「意味ないって言ったら、この世の中何もかも意味ないでしょ。全部どうでもいいよ。(…)普通の奴らは今こんなことに気づかないで、高校生活を送るでしょ。それで大人になって、ああ、あの頃はよかったって語られるのが今だよ。でも、今からそんなふうじゃずっと苦しいね。だからさ、もう意味とか考えずに最強になればいいと思うんだよね。」
山中瑶子『あみこ』(2017)の1シーンで主役の女子高生あみこが想いを寄せるアオミくんは彼女にこう語る。あなたはこのフレーズにどんな印象を受けるだろう。アオミくんはあなたの気持ちを代弁してくれているだろうか。それとも、こんなのは世間を知らない中学生や高校生が書きそうな台詞だと一蹴するだろうか。または、この台詞が今はもうそうではなくなったかつての自分を思い出させ、不快な気分になるだろうか。ある人はこれを懐かしく思い、別の人は思い出したくないことを思い出し、また別の人は気の利いたユーモアだと思うかもしれない。素直な人もイタい人も熱い人も冷めた人も、『あみこ』はそんなすべての人を射程に収めた懐の深い映画だ。あなたがこの映画について多くのことをしらないなら、予告しておこう。この青臭い台詞は鮮やかに裏切られる。
本作は、ある2月のあみこの1年間の回想から始まる。その1年と数ヶ月前の12月、教室の教卓前でうなだれていた長野市の女子高生あみこは、隣のクラスのサッカー部の好青年アオミくんと帰り道を共にする。冒頭の台詞はこの帰り道でアオミくんが彼女に語るものの一部だ。二人は同じように周囲の人間関係や将来について冷めていることで意気投合し、こじれた連帯感を共有する。
しかしその後、1年もアオミくんと話すことはなく、彼が同じ高校を卒業して東京に行ったミズキ先輩という年上の女性と付き合っていることが徐々に明らかになる。そしてついにアオミくんは学校から姿を消し、家出をして池袋のミズキ先輩の下宿で同棲している噂まで流れ始める。ここで時間がようやく冒頭の「2月」まで戻り、あみこは貯金をはたいて単身東京の二人の同棲先に乗り込むことになる。
これを端的にあみこの「失恋」と解釈することは容易い。冒頭の二人の冗長な会話は二人の親密さを短い間に観客に示し、その後の二人の音信不通が観客を焦らし、「ミズキ先輩」の一件が、本作に「恋愛劇」としてのプロットを放棄させる。しかし、それはあみこにとって「悲劇」や「挫折」なのだろうか。彼女の「追跡」には、鬱屈以外のなにかがある。この失恋は必ずしもそういったマイナス要素だけで成り立つのではない。
その後の展開を見てみよう。作中では、画面の外で知らず知らずのうちにアオミくんが「上京」していたことが徐々に明らかになり、ストーカーと化して彼とミズキ先輩の行方を捜すあみこも彼を追いかけて「上京」する。そして、この二つの「アクション」が本作の後半プロットを駆動する。単なる失恋ではなく、それを動機としたアクションによってあみこが何かを獲得したのだとすれば、あるいは獲得しようとしたのだとすればそれは何だったのか。つぶさに検討してみよう。
『あみこ』における主役の失恋はアオミくんの優柔不断さによってやってくる。あみこに思わせぶりな態度を取りながら、別の女性と同棲するアオミくん。この「言っていること」と「やっていること」の齟齬は振り返り見れば、映画史においても重要なテーマだった。
どういうことか。「言っていること」、つまりセリフで内面を説明することによって物語が進行する「メロドラマ」と、「やっていること」、登場人物の行動によってプロットを駆動する「活劇」とに従来の映画を二分するならば、前者は後者よりも下位に位置づけられる非正統的な手法だった。
しかし、現代を生きる私たちが馴染むのはむしろこの台詞で進行する「メロドラマ」と言えるだろう。その原因はテレビドラマが映画と暖簾分けをしたことに由来する。脚本主導でプロットが進行する「メロドラマ」はもっぱら「テレビドラマ」の手法となり、現代を生きる私たちが共感し、安心感を覚えるのは、むしろ「嬉しい」とか「悲しい」といった当座の自分の感情を自ら説明する「メロドラマ」のキャラクターたちこそではないだろうか。
