。迷いもありましたが結局、見せたほうが簡単だろうと思い、リハーサル中にみんなで『ラブバトル』の少しのシーンを一緒に見ることになりました。結果的にそれが意図を伝えるのに一発でわかりやすかったのだと思います。

――スタッフさんのことも聞かせてください。事前資料には、シーンの繋ぎがちぐはぐな照明もそのまま残したというエピソードが挙げられていました。スタッフワークにもいくらかその場で決まる部分はあったのでしょうか。

山中   カメラマンの米倉伸さんと話していたのは、これはカナを追う映画だから、河合さんは決まった動線の中では自由に動いていいし、立ち位置を完全に守らなくてもいいということでした。その上で米倉さんは軽くて機動力のあるカメラを選んでくれました。すると初日は体力があるので手持ち撮影にも安定感があるんですけど、撮影を重ねていくうちに疲れてきてだんだんどうしても腕がぷるぷるしたりして、それが画面に出ていたりするシーンもあります。これは結局、人の手でやっていることだからよしとしようということになりました。この映画の照明においては、「カット単位で繋がらない面白さがあってもいいよね。繋げることを優先させると、照明的な強度を落とさざるを得ない瞬間が出てきますが、今回はそれを無視して光の良さを目指しましょう」という話を、その場でというよりは事前に決めていたと思います。

 照明のことは、私はまだあんまりよくわかってないのでカメラマンと照明の方に委ねていました。つなぎのことを米倉さんが照明の秋山恵二郎さんにもお伝えしたら、「きっちりこのシーンはこのフィルターみたいなことはあまり気にしなくていいかもね」ということになり、秋山さんは、照明助手で手伝いにきていた大美賀均さん(濱口竜介監督『悪は存在しない』(2023)主演)にも「フィルターは、好きな色でいいよ」とか伝えて、大美賀さんは大美賀さんで、緑か紫かなんか持ってきて「紫? 紫は違うのか?」なんていうやりとりをしていました。すごく自由で直感的でいいなと心地よく思っていましたね。大美賀さんはもう映画作りのなかのいろんな仕事をやってきていますけれど、俳優もやるし車両もやるし助監督もやるし監督も。本業は監督ですけど。だからそういう委ねられる指示にも気負いなくノリノリでやっていた印象があります。秋山さんももちろんプランは作ってきているんですけど、その中で崩しているのか、その時に感じたことを大事にしているのかしていて、とにかく自由度が高かったですね。

©2024『ナミビアの砂漠』製作委員会

――それは、撮影や照明に限らず、現場自体に自由に発言していい空気があったということなんでしょうか。

山中   今回初めて「何でも思いついたことは言ってください」と、準備段階からみんなに言いました。なぜかというと、これまでいくつか撮影現場を見てきて、例えば助手の方たちが現場でいつも、仕事だから連れて来られたみたいな顔をしているのが気になっていたんです。せざるを得ないのだと思いますし。できれば立場は関係なくみんなに思ったことや気づいたことがあったら言ってほしかった。経験上、ミスとかがあったときにそれに気づいているのに言えない立場の人というのは多分いて、例えば他部署のことは口を出さなかったりするんですけれど、そういうのをすぐに言ってもらわないと絶対映画にとっては良くないと思っていました。それで「気づいたり思いついたりしたら言ってください」とは言っていたんですけど、そうしたら本当にみんな、言ってくれるようになって「カナはそうじゃないと思います」なんて言う人がいたりして、それはすごく面白かったです。美術の小林蘭さんから「亀を出したいんですけどいいですか」と言われて、亀なんて飼うかな?と最初思っていたけれど、話していくうちに「カナは自分から飼いたいと言い出しながらも世話をしなさそう」となって、すごくキャラクターを感じる!と感動したり。みんながカナのことを知っていて、考えていましたね。

