食べる女
おそらく町田駅だ。変な女が歩いている。建物の外壁にはマルイ百貨店のロゴがあしらわれている。ペデストリアンデッキは小田急とJRの駅舎をL字につなぐところだろう。カメラがズームする先で、人の波から一人の女は浮き上がる。バスターミナルのある地上階へ降りていく女が、汗を拭いているのか、日焼け止めを塗っているのかぺたぺたと首を触る。手も、足も、首も自分の身体のはずなのに、すべて子どもの着たサイズの合わない服みたいに彼女は絶えず乱暴に振り回す。これが主人公のカナだ。
カナはずっとなにかを食べている。食事のシーンだけではない。ガムだかグミだかをくちゃくちゃ噛み、キッチンではつまみ食いして、食べていない時にもタバコを吸ったり、酒を飲んだり、飴を舐めたり、ストローを啜ったり、キスをしたり、吐いたり。いつも口に何かを詰めていないと気が済まないかのようだ。演じる河合優実という女優は、切長な目に筋の通った鼻のどちらかというと涼しい顔をした美人だが、よく見ると唇だけはぼてっと分厚くてやけに目立つ。
カナは同棲相手のホンダに飽きている。筋はきわめて単純だ。浮気相手のハヤシがカナに彼氏と別れてほしいと持ちかけ、彼女も乗り換えの口実を探している。ホンダが出張先で上司の誘いを断れず風俗に行ったことを告白すると、あっけなくそれは実現する。
カナとハヤシがシーツにくるまって二人の暮らしを思い描くやりとりが、清やかな秘めごとを暗示する。そのとき、これはポルノではないので身体を重ねる二人の仕草をカメラは決して直接捉えない。代わりにカナとハヤシは甘やかに、舐めている飴を口移しに交換するか、あるいはひとつの便座に二人でまたがって交互に尿を垂れる。映画には決して直接映ることのない性が、こうして食事と排泄を通じて間接的に表れる。そういえばカナは出張に向かうホンダの素行を疑うときも、見も知らぬ彼の上司の真似してふざけて「他の女の味も試してみないか?」と質問していた。こうして彼女はそもそも食欲と性欲とを結びつけていた。
カナとは何者だろうか。補助線を一本、引いてみる。民俗学者の赤坂憲雄は、『性食考』(2017年、岩波書店)において、古代から現代までの神話や物語、祭りや儀礼の中に人間と自然、とくに人間と動物とを切り結ぶ境界線の風景を描こうと試みている。「レヴィ=ストロースは『狂牛病の教訓』というエッセイのなかで、世界のすべての言語が性交を摂食行為になぞらえている、と書いていた」とあるように、彼の目論みでは交わることと食べること、さらには殺すことと排泄することも密接に関係を取り結ぶ。赤坂の論はいくつかの昔話に異類婚姻譚を見つけるところから始まる。かつて地域に根付く多くの昔話では動物と人間とが同じ生き物として区別なく交わった。しかし、肉食文化をきっかけに人間とけものの間は引き裂かれ、こうした婚姻はタブーとなった。さらに食べられる動物とそうでない動物にもまた別の差異が加えられ、こうした規則がひとつひとつ言語の契機を作り出した。こうして赤坂は現代から過去へ、童話や絵本や昔話へ、食べることと交わることとがまだ未分化だった風習へ。物語の痕跡を追いかける。
カナのことを、ここで試しに「けものの女」 と呼んでみよう。なぜ、彼女は食と排泄と性とを区別しないのか。なぜ彼女はそのように異様なのか。赤坂の書を片手に人間らしからぬ異様な女の振る舞いを読もうとするうち、一つの仮説に辿り着く。つまり彼女は人でない何かではなかろうか。本来、言葉でなすべきやりとりややりくりに彼女は感情と身体でぶつかっていく。人間らしからぬ彼女の個性を、ただ冷静に「動物」と呼ぶ代わりに、ここでは「けもの」と呼んでみよう。古めかしい文明以前の身分化を生きる彼女にはその呼称がきっとふさわしい。そこにあるのはフロイト的に抑圧された性の表象ではなく、まるで子ども向けの絵本がそれを直接描くことを避けるために排泄と食事の描写が帯びる生々しさだ。都市の真ん中にぽっ、と湧き出した太古の自然の中では、区別したり隠したりするのではなく、ただ食と排泄と性とが同列に散らかっている。まずはそこから、この都会の幻を生きる「けものの女」としてカナを認めるところからこの映画への思索を始めてみたい。
毛のない女
