ジャンプ・ディケイド 1968-2017 :『ヱクリヲ vol.7』「僕(たち)のジャンプ」


作成:高井くらら、横山宏介、横山タスク、若林良

1970年代:ジャンプ黎明期――熱血と曙光

雑誌の創刊号(1968年8月1日)から月2回刊行の当時、マガジンとサンデーから10年遅れてスタートしたために、ジャンプはまだ雑誌固有のカラーを獲得していない。読み切り主体で、新しい物語を創出する十分な余裕がないために、他の物語の想像力を多く徴用することで新規作品をドライブさせている。このため、名作文学はもちろん、不良および無頼漢もの・時代劇・西部劇・ギャング映画・SF・スポーツなど、当時の娯楽作品の影響を強く受けた物語形式が多かった。

これが創刊時のジャンプの特徴と言えば特徴だが、問題はこの黎明期における「ジャンプ的なもの」、つまり後年へ続く継承性のある特徴の萌芽である。その意味でもっとも衝撃的だった『アストロ球団』(72)をまず紹介したい。本作は『巨人の星』(66、『週刊少年マガジン』にて連載)以後氾濫した野球漫画の亜流だが、おそらく、試合中に必殺技で殺人が行われる初めてのスポーツ漫画だろう。元祖野球漫画の『巨人の星』にも、『大リーグボール養成ギブス』から始まるケレン味のきいたギミックが存在したが、『ドカベン』(72、『週刊少年チャンピオン』にて連載)の水島新司はこれを批判して、リアルな漫画描写に徹し始める一方、『アストロ球団』はその方向性を更に伸ばし、人員が六人で足りなければ分身して増えたり、殺人打法や殺人投法などを登場させた。このノリは『テニスの王子様』まで至る深い継承性を感じるだろう。スポーツ漫画におけるリアルとコミカルの問題は現在に至っても争点になっている。

また、この転換点を経たからこそ、『キャプテン翼』(81)や『リングにかけろ』(77)など、いわゆるジャンプ特有の熱血スポーツ漫画の必殺技文化が花ひらいたと言える。特に車田正美の『リングにかけろ』はその物語の展開自体が、まさにその興味深いリアルとコミカル、つまり必殺技などない実直な写実主義と痛快でダイナミックなフィクションの境目に位置している。この物語の前半部では極めて地味で堅実なボクシング描写を行っている。例えば前半部では「運動後にすぐに水風呂でアイシングを行うと心臓に負担をかける」など極めて現実的な描写に徹しているが、やがて苦心して主人公が必殺技を編み出すと、相手も必殺技を覚えて応酬が始まり、話が進むにつれて、どんどん一人一つの必殺技を交互に、見開き一面を使った特大ゴマで繰り出して即時に勝敗を決していくという「車田メソッド」に移行していく。必殺技が漫画の醍醐味になったパラダイムの後では、「もっと早く必殺技にありつきたい」という読者の快感原則に即した、極めて合理的な展開であるが、この特徴が、後に一人一人に固有の必殺技=能力としての能力バトル漫画へ続く、とも考えられるだろう。(横山タスク)

1980年代:「俺たち」が登場し、そして修行が始まる

1980年代から1990年代になると、複数の作品が存知されてヒットを飛ばし、ようやくジャンプのオリジナルな特色が現れてくる。まず紹介しなければならないのは『キン肉マン』(79)と『聖闘士星矢』(86)、そして『ドラゴンボール』(84)から続く長い伝統である、「武闘会」展開による、漠然とした「バトルもの」から「スポーツ・バトル漫画」への移行、および個人戦から団体戦への移行である。

「武闘会」展開とは、主人公たちが何らかの理由でメジャー・アングラ問わず様々な武道を競う大会に参加して優勝を狙う、バトル漫画の王道的展開である。この展開を導入すれば、適当な理由をつけなくても対立構図を明確にして、ワクワクするような魅力的なキャラクターが一堂に会するという白熱の演出をあまりに簡単に用意できるため、現代では「テコ入れ」とすら呼ばれ、人気が衰えた作品がすぐこの展開に飛びつくという批判が存在するほどだ。