この「言葉(言っていること)」と「行動(やっていること)」の齟齬についての、映画演出の極端な例をクウェンティン・タランティーノの作品に見てみよう。デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992)以降、冗長だがユーモラスな会話と暴力描写をタランティーノは自作のトレードマークとしてきた。特徴的で冗長な台詞がその作風の重要な要素である一方で、彼の映画がメロドラマでないのは、この「言葉」と「行動」が彼の作品においてはお互いにあまり関係のないものだったからだ。
ナチスドイツ討伐専門の架空のユダヤ人部隊を描いた史劇『イングロリアス・バスターズ』(2009)で、イギリス軍人とスパイでもあるドイツ人女優がナチスの高官たちと食事をするシーンにおいて、敵味方入り乱れての雑談がシーンのかなりの割合を占めている。各々の机の下では拳銃が準備され、お互いに敵対関係にある彼らはスパイの身分がバレれば、一触即発状態にあるのだが会話自体はそのような敵対関係とは直接関係のないものが繰り広げられる。実際に、彼らの銃撃戦は楽しい雑談の頓挫として訪れる。
もう一つ例を出そう。山小屋に偶然集まったばらばらの境遇を持つ者同士が一夜を共にする西部劇『ヘイトフル・エイト』(2015)では、元南北戦争の北軍兵士の黒人の軍人が、南軍の将校だった老人の前で、自分をかつて殺そうとした老人の息子をいたぶって返り討ちにした話をする。本作でも冗長な会話が延々と続くが、黒人は息子の死の話に激情した老人が拳銃に手をかけたところで、速撃ちによってこの元将校を一瞬で殺してしまう。
いずれの場合においてもタランティーノは、戦争状況において潜在する政治的対立関係を描き、いつでも憎しみあい殺しあう者同士が会話によってそれを延長すること、また台詞ではなく、台詞同士のほつれそのものがプロットを展開することを演出の要としている。つまり、言葉の機能としてコンスタティブな表面上の会話と、パフォーマティブな立場上の対立というものは常にずれた状態にあり、前者のほつれから後者がむき出しになる時にアクションがプロットを駆動する。
山中が『あみこ』で描くものはもう少し複雑だ。本作には、いわゆる「女子高生たちのおしゃべり」としてこの「コンスタティブな表面上の会話」が頻出する。学校でだらだらと話し、家に帰ると電話でその日あったことを報告し、Twitterの投稿を確認し、同性に向かって「かわいい」と繰り返し言葉を浴びせる。タランティーノの映画を見た後なら、私たちには彼女たちがなにかの対立の表面化を恐れているようにも見えるはずだ。
では女子高生たちのパフォーマティブな部分とは何か。あみこが赤い糸で編み物をしている親友のかなこと土手の上で寝転んでいる印象的なシークエンスがある。かなこの手にある赤い毛糸をあみこがふざけて腹の上で広げ、「ぐしゃぐしゃ」と言って、腹部に重傷を負ったかのようにふざけ「体ん中飛び出てんだよ、私」と言った後に、「私、好きな人できた」と言って、走り出す。かなこが「え? アオミくんは?」と問うとあみこは「あれは冗談。今回も冗談。」と言って走り出す。
ここに、まだアイデンティティの未熟な彼女たちの危険なコミュニケーションの正体がかいま見える。彼女たちにはタランティーノ映画の軍人たちのような各々の立場というものはなく、それゆえに、明確な対立関係もない。しかし、だからといって彼女たちは「対立」していないわけではない。彼女らはお互いの立場が「ぐしゃぐしゃ」であるがゆえにいがみ合うのだ。つまり、彼女たちはそれぞれの立場が「ぐしゃぐしゃ」であるがゆえに明確な本音を持たず、何を言っても「嘘つき」になってしまう。彼女たちはお互いが、本音を持たない、信用ならない嘘つきであることを知っており、それが暴かれないように、嘘をつき続ける。
