『悪は存在しない』レビュー:濱口竜介と悪の荒唐無稽さ


「助けを叫ぶとやってくる。叫ばれた悪魔はチェンソーで殺され、助けを求めた悪魔もバラバラに殺される。そんなだから多くの悪魔に目をつけられて殺されるけど、何度も何度もエンジンを吹かして起き上がる」

藤本タツキ『チェンソーマン』10巻85話

チェンソーの根源的な恐怖

『悪は存在しない』。

 ずいぶんと勿体ぶっている。一方で、かなりキャッチーなタイトルだ。なんと言っても「悪は存在しない」のだ。まず「悪」だけで随分とどんな話か気になる。悪というからには正義と対決するのだろう。きっとなにか悪いことが起きるのだろう。どんな悲劇が待ち受けるのか。それでいて具体的なことはなにも教えてくれない意地の悪いタイトルでもある。極め付けにはその悪が、「存在しない」のだ。では、なにが存在するのだろう。正義は存在するのか。あるいは、よく似た何か別のものが存在するのか。悪意は存在するのか。悪事は存在するのか。悪魔は存在するのか。

 こうした想像からいくつか他の映画を連想してみる。モハマド・ラスロフ『悪は存在せず』(2020)とか、ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』(1977)とか、ヴィム・ヴェンダース『誰のせいでもない』(2015)とか。思わせぶりなタイトルの先行映画たちの中で起きたことと同じことがここでも起きるのだろうか。予期せぬ災い、人間の倫理についての試練、悲劇は起きた、誰のせいでもない、そして最後に問いかける。果たして本当に「悪は存在しない」のか。本作もまた、そうした真面目な社会派映画の一本なのか。見終わってみるとわかるのだが、答えはノーだ。

 果たして見始めて7分。確かに画面は異様な不気味さを纏っている。ちょっと怖い。子どもの視線で見上げた冬空が視界を両側からひび割れのように遮る木々の枝枝が遮る。森の中で空を見上げて歩く視線を真似るようにその空の川の流れに似せた瞑想的なカメラワーク、小川のせせらぎと石橋英子の少し不安定な気持ちになる音響、雪を踏む足音。それさえなければのどかな山間の自然をテーマにした無害なドキュメンタリーに見えたかもしれない映像に、ただあの不気味なタイトルだけがこれから起きるかもしれない事件の不穏さをほのめかす。

© 2023 NEOPA / Fictive

 観客は邪推を免れない。まるでこう呼びかけてくるかのようだ。注意深く画面を覗き込め。そうすれば見えてくる。この平和のどこかに隠れたその「悪」かまたは、それによく似た別の何かが。

 やがて巧という主役らしき男がチェンソーを吹かして、丸太を切断し始める。人体切断シーンのある映画を「切り株映画」と呼ぶ表現があるが薪割りをほぼノーカットで見せるこのシークエンス、とくにチェンソーで割れた丸太がばらばらと台座から割れて崩れ落ちるところなんかは丸太に人体めいたエロティシズムが宿る。斧が薪を割るどつん、という音もちょっと生々しい。

 何を考えているかわからない無口な田舎の男とその手に光るチェンソー。もしかしてこれから恐ろしいことが起きるのではないか。いやまさか、しかしそんなことは。決して起きることがなければいいと思いつつ私は極端な連想をしてしまう。悲劇の連想。もしかしてこの映画はアレではないのか。このチェンソーこそが悲劇を引き起こすのではないのか。つまりヴェンダースやブレッソンではなく、これはあのトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』に類する一本ではないのか。

 トビー・フーパー監督の出世作『悪魔のいけにえ』(1974)はカルト的な人気を誇るスプラッター映画の古典だ。テキサス州に帰郷した五人の男女が一人の生き残りを除き、チェンソー振り回すレザーフェイスという人皮を集める殺人鬼とその家族に次々と惨殺される。荒唐無稽な設定にもかかわらず、職人的な撮影手腕が映画好きにもカルト的な人気を博し以後3本の続編をはじめとするプリークエル、リメイクが生まれ、世代を超えて親しまれてきた本作はジャンル映画のカノンと呼んで差し支えないだろう。

 ところで『タッカーとデイル 史上最悪に不運な奴ら』(2012)という映画がある。これは、『悪魔のいけにえ』の流行がなければ成立しなかったホラーコメディ映画だ。こつこつ貯めたお金で山間の別荘を立てて暮らす中年男のコンビ、タッカーとデイルが、キャンプに来た大学生たちに遭遇するのだが、チェンソーで薪を割る中年男たちを偏見から殺人鬼だと勘違いした大学生たちがパニックを起こして次々と事故死していく。

 この荒唐無稽な話にコメディとしての説得力を与えるのが『悪魔のいけにえ』に端を発するミームなのだ。田舎で見知らぬ中年男がチェンソーを振るっている。実際にチェンソーで木を切るところなど生で見たこともない世間知らずの都会の子どもには、チェンソーとはなにか恐ろしい拷問器具のようなものにしか見えない。無知が生み出した根も葉もない受け手側の勝手な偏見が恐怖を呼び覚まし、噂を生み出す。チェンソーを振る中年男が恐ろしいのではない。それを初めて見た無知な誰かが恐怖だけで根も葉もない「悪」をでっちあげる。そのでっちあげの中になら「悪」は存在するかもしれない。だからといって、ここでこうした無知と偏見を糾弾しているのではない。これを読んでいるあなたも斧やチェンソーを実際に使ってみたことなどきっとほとんどないだろう。私もない。我々はそうした無知と偏見と噂の中で暮らしている。では、この映画はその無知と偏見についての寓話なのか。そこまで説教くさい代物ではないだろうが、濱口竜介はいつもコミュニケーションの問題を取り扱う作家であることは確かだ。