しかし、武闘会展開の真のメリットは集団でトータルの勝ち星を競うという状況にある。武闘会展開の導入後、バトル漫画の主人公も個人から集団や団体へと移っていくのだが、集団戦はジャンケンのような「状況依存の戦闘能力」や「相対的強さ」といった緊張した力関係や、ルール次第で小さなものが大きなものに勝つという「ジャイアント・キリング」の醍醐味も用意してくれる。そして何より普通の展開では常に最強でなければいけない主人公も時に負けても良いという状況は、「このキャラはここでは負けたが、状況次第ではあのキャラに勝てる」、そんな議論を喚起して読者の緊張を絶やさない。

また忘れてはならないのが、「武闘会」展開を通してバトル漫画につきものの殺傷を(基本的に)禁じることで、戦闘をルールのある一つのスポーツ漫画として読み替えられることだ。これにより血なまぐさくてアダルトな世界であったバイオレンス・アクションが、互いの汗と健闘を称え合うスポーツ的な「バトル漫画」になり、若年層から女性まで幅広い読者を獲得する(勿論、悪党とモブ・キャラは死んでも良いというのが不文律だが)。この点で『キン肉マン』『聖闘士星矢』『ドラゴンボール』は、同じスケールの中で互いの信念や武芸を賭けて競合し対立し合うという展開で急速に「バトル漫画」の下地を形成していくが、この意味で言うなら、1980年代に刊行され人気を博した『北斗の拳』(83)『コブラ』(78)『ブラック・エンジェルズ』(81)『シティーハンター』(85)などはどれもまたとない名作だが、時に殺人を厭わないワンマンヒーローという作風は後年のジャンプ的なものにおいて棄却されている。「武闘会・団体戦・(基本的に)殺傷禁止」による戦闘の「団体スポーツ」化が、後年のジャンプバトル漫画の成立に全て深く食い込んだ要素であることは間違いない。

前述の「スポーツ・バトル漫画」たちがジャンプ漫画の王道展開の開祖であるならば、『ジョジョの奇妙な冒険』(86)はやはり「ジャンプ的なもの」における精神的側面の開祖と言うべきである。これには、後年のジャンプ漫画成立においても重要な「修行」と「克己」の系譜が深く関与している。『ジョジョ』では、傷を負って血液が流れたり、挫折してへこたれたり、あらゆる外傷を肯定して強くなることをむしろ積極的に肯定している。これは基本的に殺傷が当然になるゆえに「死んだら終わり」というアパシー(無気力)が伴うそれ以前のハードボイルドな世界観では不可能な展開である。ヒーローは痛み傷つき血と汗を流さなければならないが、ある程度の閾値を超えると当然死んでしまう。その「死ぬ」という肉体的事実と「死ぬほど」という精神論の間にとどまり、ヒーローたちは「死ぬほど」痛くて辛い目に合い続けるが、それでも死なずに生還するという矛盾を通してのみ、肉体的・精神的に強くなり、その姿は読者の憧れを惹き付ける。このような英雄譚につきものの修行パートなくしてジャンプヒーローは語れないだろう。八◯年代終わりに登場した『ジョジョ』の第一部・第二部は、まさにそのようなジャンプ的世界観を象徴する「友情・努力・勝利」に鋳型を与えた「熱い」作品だった。修行して強くなるヒーローが現れ、最初から強いマッチョ・ヒーローに対して台頭し始めた時期が1980年代だったと言える。(横山タスク)

1990年代前半:〈膨張〉の果てに

1991年、ジャンプの公式発行部数は605万部に到達し、週刊誌がはじめて全国紙の発行部数を越えた、記念すべき年となった。その上昇はとどまらず、94年12月には、歴代最高の653万部に到達する。経済面においては文字通りの絶頂期をむかえることとなった。

しかしながら、栄光の期間は長くはつづかない。『幽☆遊☆白書』(90)『SLAM DUNK』(90)『ドラゴンボール』(84)の三本柱が94~96年にかけて相次いで連載終了となり、発行部数は大幅な減少を強いられることとなる。90年台前半は、経済面、もしくは安定性のみを重視するのであれば、「夢の時代」の絶頂期、およびその崩壊期といって差し支えはないだろう。

前述の三作は、その人気に比してどこか奇妙な形で連載を終えることになった。その中でも最も違和感を帯びた終わり方は、『SLAM DUNK』の最終話だろう。主人公・桜木花道が所属する湘北高校はインターハイで王者・山王工業に大逆転勝利を果たすも、次戦では嘘のようにぼろ負けを喫してしまう。花道自身も身体を故障しリハビリの開始で物語は終わるのだが、この結末は、成長が限界を迎えての「膨張の果ての破裂」と形容できるだろう(『幽☆遊☆白書』の場合は筆者の病気もあったため、単純には断定しかねる点はある)。