一方、念願かなってハヤシとの共同生活が始まると、カナが「食べる」描写がほとんどなくなってしまう。二人の共同生活は、①カナが鼻ピアスをあけ、カナがデザインしたイルカの刺青をハヤシが入れるところから始まる。②バーベキューに参加したカナはハヤシに挨拶する。自宅では、③なにやら一人、作業をするハヤシにカナが八つ当たりし、「お腹すいた」「もうちょっとだからあと30分待って」「さっきもそう言ったじゃん」と他愛のない喧嘩が始まる。一体何が起きているのだろう。先に結論を述べると、どうも二人の共同生活と共に始まる第二幕で、「食べる」ことと交代するように「役割」のモチーフが現れるようなのだ。
正式に恋人同士となった二人が互いに「彼氏」「彼女」としての記号を与え合う①については特段の説明は必要ないだろう。②について。端的に言えばそれは、息子が家族に恋人を紹介するシークエンスにあたる。監督の個性だろう、渡辺真起子と堀部圭亮が演じるおそらくハヤシの両親らしき男女が登場してから彼らの素性がなかなか明かされるまで少々時間がかかる。それどころか、バーベキュー会場には、ハヤシの友人なのか親類なのか、同年代の女が数人現れて、カナと背比べをしたり名前を比較したりする。いずれも見知らぬ人らに囲まれて、距離感を図られカナにとっては居心地の悪いシークエンス。一見、意味が不鮮明だが、それでもこれはハヤシの家族がカナをそのメンバーに加えようと吟味する場面以外の何ものでもないだろう。
続いて③では、カナの「お腹すいた」に端を発して他愛のない喧嘩が始まる。取るに足らないカップルの痴話喧嘩に過ぎないのだが、「役割」という観点に引きつけて見てみるとそれが食事の当番、つまり家事の分担にまつわる喧嘩であることがわかってくる。①で恋人同士になった二人が同棲生活と同時に、その部屋でパーソナルスペースの奪い合いを始めたことは容易に想像できる。また、二人は暮らしを共にする者として互いに互いにとっての役割も押し付け合い始めたのだろう。あのピアスと刺青以来、カナは「ハヤシにとってのカナ」に、ハヤシは「カナにとってのハヤシ」になったのだ。その結果、二人は協力しあって暮らしていく共生者などには決してならず、互いの時間と場所を奪い合って不都合な役割を相手に押し付け合う「競生者」にでもなったのではなかろうか。
食べることと「役割」とはいかなる関係を持つのか。赤坂の『性食考』から、サルトルの『存在と無』を取り上げた箇所にこういう記述がある。
「食べることは、破壊によって外界のなにものかを摂りこむことである、という。それはまた、歯で噛み砕きながら、「同化作用的な破壊」をもたらすはずだ。食べることの原風景には、外なる世界のかけらを噛み砕き、飲み込むことを通じての、他者との一体化または同化というテーマが絡みついているが、そこに射しかかる暴力の陰故に、それは「同化作用的な破壊」とならざるをえない。この破壊は避けがたく、われわれ自身の変容をもたらすはずだ。」(同書)
食べるとは相手を破壊することであり、相手を自分に同化する暴力である。自分のために役に立つ存在に相手を変えようとする、その抽象的なレベルにおいて「食べる」は「役割」を押し付ける暴力へとつながる。その結果、互いを求め合う二人のカップルが、そのせいでほとんど必然的に二匹の野蛮な「けもの」同志の共食い的に闘争関係に陥る。
また、「役割」という点では、カナの職業にも触れておかなければならない。彼女は脱毛サロンの従業員として働いている。先輩職員が彼女にぼやく、「あんなおばさんがVIO脱毛して意味あるの、って思ってない?」と台詞からも明らかなように、「脱毛サロン」は性に、より端的に言えばモテることに、紐づく。異性を振り向かせるような外見を作り上げるために美容に手間をかけることが、自分の欲望に基づく行為であるとすれば、自分の身体を相手にとって望ましいものに改変することは、その一方で自分を相手にとって「食べやすい」状態に変えることではないのか。「けもの」としての食べる欲望は、欲望の遂行のために相手を誘き寄せようとするあまり、自分を食べ物として差し出す行為に突如反転する可能性を秘めている。こうしていつしか、脱毛サロンもまた、性にまつわる「食うか食われるか」の戦場へ変貌する。何よりも、こうして誰かにとっての「食べやすい」役割になることは、「毛を抜く」という点で「けもの」をやめることでもある。もちろんカナはそこで、脱毛を拒絶する。