あみこの同級生たちがタロットカードで遊ぶ印象的なシーンがある。タロットカードを切る一人が、誰々は誰々のことが嫌いだと言うと、彼女たちは適当なことを言うなと喧嘩を始める。占いのホストになっている女の子が咎められると、彼女は「知らないよ。カードがそう言ってるんだよ。」としらばっくれ、全員で取っ組み合いの喧嘩になる。ここには、タランティーノの映画にも似た言葉によるコミュニケーションのほつれと暴力の表出がある。そして、タロットカード占いという発言の主体が匿名化される遊びによって彼女たち自身の主体の無責任さが浮き彫りにされる。つまり、彼女たちはパフォーマティブに対立する関係を潜在させているのではなく、そもそも対立するほどの主体を持っていないという無責任さを互いに糾弾し合う関係にあるのだ。
長野の人間関係を離れ、孤独になったあみこは東京で自分と向き合う。孤独な行動の中でこそ、彼女は自分が責任主体であることを省みられるようになり、「本当」について自問自答する。あみこは駅でいちゃつくカップルに「その愛が本物なら踊ってみせてよ」とふっかけてみせたり、独り言を言いながら街を徘徊する不審な男とともに街行く人に「嘘の群れ」と呼びかけたり、「本当」への異常な執着を見せる。
そこから画面の端に暗躍しながらミズキ先輩を探し出し、彼女の後をつけて自宅と職場をつきとめるときの偏執的なストーカーを描く不気味なカメラワークにこそ山中の真骨頂がある。ミズキ先輩の自宅を突き止め、ヒモ同然となったアオミくんがなんらかの魅力的な内面など持っておらず、もはや共感もできない「かわいそうな」人物に成り下がっていると確認し、あみこは幻滅する。しかし、彼女はそこまでわざわざお金と時間と労力を使って追いかけてきたのだという事実は残る。
山中瑶子はこの一連の東京パートの追跡劇を、即興的な演出で撮影している。「あみこ」の成長は不測の事態への実践として、撮影隊にとってのドキュメントのように作られたことがわかる。それは映画というのは不測の事態へのコントロールの芸術であることも示唆している。本作は映画制作の手法のレベルで、『あみこ』とはどのような作品であるか、どのようなキャラクターであるかということを獲得したのだ。彼女が探し求める「本当(本音)」は自分の奥深くにあるものではなく、予測できない外部との接触によって浮き彫りにされる。「言葉」ではない。その「アクション」こそが、彼女の本音だったのだ。アオミくん奪還という目的は達成されなくとも、行動に移したという「本音」の経歴だけが彼女に残される。
最後にあみこがマジックインキで「P×U×R×E」と指に書き入れ、アオミくんを殴るシーンを見てみたい。これはちょっとした矛盾を演出したシーンだ。つまり、生身の体ではなくそこに人工的に何かを書き入れることによってこそ、彼女は「P×U×R×E(純粋)」であることを体現できるようになる。あみこにとって純粋=本音というテーマは、生まれた後のありのままの状態ではなく、むしろ人工的で、意識的な判断によってやっと獲得されるものなのかもしれない。その意識的な「アクション」だけが彼女を「言葉」の同調的なストリームから脱出させる。
最初の台詞を思い出そう。アオミくんは無下に高校生活を送り、そのまま大人になっていく同級生たちを揶揄していた。その同調のストリームから抜け出すには、「最強」になればいいと言っていた。もしかしたら、あみこはこの「最強」を実行しようとしたと考えられるのではないか。この「最強」とはきっと、全能であることも圧倒的な強さのようなものも意味しない。あみこが「最強」であるのは、恐れに打ち勝ち、自分を取り巻く環境の外に飛び出していく「アクション」によってだった。それは向こう見ずな取り組みでも、若気のいたりでもない。アオミくんが言うように私たちは年をとる。むしろ長い目で見たときに、あみこの「最強」な「アクション」こそが私たちの精神にいつも若さと、開放的な寛容さを維持するだろう。
こうして「あみこ」は真に青春映画となる。それは、私たち誰もにあったかつての懐かしい若い頃を思い出させるものではない。そうだと信じれば、老若男女すべての人が生きていく術としてのみずみずしい精神の「若さ」をもう一度獲得できると教えてくれる源だ。
■山中瑶子インタビュー(『あみこ』)
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