しかしなぜジャンプが「膨張の果ての破裂」に行き当たったのか。同時代における非ジャンプ漫画の代表作と目される『寄生獣』(88~95、月刊アフタヌーン)を対比すれば、より容易に理解できるだろう。本作においては、人間と人間に取り付く異世界生命体が対立し闘うことになるが、その関係は人間がパラサイトを完全に駆逐する、という安直な二項対立では終わっていない。これは『SLAM DUNK』がただ対戦相手を打ち負かし、強さを追い求めていく構図とは対照的だ。『寄生獣』では正義と悪、自明と思われた立場の反転が描かれており、最終的にはパラサイトは駆逐されるどころか、人間社会へと知らず知らずのうちに溶け込むこととなるのだ。これはパラサイトとの共生≒「他者」との結託であり、自らが成長し相手を打ち負かすような『SLAM DUNK』、そして『ドラゴンボール』『幽☆遊☆白書』にまで通底する「ジャンプ的なもの」とはまったく異なる想像力だろう。そして異なった存在との「融和」を思考するこの『寄生獣』にこそ時代的な可能性が胚胎されていたのではないか。

バブルが崩壊したことで、1990年代前半はもはや声高に大きな夢が語られる時代ではなくなった。その頃の「限界」の心情が浸透し、それは読者の嗜好にも影響を与えたのである。「融和」はほぼそのまま、「妥協」へと結びつく。結局のところ、現実世界では世界を救うこと――たとえば戦争の存在をなくすことなどはほとんど不可能だ。それどころか、中学校や高校などミニマムなコミュニティにおいて、弱小の運動部を強化することですら一筋縄ではいかないだろう。人間は理想通りに人生を歩むことは(ほぼ)できず、成長もどこかで止まってしまう。そして、自分のままならなさにある程度の折り合いをつけることが、いずれは必要となるのである。そのような認識が再浮上したのが当時の世相であり、それは当時のジャンプの王道とは対照的な姿勢であったのだ。

もちろん、「王道」=“真摯な成長”の流れに棹さすジャンプ作品も、なかには存在していた。たとえば、『奴の名はMARIA』(94)である。主人公の行動原理は金銭的な利益であり「成長」とも「正義」とも縁はない。倫理的にも疑問が多かった点、主人公を除くキャラクターの存在感が希薄な点などから、早々に打ち切られた。現在の視点から見ても、確かに完成度の高い作品とは言い難いのだが、こうした「まっとうな」倫理を逸脱した点に、あるいは別の方向性が秘められていたとも考えられる。

他にも『てんぎゃん‐南方熊楠伝‐』(90)、『柳生烈風剣連也』(92)など実在の人物を題材とした、かつ短期で打ち切りとなった作品が存在する。主人公たちの生きた時代は、『花の慶次‐雲のかなたに‐』(90)のような戦国時代とは違い、社会的な制約によって束縛される時代であり、それが作品の躍動感に足枷をかけてもいた。しかし時代の描写はいずれも克明であり、ある意味では地に足のついたこれらの作品が、変革のきっかけをもたらす余地もあったかもしれない。

「妥協」の問題に関して、最後に91年から94年にかけて連載された、ホラーの秀作『アウターゾーン』を参照しよう。本作においては基本的に、それぞれに不幸を持った人物たちが救済される。が、第一話の「悪魔」からの救済に代表されるように、善意の人間が幸福を掴むという単純明快な、かつ安易さにも走りがちな救済を、もはや時代は求めていなかったのかもしれない。となると、本作が2010年代を迎えて連載を再開したことにも、同様の深読みは可能かもしれないが、この考察には別項が必要だろう。王道を刷新する「新しい」ものの誕生は、1990年代後半を待つ必要がある。(若林良)