――スタッフさんがちょっと話したエピソードとかが脚本に盛り込まれたこともあったと聞きました。撮影中にもそういうことはあったんでしょうか。

山中   撮影中に新しいエピソードを盛り込むことはなかったんですが、私が何かに迷ったらすぐ誰かに訊いていました。「わからないからどうしたらいいかな」とか「なんかいいアイデア思いつきませんか」と口にしたら、みんなが「これはどうですか」なんて言って助けてくれるから、「いいじゃん!」と思ったら採用するし、「それは違うかも」と思ったとしても、「じゃあ、なんで違うと思ったのだろう」と考えてみると、答えが見つかっていくような感じでした。

 今回は特に、最初から私が全て決めたことにみんなが従って動いてもらうのでは、時間が間に合わないというのが一番大きな動機でした。私1人だけだとよく悩んで、時間がかかるので。あとは監督が独裁的な映画の作り方はもう自分が楽しくないという考えもここ数年で感じてきていました。意見が多いと混乱を招くようなこともあるかもしれないけど、最終的な判断さえ自分がきっちりすれば、意見があらゆる角度から集まることはすごくいいことかなと、やってみて思いました。

――今のお話を聞く限り、編集はかなり大変だったんじゃないでしょうか。

山中   撮っている間は確かに、このままで大丈夫かしらと思っていました。どのシーンも脚本時の想定より面白いし、みんなのお芝居がずっといいし、充実感しかない。でも撮影期間からこんなに満たされていたのも初めてで、逆にそれが不安で「繋がってどうなるんだ?」と。河合さんとも、「シーン単位ではめちゃくちゃ面白いけど、映画ってシーンだけ面白くても一つの繋がりとして面白くないといけないですよね」と話したりして。みんな撮影現場で見ているものが面白すぎて、日を追うごとに全体像を具体的に想像できなくなっていたところがあると思います。 

脚本:言葉がわからないことが救いになることもある

――見ている時間はとても楽しかったんですが、終盤になるにしたがって、これはどうやって終わるんだろう? とはらはらしました。最後のシークエンスはセリフが印象的でした。あのアイデアはどのように思いついたんでしょうか。

山中   他人の言葉が響かないカナに、言葉が響くようになる話だというストーリーラインが脚本を書きながらなんとなく見えてきていて。結局、コミュニケーションをやっていくしかないよね、という映画だとは思っています。カナは全然会話が成立しなかったり、聞く耳を持てなかったりするけど、最終的には言葉をもって、何かを伝えたり伝えなかったりしていかなきゃいけない。そのフェーズの移行みたいなことを特にやりたかったのが終盤のカナが仕事を辞めた後の展開です。意味や言語が溢れる世界においてうまく生きられないカナにとって、そこでわからない言語があることが救いだと思っていました。言葉を全部理解しても、会話が成立するわけでもないですけどね。

――言葉が分かるときでも、意図が必ず伝わるわけじゃないみたいなことでしょうか。

山中   同じ言葉を使っていても受け取り方が違ったりするので、言語ってそんなに簡単なツールでもないなと思い知ることがあるけれど、それでも言葉で結局伝えたり分かり合ったりしなきゃいけない世の中ですよね。だから、逃げ場じゃないけど、よくわからない言語があることで救われたりもするなぁと思ったんです。外国の空港に降り立ったときに、知らない言語にまぎれることでどこかほっとするような感覚。自分の知らないところで他の人間が勝手に生きているんだなということの安心感というか。ラストシーンのあの状況においてハヤシとカナの喧嘩の最後に、今の地平とは全然違う外部が入ってきたらいい、というのは最初から思っていました。

――二人ともがフェアにわからない状況ということでしょうか。

山中   そうですね。「聴不懂(ティンブトン)」って、「聞いてわからない」っていう意味なんです。もともとの脚本ではあのシーンの後にまた別のシーンがラストシーンとしてあったんです。もとのそれはちょっとバッドエンドな感じだったんですが、撮影していく中でこの二人はあんまりバッドじゃない方がいいと思って、そのシーンはやめました。

©2024『ナミビアの砂漠』製作委員会

――本当はもっと上映時間が長かったと聞いています。でも、あのシーンがラストにあってとてもしっくりきました。最後のケンカのシーンは印象的で、それまでの喧嘩は理由が描かれるのに、最後だけはいきなり喧嘩から始まる。だからなんとなく、劇中でこの二人は別れないまま終わるんだという印象を受けました。それはハッピーエンドということなんでしょうか?