「意味あるの?」の会話には続きがある。二人は、エステ脱毛に通う中年女性も目的が、美容ではなく介護脱毛ではないかと妄想を広げる。将来介護施設に入ったときに、施設で世話を受けるためには身体の毛を剃っておいたほうが処置を受けやすいという目論みがある。身体のコントロールを失うことを見越してそれを他人に扱いやすいものに改変しておくこと。そうしてモノへと近づくこと。彼女たちは、食べやすいものへと転じていく身体が「けもの」のそれからどんどん離れていったあと、その先の出口に何があるかもすでにうっすら見つめている。
動けない女
「けもの」の女であったカナは、人間として未分化な生き物だった。それは他人の目からは子どものように写るかもしれない。恋人と同棲を始め、仕事に通い、ここでは社会化されて大人になっていく彼女の物語が描かれるのだろうか。本作にその予感もなくはない。しかし、結果としては全く別の展開が待っている。結論から言うと彼女が成長して大人になる、そういう話では一切ないのだ。
そこで、「大人になる」という物語では説明できない本作を語るために、赤坂とは別の極にもう一本、補助線を設けよう。 精神科医、熊代亨は『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造』(2024年、ハヤカワ新書)において、進化生物学における「自己家畜化」というスコープで現代人を分析する。彼によると、人間は集団生活を営みその利益を得るために、生物レベルでの自己家畜化という進化をここ1万年で経験してきたが、それを凌駕するスピードで進行したここ100年余りの急激な文化的な「自己家畜化」によって、資本主義と個人主義の原理のもとで極端に効率を重視する生活を強いられるようになった。一方、生命を極端に大切にするように発展した社会では、その個人化・効率化からこぼれ落ちた個人が、「病人」「子ども」として包摂される仕組みも社会は同時に生み出した。
「わたしたちはケージに閉じ込められていないかわりに、たとえば学校や職場に毎日通わなければならず、気乗りしない日もサボるわけにはいきません。自由を行使できる範囲は法や道徳やお金に制限され、それらをはみ出すのも簡単ではありません。はみ出せば、その度合いに応じた罰や強制を受けるでしょう。そうやって社会や制度にすっかり囲われ、保護され、生かされている点では動物園の動物たちとわたしたちの境遇はそこまで遠くない……と私には思えるのです」(同書)
熊代の論に沿うなら、現代において安心・安全な暮らしを自己管理できる個人とは、大人であると同時に、人間の「けもの」の部分を家畜として、自ら飼い慣らすことができる者のことであると言えるだろう。先に、これはカナの成長譚ではないと述べたが、まずハヤシとの共同生活においてカナは偶然に端を発して、奇妙な戦略をとることになる。それは幼児化、病人化という戦略だ。 ハヤシとの喧嘩の末、カナは自宅のエントランスで転んで怪我を負い、車椅子生活を余儀なくされる。結果、怪我の功名で、ハヤシから「絶えずケアされる」という関係性を強奪する。熊代によれば、現代の個人主義のひとつの帰結はテクノロジーの発展に支えられて医療が生も病も死も宗教の領分から科学の領分へそれを奪い取ったことで生まれた、生命を極端に大切にする社会である。大人になることを拒んだカナは、家畜として成熟しえなかった「子ども」のような「病人」として医療によって社会に包摂される。こうしてカナは、医療化の恩恵を存分に享受することで、一時的にではあるが、赤ん坊のような無敵の無防備さに退行して、ハヤシを役割として「食っ」てしまう。
興味深いのは、この局面でホンダとハヤシとがよく似てくるところだ。筋だけ追えば、常にカナのことを気にかけ、別れた恋人の前で泣き崩れてしまうような優男であるホンダに飽きて、自由で野卑で行動力に溢れたハヤシにカナが乗り換えたかに見える。しかし、結局カナはハヤシも自身の保護者のような男に変えてしまう。これでは男のほうに問題があるのではなく、まさにカナのほうにをそのような性質、男を「お母さん」のようなケアラーに変えてしまう性質が備わっているかのようなのだ。
『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー)や、『君と歩く世界』(ジャック・オーディアール)や『ドント・ウォーリー』(ガス=ヴァン・サント監督)の例にあるように、レールの上を走るカメラの動きを彷彿とさせる車椅子は重要な演出装置の役割を果たしてきた。『ナミビアの砂漠』におけるそれは、『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック)のように、無防備によって超越的な座を獲得した「上から監視する権力者の目」をカナにもたらすのであった。この装置によって彼女は、この共食い闘争の絶対的勝者の座にしばし、君臨する。