1990年代後半:〈少年性〉のパラドックス

1990年代後半、『ドラゴンボール』(84)や『SLAM DUNK』(90)の連載終了をきっかけに『週刊少年ジャンプ』の発行部数が減少し、一時期『週刊少年マガジン』に部数を抜かれたのは有名な話だ。しかし、この事実はなにもこの年代がジャンプにとって暗黒の時代だったことの証明にはならない。連載が始まった作品のラインナップ――『ONEPIECE』(97)、『HUNTER×HUNTER』『シャーマンキング』(98)、『ヒカルの碁』『テニスの王子様』『ナルト』(99)など――を見ればわかるだろう。どの作品も現在に至るまでの熱心なファンがいるような作品ばかりである。1990年代後半は黄金期以後の、次世代のエースを育てる期間だったと言える。この年代を一言で言うと、〈少年の〉〈少年による〉〈少年のための〉物語が〈ジャンプ的なもの〉として根付いた時期である。先に並べた作品も殆どが、10代の〈少年の〉、少年たちが大人と同じフィールドに立って敵を倒して成長していくという〈少年のための〉物語だ。

それまでのジャンプでは、今で言うと青年誌のカテゴリーにも入るような少年を卒業した大人の世界や、同年代間などの大人が見守っている中で少年として振舞える世界を舞台にした作品が多かった(ラインナップは前のディケイドにあるので割愛させて頂く)。大雑把に言うと、少年たちが憧れる男性像や、少年らしさのプロトタイプを提示する役割を果たしていた。その傾向を大きく変えたのはもちろん『ドラゴンボール』である。連載開始時に12歳だった少年・孫悟空が背丈の違う大人や凶悪な見た目の宇宙人も倒して越えていく姿に読者の少年たちは憧れたのだ。『ONEPIECE』の作者・尾田栄一郎は『ドラゴンボール』の作者・鳥山明の大ファンで仕事机の正面にサイン色紙を飾り1)、『ナルト』の作者・岸本斉史は鳥山明を「神様のような存在」と表現している2)ことからもわかるように、そんな『ドラゴンボール』を読んで影響を受けた〈少年によって〉、この年代の人気作品は描かれている。

だがその『ドラゴンボール』を発端とした〈少年性〉によって、逆説的に『週刊少年ジャンプ』は少年のためだけのものではなくなってしまう。なぜなら〈少年〉が主人公になったことによって、同じ10代の主人公であっても青年マンガのような『ろくでなしBLUES』(88)などにあった〈友情〉=間違っていても筋を通す奴が尊敬される、〈努力〉=女を守るために強くなる、〈勝利〉=男のプライドのために勝負に勝つ、といった伝統的な男らしさの要素は表面に出なくなったからだ。例えば『HUNTER×HUNTER』のように、異性の存在は作品の原動力にはならず、せいぜいあっても恋までの表現に留まり、主人公たちは未だ異性を知らない「純朴な少年」として描かれる。そのように青年的な表現から少年的な表現になることで「友情・努力・勝利」も、〈友情〉=正しいと思った奴を大切にする、〈努力〉=好奇心から強い敵を倒すために努力する、〈勝利〉=勝つことで成長していく、に変化する。この性別にとらわれない方程式により、少女や女性たちもジャンプ作品を楽しめるようになったのだ。

もちろん『キャプテン翼』(81)や『幽☆遊☆白書』(90)のように女性に好かれるジャンプ作品は以前からあった。だが、それは作品単体の話であり、雑誌全体としての話ではない。〈少年性〉を持った作品が誌面の全体に増えたことによって、女性も雑誌の読者として取り込むことができたのだ。そこで、『週刊少年ジャンプ』という名を冠しながらも、「ジャンプ読者=少年」から「ジャンプ読者=少年の心を持っている全ての人」という方向転換が起きたのだ。

性差の自覚がない少年主人公が主流になってくると、〈少年〉だけでなく〈少女〉も主人公にもなりえる流れができてくる。そのため、その後のジャンプ作品ではヒロインの立ち位置にいる少女たちは見守るだけではなく共に戦えるようになるのだ。『ナルト』のサクラは当初、目立った強さを持っておらずナルトやサスケに守られている描写も多かったが、第二部以降は怪力(と医療忍術)で二人と並んで戦えるくらいに強くなった。この点に関しては後の年代の方が顕著なのでここで筆を置くが、〈少年〉のための『週刊少年ジャンプ』になったことによって現れた女性も含めた『週刊少年ジャンプ』は、1990年代後半から醸成されていったのではないか。(高井くらら)


1 尾田栄一郎『ONEPIECEBLUEGRANDDATAFILE』、集英社、二〇〇二年、一三三頁。
2 岸本斉史『NARUTO[秘伝・兵の書]』、集英社、二〇〇二年、二〇九頁。