山中   そうですね。いつかは離れるかもしれない、もしかしたらそれはすぐ来るかもしれないけど、もう少しこうしてやっていくだろう、と二人を撮りながら感じたんですよね。人によっては二人のことを、そもそも全然気が合ってないから同棲するなよ、と言う人もいると思うんですけど、長い人生でそういう時が別にあってもいいだろうというポジティブな気持ちで私は描いています。

――中国語のシーンは、山中監督のお母さんと監督自身のルーツに由来する(参照: https://ecrito.fever.jp/20180901221644 )のかとも思ったのですが、お話を聞く限りそうでもないのでしょうか?

山中   今回、撮影前にいろんな人に脚本を読んでもらった際に、ある人に「中国ルーツのくだりは今ここで出すのはもったいないとは言わないけど、いつかちゃんとやったら?」って言われて、他人から見るとそういう考え方もあるんだ、と思いました。私の中には別にルールもこだわりもなくて、今回の映画に自分から出てきたアイディアなり経験なりがハマりそうだから入れたくらいの感覚だったんです。というのも、私も河合さんもミックスルーツで、脚本を書く前にお会いして色んなことを話す際に、「ミックスルーツの所在のなさってあるよね」という話をしたことを思い出したりして。今どき珍しくないし、言わないだけで多く存在していると思うので、そこまでの深い意味もないんです。

――そもそも脚本自体、どうやって書かれるのでしょうか。

山中   細かいことを考え始めると、すぐに諦めて書き進められなかったりするので、自分の言葉と役の言葉を明確に分けずに、とにかく一気に書きます。分量が書けてから、あらゆることを精査していきます。最初に書くときはあんまり何も考えてないです。

――じゃあもうその散文として書くというか、シナリオとしては書かないということでしょうか。

山中   今回は時間もなかったので、プロットを練るようなことはせず、まず一枚の紙にやりたいことの要素とか思いついたことを書き出してマップみたいに可視化していきました。そこで映画になりそうな筋を見つけてからシナリオの形に起こします。書けるとこからバーっと書くんですけど、足りない部分がまだあって穴だらけだけど全体像がなんとなく見える状態になったところで、埋めなきゃいけない穴を埋めるために、いろんな人の話を聞きに行って助けてもらいました。たとえば、恋愛における権力関係や、不安定な時期についてなど、自分一人の頭ではまかないきれないところは、知り合いのカップルとか、紹介してもらった全くの他人に聞いたり。出会いから別れまで5時間くらい話してくれる人もいました。年下のスタッフたちとも話をしてもらいましたね。

――それは結構、活きたんですか?

山中   活きます、活きます。人から聞いた話の中で、「全然知らないな、その感情」みたいなものにも頻繁に出会いました。だから自分の知らない感情や行動を聞いたら、「こういうことってよくあるのかな」とまた別の人に聞いて話をしたりしました。

――なるべくいろんなふるいにかけた。

山中   そうですね。これはどうやらこの人固有の感情らしいけど、私にもわかるなとか、この人の固有の感情が私には全然わかんないけど、別の人にはわかるみたい、といったふうに。特に、普段言わない聞かないようなことなどを教えてくれる人はありがたかったですね。実際、他人の恋愛の話に多くの人は興味を持たないし、私もこんなに聞いたのは初めてだったのですが、みんな多くを語ってくれて、派生して恋愛以外の話も聞けたりして楽しかったですね。

――人は恋愛の話をなかなか聞きたがらないというのはわかります。でも映画には、そういう与太話の野暮ったさがぜんぜんないですよね。キャンプのシーンでは、いろんな人が出てくるのに登場人物を映画が全く紹介しませんよね?