女はいつも自然だった
結局のところカナは「けもの」なのか「家畜」なのか。彼女は大人になれるのか。怪我から回復した頃、カナは「言ってはいけないことを言ってしまった」として、脱毛の仕事を辞めてしまう。「エステ脱毛なんかやっても無駄だよ。調べればネットに書いてあるから」というセリフが彼女を社会から切り離してしまう。だから、映画は言葉に矛盾し続ける身体の軌跡としてだけ成立する。山中瑶子は、「私、好きな人できた。あれは冗談。今回も冗談」と叫んで飛び去っていく少女を描いた監督である。カナという矛盾だらけのキャラクターは、あの「あれは冗談」と嘘をつくときにだけ本当のことを言う女子高生ともちろんつながっている。
『ナミビアの砂漠』において、脚本や言葉が感情や身体に打ち勝つことは決してない。これは映画の話なので、議論のように割り切れる結論が出ることはない。そこで描かれ続けるのは、社会の側の、コミュニケーションの側の言葉に、反抗しつつ決して他人とのやり取りをあきらめないひとつの身体であり、カナという女の生なのだ。
プロット通りに、大切なものを失うリスクにかけながらそれでも何かを手に入れようとする英雄を描くハリウッド映画の形式がここには現れない。それが正しいか間違っているかに関わらず、言葉の作った規則を絶えず打ち破る「けもの」の身体と、その暴力がいつも刻印され続ける。ジャン・ルノワールやモーリス・ピアラやジャック・ドワイヨンやクレール・ドゥニのようないくつかの映画と通底している。人間の中にある自然を描くときの美しい仕事がここでも試みられている。
ジャン・ユスターシュの『サンタクロースの眼は青い』(1967)に登場する不快な男のことを思い出す。サンタクロースの格好をして通行人に声をかける無職の男に若い女や子どもが近づいてくる。彼はその格好なら怪しまれまいとして、ナンパや痴漢を企てる卑劣漢である。結果、何の疑いもなく誰も彼に見向きもしなくなる。映画だけがそういう男の孤独を最後まで見つめる。
「思っていることとやっていることがぜんぜん違う人がいっぱいいるのって怖くないですか」。仕事を辞めて心療内科に通うようになったカナがそういうセリフを口にする。彼女が、なぜロリコンが存在するのか思考するとき、私はユスターシュの映画のことを思い出す。あの不快な男の映画を見るときの少しだけほっとする気持ちを思い出す。してはならないことをする男は存在する。それを映画は拒否しない。ここでカナの存在を否定しないのと同じように。
あの男とは違って、私たちの言動は絶えず一致しない。それで多くの場合、「やってはいけないこと」をせずに済んでいる。言動の不一致がありふれていることは、確かに怖いはずだった。確かにそちらのほうが、ずっと怖いはずなのに、でも、私たちはそれを忘れて大人になる。そんな人たちよりも、「思ったことをやってしまう人のほうがずっと怖い」なんて言う大人に、私たちは簡単になってしまう。そのとき、思っていることから分離した結局「やらなかったこと」はどこに行ってしまったのだろう。異常な大人になってしまった人たちの普通に、子どもで、病人で、「けもの」の部分は今、どこに行ってしまったのだろう。
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YouTubeのチャンネル「Namibia : Live stream in the Namib Desert」では、ナミビア共和国の人工池にやってくる動物たちを撮り続ける監視カメラ映像が流れている。水飲み場にはキリンやオリックスがやってくる。ハイエナやシマウマがやってくる。人の植えたもの以外、緑を見ることのない都会に暮らす私たちにとってきっと自分に一番近い自然は、私たち自身の中のまだ動物である部分だ。そうして、私たち自身がいつまでも毛の生えそろわない「けもの」であることだ。それを忘れそうになる私たちは、テクノロジーを通じて「けもの」になる夢を見る。この国の遠い山里のそれではなく、子どもの頃の記憶でもなく、知らない場所の知らない思い出の夢を見る。言葉を覚えたわたしたちはひとつも言葉を知らなかった頃を懐かしむように、自らのままならない内なる自然がナミビアの砂漠で水面を舐める夢を見る。