2000年代:〈三本柱〉の時代――王道・邪道・打ち切り

この時代の〈ジャンプ的なもの〉を知りたければ、大場つぐみ・小畑健の『バクマン。』(08)を読めばいい。主人公たちは『週刊少年ジャンプ』連載を目指し、デビュー後は誌面での人気を争う。ライバルの新妻エイジが描く「王道」バトル漫画に対し、亜城木夢叶(主人公の共同ペンネーム)は「邪道」漫画――知略を駆使した推理サスペンス――で立ち向かう。連載開始と同じ2008年を物語の始点とし、『ONEPIECE』をはじめ実在の漫画名(と編集者名)が多く登場する同作には、「ジャンプらしくない」という言葉が飛び交う。「王道(らしい)」作品を「邪道(らしくない)」作品で打ち倒す物語。この存在自体が2000年代の〈ジャンプ的なもの〉を表している。

この時代のジャンプは『BLEACH』(01)によって完成された、『ONEPIECE』『ナルト』との三本柱の時代であった。ティーンエイジャーが超常的な力を獲得し、仲間とともに敵に立ち向かい、成長する。いわゆる「異能バトル」とジュブナイルの組み合わせは、ジャンプのみならずこの年代に広く見られた「王道」だ。三本柱はいずれも15年に及ぶ長期連載を誇り(『ONEPIECE』は20周年を迎え連載中)、それにすっぽり覆われたこの年代は、巻頭を三本柱が――そして巻末を『ピューと吹く!ジャガー』(00年からちょうど10年連載した)が――支える安定した時代だった。

この時代の「王道」バトルは、『BLACKCAT』(00)、『武装錬金』(03)、『D.Gray-man』(04)、『PSYREN‐サイレン‐』(08)、『ぬらりひょんの孫』(08)、『トリコ』(08)など枚挙に暇がない。他ジャンルを見ても、「異能」をギャグに転用した『ボボボーボ・ボーボボ』(01)や、日常ギャグから異能バトルに転向した『家庭教師ヒットマンREBORN!』(04)が存在する。スポーツものでも中盤以降急速に「異能」化していった『テニスの王子様』をはじめ、『Mr.FULLSWING』(01)、『アイシールド21』(02)、そして『黒子のバスケ』(09)へいたる「異能」路線が隆盛する。この年代ほど「王道=異能=〈ジャンプ的なもの〉」という等式が強かった年代はないだろう。

その「王道」の陰で、そこから外れた「邪道」も生まれる。他ならぬ大場と小畑の『DEATHNOTE』(03)を筆頭に、この年代の半ばからダークヒーローを主人公とした作品が人気を博する。人を自在に殺せるノートを操る夜神月と探偵「L」の頭脳戦を描く同作は、たしかに「ジャンプらしくない」。しかし、「ティーンエイジャーが超常的な力を獲得」する点は「王道」と共通している。異なるのは異能を持つのが月だけであり、自分の望みのためにそれを用いるということだ。同じく主人公が欲望のために異能を用いる『魔人探偵脳噛ネウロ』(05)は推理モノの体裁を取りつつ、ネウロが読者にはたどり着き得ない手がかりから真相を解明する。異能もセオリーさえずらされれば、「王道」ではなくなるわけだ。

こうして「邪道」作品は、異能という「王道」要素をずらしていく。「邪道を描くには王道を知る必要がある」というベタな教訓が浮かびもするが、この教訓は捨てるべきではない。「邪道」にはずらすべき「王らし道さとは何か」という問いが、常に内包されている。だとしたら「邪道」の誕生とは、ジャンプ漫画自身に「ジャンプらしさ」とは何かという自意識が生じた瞬間である。この時代の〈ジャンプ的なもの〉とは、「王道」と「邪道」の隆盛から生じる、「ジャンプ的なものとは何か」という視点それ自体である。『銀魂』(04)や『太臓もて王サーガ』(05)、『いぬまるだしっ』(08)など同時代のギャグに、ジャンプパロディーが多いのはきっと偶然ではない。

そしてこの年代の最後には、『めだかボックス』(09)が現れる。異能を突き詰めつつジャンプへの言及を繰り返すことでパロディーにしてしまう、「邪道」バトル漫画。前年の『バクマン。』と並び、この二作品は「ジャンプ的なものとは何か」の極北にある。そこで「王道」は「邪道」へと反転し、混ざり合う。『バクマン。』の終盤、エイジは「邪道」要素を取り入れ、亜城木は「王道」ジャンルに挑戦する。