山中   紹介か……。どういうことですか?

――たとえば、ハヤシのお母さんが最初に出てきますよね。それからお父さんがぬるっと出てきて、多分両親なんだろうけれどはっきりそうだとわかるまで少し時間がかかる。あと同い年ぐらいの女性が何人か出てきて、姉妹なのか友達なのか従兄弟かなにかなのかはっきりしない。キャラクターが登場してから素性が明かされるまでの滞空時間をとても長く感じました。

山中   人間は急にこの世に生まれてきて人生をやっていかなきゃいけないじゃないですか。それは理不尽だ、みたいな気持ちが常にあるから、自分のそういうところが出ているのかもしれないですね。

――理不尽さをそのまま出す必要があるということですか?

山中   なんだろう。急にぽっと生まれちゃって、人生を通して目の前に現れたいろんな人間と関わらなきゃいけないということが不思議なんです。宇宙人の気持ち。

――カナが宇宙人ということですか?

山中   私が、です。だからそういう人間の出方になっているのは描いている私の意識の表れなのだと思います。と、今急に思いついたことを言っているだけなんですが。生きている中でこちらが望んでもいないのに急に色んな人と出会って、この人は運命の人かもしれないみたいなことを思って、ある時出会った人と結婚したりしてる人も多いわけですけど、一方でそういう親密な関係性になる相手すら圧倒的な他者なわけで。目の前のこの人間と私とは一体なんなんだということをよく考えます。あれ、なんか怖い話になってますか?(笑)

――いや、面白いと思います。その話だけ聞くと不思議なところもある気がしますが、映画を見るとそのリアリティがそのまま出ていますね。お話を聞きながらしっくりきました。

山中   だからカナの、っていうよりは私の体感としての、生きていていろんな人に出会えていいことも悪いこともあるけれど、そもそもこれは別に望んでないという気持ちです。つまり、生まれてくることをそもそも望んでいないみたいな気持ちがベースにあるから、そういう人間の登場の仕方なのかもしれません。誰にも出会いたくて出会ってない。それは自分にとっていい人でも悪い人でも関係なく、できれば全員に出会いたいし全員に出会いたくない。たまたま出会ってしまったことに対する、それを良いと捉えるか悪いと捉えるか以前の何かゴロッとした感覚が常にあります。抽象的な話ですが。 

引用:映画にはかなり嫌な人も出てくるけど、存在は肯定したい

――ドワイヨン以外にも、今回参考にした先行作品があれば聞かせてください。

山中   カサヴェテスは、即興演出の影響よりは、やっぱりジーナ・ローランズが好きかな。それはジーナ・ローランズとカサヴェテスの信頼関係のもとに成り立っていることでもあるけれど。『ラヴ・ストリームス』(1984年)のジーナ・ローランズは最高だと思っているので、それは河合さんにも見てもらいましたね。

――『あみこ』のインタビューの時にクレール・ドゥニのお話もあがっていました。ドゥニの映画も俳優さんにかなり依存する印象があります。ジーナ・ローランズのお話を聞いてかなり納得しました。

山中   ドゥニも大好きですね。基本的に、描かれている女性が魅力的な映画は好きになってしまいます。ピアラもそうだし、ロウ・イエもそう。そういう意味では、『ナミビアの砂漠』を作る動機は特に、河合さんをどう魅力的に撮るかということが先にあって、物語が前提ではないです。

――カンヌ映画祭での反響についても聞かせてください。

山中   カンヌに限らず、日本での試写とかを見た人の感想も含めて思うのは、カナを破天荒でエキセントリックで特殊な人だと思う人と、あれが普通の状態であると思う人に分かれますよね。あとは普通に嫌悪感を感じる人もいる。カンヌだと、やっぱりカナと同い年ぐらいのパリから来た女の子とか中国の若い女性とかが、すごく熱心に反応してくれました。共感だけで映画を見るのは、私はあまり好きではないけれど、カナの状態を、生きている上で普通に起こることとして見てくれた人が多かったのは嬉しかったです。