「王道」/「邪道」の年代の果てに、両者は混交する。それは「王道」が〈ジャンプ的なもの〉を意味しなくなるということだ。ではそのとき、何が「ジャンプらしさ」たるのか。『バクマン。』には答えになりうる台詞がある――「マンガは面白ければいいんだ」。作中の編集長によるこの言葉には、〈ジャンプ的なもの〉とは「面白さ」であるという究極的な観点が表れている。

だが、本当にそうか。数に即せば「ジャンプ的」なのはむしろ、「面白くない」漫画ではないか。この時代はSNSの萌芽により、打ち切り漫画がネタとして共有され始めた時代でもある。「突き抜け」という隠語を産んだ『ロケットでつきぬけろ!』(00)、絵柄や台詞がネタとなった『斬』(06)、八週という超短命だった『チャゲチャ』(08)、カラー等で押されつつ打ち切られた『ダブルアーツ』(08)……。「王道」と「邪道」の裏には、どちらにもなれなかった「打ち切り」たちが存在する。だから『バクマン。』の主人公の叔父は、打ち切りの中で死んだ漫画家に設定されていた。

「王道」「邪道」「打ち切り」、この三つの柱が支えたのが2000年代の『週刊少年ジャンプ』なのである。(横山宏介)

2010年代:拡大する〈ジャンプ的なもの〉――多層的関係性/内破する新世代

2010年代のジャンプ作品で特徴的な要素は「シンメ」である。「シンメ」とは、アイドル用語で「ステージの立ち位置が左右対称であること、あるいは左右対称に踊ること1)」であるが、両者の対称性によって個性を際立たせる機能を伴っている。漫画に置き換えると、落ちこぼれで素直・熱血気質な光の主人公と、天才で思慮深くクールな影の主人公が切磋琢磨していくという図式だ。例えば『ハイキュー!!』(12)日向翔陽と影山飛雄、『僕のヒーローアカデミア』(14)緑谷出久と爆豪勝己、『ブラッククローバー』(15)アスタとユノなどが挙げられる。

それ以前は一人が負けても全体が勝てばいいというチームや、正反対ながらも利害の一致のため合意して協力をするタッグが主人公だった。そうではなく、シンメの根底には「あいつは自分にない能力を持っている」という嫉妬と「あいつより強くなる」というライバル関係があり、そんな二人が仲間として共に成長することにより重要な意味がある。なぜならその関係性からドラマが生まれ、また影の主人公にもスポットライトが当たることで、より作品が多層的になるからだ。ライバルに負けたくない気持ちを原動力として〈努力〉し、ライバルと息が合うことで敵に〈勝利〉し、結果的にその行程が〈友情〉として機能する。それが「シンメ」を軸にした〈ジャンプ的な〉物語の進み方だ。

「シンメ」を軸にすると、「主人公(味方)と敵」という単純な図式ではなく、近くに一番のライバル(シンメ)がいて、敵もライバルで、敵ライバルにもシンメがいて、その敵も……と多くのライバル達を二人が少しずつ倒していくという複雑な構図を作品は持つ。その最良の例として『ナルト』(99)が挙げられる。落ちこぼれ・うずまきナルトと天才・うちはサスケのシンメに加え、二人の先輩で身近なライバルであるロック・リーと日向ネジのシンメ、更にナルトとサスケの先生であるはたけカカシと、リーとネジの先生であるマイト・ガイのシンメ……その構図は世代を大きく遡り、最終的には忍世界の祖である六道仙人の息子・大筒木アシュラと大筒木インドラのシンメにまで辿り着く。シンメの関係性が世代を超えて受け継がれること、その〈絆〉や〈火の意志〉と表現される縦横無尽の繋がりがこの作品の魅力となっているのだ。

この他にも更に、『ハイキュー!!』の月島蛍、『ヒロアカ』の轟焦凍などシンメに対する第三項の登場や、『ワールドトリガー』(13)のシンメを含めた4人の主人公を立てる2)ようなパターンも存在する。これにより、シンメを中心とした関係性がより幅広く、網状に広がっているのだ。ところで、これは『週刊少年ジャンプ』のいつ打ち切りになるかわからず、一方で人気作品は長く連載するシステムともとても相性が良い。なぜなら「どの敵を倒したところを終わりとするか」の調整ができ、作品世界のスケールが大きくなっても(なんとか)破綻せずに厚みのある物語を描きやすいからだ。この『ナルト』で成功したシステムが、2010年代の〈ジャンプ的なもの〉に影響を与えたのではないか。