――リアリティを持って見られるものだっていうことですね。

山中   映画の中でこういう細部だったり、こういう人間の状態だったりを見ることが他ではあんまりないから、おかしな気持ちになる人もいるんでしょうね。人が他人にあんまり見せない姿をカナを通じてずっと見続けることに、居心地の悪い思いをする人も多いんだと思います。反対に、描かれていることを経験しているいないに関わらず自分たちのこととして見てくれる人もいて。描かれていることが異常なことではなく、普通のことなのかもしれないと思ってくれる人がいることにはとても意味を感じました。

――内容の話に戻るのですが、 演出も語りも、すごくカナという人を肯定も否定もしてないと感じました。だからカナは非常識な人として描かれるけれど、彼女が常識に馴染んで成長する話でもない。監督もやはり、彼女を肯定も否定もしていないのでしょうか。

山中   映画として映す際の距離感は肯定も否定もしないけど、私個人は友達にカナがいたら全面的に肯定はします(笑)。映画においては最終的にカナも自分を客観的に見つめるようになる話だから、 そこに肩入れはしない。そっとしておくみたいな感じですね。

©2024『ナミビアの砂漠』製作委員会

――ジャン・ユスターシュの映画も参考例にあがっていましたね。ユスターシュの映画にはかなり不快な人がたくさん出てくるものもあると思いますが、そういう人への肯定感みたいなものに通底する部分を感じました。また、女性でそういうある種不快な人が出てくる映画は少ないですよね。

山中   そうですよね。ユスターシュの映画にも、「本当になんなの?」と腹が立つ人、かなり嫌だなと感じる人が出てくるけれど、でも「実際にいるしな」という意味での存在の肯定を感じます。行いの悪質さはダメでも、その人間自体を否定はしない。

――それがカナに対してもありますか?

山中   存在を全肯定しても、個別のやっていることについてそれぞれ肯定/否定というのは自分の中であります。カナのように女性でかなりダメだろうっていう人が出てくる映画が観たいし、もっと作られた方がいい。悪くて汚いことが描かれることは、存在としては一応肯定されることになりますから。世界が清廉な女ばかりなわけがないので、どんどんダメな女性を映画は描くべきです。

――それに限らずですが、これからやってみたいジャンルはありますか?

山中   それこそジャンル映画はやってみたいです。ホラーとか。アクションはちょっとカット割りが苦手なので、難しそうですけど。あと刑事物もいつかは。

――さっきピアラの話が出たので、 山中監督が撮った刑事の話とか伝記物を見てみたいと思いました。

山中   確かに伝記物はやりたいですね。伝記物なら男性がいいですね。これまでは女性を撮ってきたので、男性主人公をいつかはやるのかな、いつやるのかなとは考えます。強くこれをやりたいというものがいつもないので、自分が今後何を撮るかについて他人事のように思っているところがありますが、伝記だったらじっくりその人のことを考えて映画を作りやすいかな。

――時代劇とかもありですか?

山中   時代劇もやりたいです。でも日本にはお金がないですね。鹿児島の知覧に行ったときに特攻隊を題材にしたアイデアを思いついたんですが、日本だと誰も出資してくれないような怒られそうな内容なので、いつか海外製作でやりたいです。

――ドゥニの『美しき仕事』(1999年)みたいなのが撮れたら面白いのかなって思いました。女性にしかできない男性社会の話にはきっと需要があるとも思います。

山中   そうですね。軍隊とか、やっぱり組織とかにはすごく興味があります。 でも人が怒っちゃうようなことばかりまず思いつくので、冷静に引き算はしないといけないですね。

――   今後、また楽しみですね。本日はどうもありがとうございました。(了)