また、新世代の話にも触れておこう。「マンガ大賞2017」で6位に入賞した『約束のネバーランド』(16)は3巻時点で、2000年代で出現した〈ジャンプ的なもの〉をずらした〈邪道〉作品どころか、〈ジャンプ的なもの〉ですらない作品なのだ。本作は、孤児院で楽しく暮らしている子供たちが自分たちが鬼の食料として養殖されていたことを知って、そこから脱出し生き延びようとするというハードな物語である。ジャンプの原則に反して、主人公のエマは正義感は強いが〈努力〉の描写がない本当の意味での天才である。また作中ではキャラクターの内面よりも世界観設定や問題解決のロジックが中心に描かれ、絶望的な展開に更に絶望が重なって〈勝利〉のカタルシスが殆どない。そして「足手まといになる仲間を何人か切り捨てる」という話もあり、〈友情〉の要素は極端に狭い。このような特徴からもわかるように本作はまさに〈ジャンプ的なもの〉の真逆を敢えていく作品であり、同年代であれば『別冊マガジン』の『進撃の巨人』に近いような苦い読後感を与える。

『BLEACH』『ナルト』『こち亀』などの有名作品が終了した「ジャンプの危機」である現在に、〈非ジャンプ的なもの〉である『約ネバ』がヒットしていることは、〈ジャンプ的なもの〉の敗北と言うべきなのだろうか。だがこの「シャンプ・ディケイド」企画を振り返ってみると、現在の状況は1990年代の第一次「ジャンプの危機」とその後の進化に似ていることがわかる。当時も『ドラゴンボール』終了の打撃後に後継作品が多数登場し、そして現在までのジャンプを支えてきた。同様に『ナルト』から受け継いだ〈ジャンプ的なもの〉は新たなジャンプを支える作品を生み出している。つまり、2010年代後半のジャンプは〈王道〉と〈邪道〉というシンメに第三項として〈非ジャンプ的なもの〉を取り込み、また次の進化を遂げようとしていると言えるのではないか。(高井くらら)


1 「シンメ」『はてなキーワード』、二〇一六年一〇月三日閲覧(d.ha
tena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%F3%A5%E1)。
2「Q&A‐その他‐Q.23」『ワールドトリガー.info』、二〇一七年一〇月三日閲覧(worldtrigger.info/article/qanda.php?gr=5)。

※本記事は『ヱクリヲvol.7』「僕(たち)のジャンプ」特集に収録されたものを再掲したものです

【特集Ⅰ 音楽批評のオルタナティヴ】
〇interview:佐々木敦 「音楽批評のジレンマ」
〇音楽批評の現在(リアル)を捉える――「音楽」批評家チャート 2000-2017
〇音楽批評のアルシーヴ――オルタナティヴな音楽批評の書評20
〇論考
「鉄(メタル)と鋼(ヘヴィ)、響きと空間」/吉田雅史
「レア・グルーヴ、平岡正明――「ジャズ的」から「ヒップホップ的」へ」/後藤護
「即興音楽の諸相――ジャンル、イデオロギー、美学、方法論、情況論、原理論に向けて」/細田成嗣
「記号の夢、夢の記号――A.I.と未来のポップ・ミュージックをめぐる『非現実』」/大西常雨
〇来るべき音楽批評を思考するためのライブラリー

【特集Ⅱ 僕たちのジャンプ】
〇ジャンプ・ディケイド 1968-2017
〇論考
「僕はただの少年――『ヒーロー』なき時代のヒーロー漫画」/横山宏介
「サイキックなオペレーターたち」/楊駿驍
「ドラゴンボールに見る、少年マンガとカンフー的身体」/横山祐
「ジャンプという共同体――ジャンプコードと『幕張』」/松房子
「1990年代の『ジャンプ系マンガ』と中国商業コミック市場」/謝天

〇批評
「歪んだ顔写真、または顔認証技術をめぐる試論」/増田展大 「ファウンド・フッテージ・フィルムに回帰するもの」/山下研

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