 倫理の話、コミュニケーションの話、映画のテーマ。堅苦しい話は無しにして、この映画をただジャンル映画のように娯楽として楽しむとしよう。するとここで観客に課された謎は最も単純になる。果たして、あのチェンソーを振りかざす男はレザーフェイスのような殺人鬼なのだろうか。

コロナ補助金のキックバック

『悪は存在しない』という映画は、決してホラー映画としてもコメディとしても宣伝されてはいない。映画のルックは、環境保護をテーマにしたいかにも映画祭向きの政治映画のそれだ。長野県水挽町に暮らす巧と花の親子のもとに、東京の芸能事務所がコロナの補助金を使ったグランピング場建設の話をもちかけてやってくる。施設は山に暮らす鹿の水場に造られる予定で、説明会では巧に限らず住民たちから治安や水質保全の観点からも住民の不安が叫ばれ、建設計画の杜撰さが次々と明らかになる。そこに見え隠れするのは、都市からきた企業の金儲け主義に代表される「悪」と、それに抵抗する地元住民の「善」の対立。あるいはそうした対立を通して映画が環境問題を描こうとするような薄っぺらな政治的メッセージの発露だ。念の為、ことわっておくが『悪は存在する』はあくまでそういうイメージを利用した別の作品で、必ずしもこれ自体が偽善的な映画という訳ではない。

 こうしたステレオタイプの対立を揺さぶるのが、開発側の芸能事務所からやってきた二人の会社員、高橋と黛の人物造形だ。芸能事務所の手先となって説明会にやってくる二人はいわゆる「下請け」としての苦悩を抱えている。コロナ禍の経営難を乗り切るために事務所の社長が申請した助成金のせいで、彼らは短期でのグランピング上の建設着工という任務を負っている。突然グランピング事業の仕切りを任された事務所の社員たちは企画屋としてプロのノウハウを持ち合わせていないし、彼らに口先だけで助言をするコンサル会社のビジネスマンは決して現場にやって来ない。現場の住民たちから、社長とコンサルを連れて来いだの、管理の面でも水質保護の面でも無理のある計画だと指摘されると黛は住民側に寄り添おうとして会社と対立し、板挟みになった高橋は「なんでこんな仕事、俺がやらなきゃいけないんだ」と嘆き始める。実際に、おそらく都市の映画館でこの映画を見ることとなる多くの観客にとって一番身近で共感できるキャラクターというのは田舎の住民たちではなく、人間関係の板挟みに疲れたこの二人の会社員のはずだ。

 濱口竜介の映画という点では、高橋が元俳優であることは見逃すことができない。彼の映画には必ず「劇中劇」が登場する。そこには俳優と演劇や、ダンサーとワークショップがしばしばセットで登場し、俳優(ダンサー)本人ではなくその上演に立ち会った別の誰かの人生を変えてしまうのだ。加えて『ドライブ・マイカー』や『寝ても覚めても』という近作ではとりわけ、こうした「劇中劇」が災害に端を発し、まるで予期せぬ災害から身を守るために発生した「劇中劇」がその二次被害を引き起こすような形で立ち会った者の人生を変えてしまうというふうに構造化されている。

 この「劇中劇」の仕組みについてもう少し踏み込んでみよう。以前に、他の映像作家と比較して論じた(『寝ても覚めても』評)が、濱口の演技-脚本の手法はそのどちらかに偏るものでは決してあり得ない。脚本や演出指示に完全に俳優を従属させるのでも、即興で俳優の感情を爆発させるのでもない。『ドライブ・マイ・カー』で「セックスだけが相手のことを知る方法じゃない」と力説する演出家がセックスのときにだけ物語を語る妻から霊感を得るように、『PASSION』で、「こんな女、引っ叩いたって変わんねえよ」と男が自分の提案を一度却下して初めて女を「引っ叩く」が可能になるように、『寝ても覚めても』で「朝子の顔を見る良平さんの顔にキュンとする」と呟く女優が他人の恋愛に感化されつつ「良平」ではない男と恋に落ちるように、『扉は開けたままで』で偶然とは言え、自ら朗読して書かれたものの価値を実感した女がその小説と作家を貶めるようなメールを送ってしまうように。そこでは脚本があるからこそ起きる裏切り、言葉への裏切りたる明晰な言動の不一致がほぼ毎回重要な展開を担ってきた。

 今回、グランピングこそが今回の「劇中劇」に相当する。芸能事務所はコロナ禍の「被災」をきっかけに経営を続けるために、キックバックを期待して助成金を申請した。地元住民から「『グランピング』って要するにホテルでしょ」と指摘される場面があるが、まさに作者がこのセリフで明かす通りで、グランピングとはアウトドアを擬似体験する、「偽キャンプ」であることが示唆される。

 本作におけるグランピングとは突き詰めれば、何か。それは必ずしも悪いものではない。先に見たようにこの映画は、「善:環境を保護する地元住民」と「悪:グランピング開発を進めるよそ者」の対決を前提に始まり、観客はもちろん、地元住民が勝つことを期待させられるのだが、地元の開発と経済発展を促すグランピングは地元住民にとってさえ必ずしも害ではない。注目すべきは、地元住民と開発側が真っ向から対立しそうになるとき、その間に立つのが巧であることだ。彼は、「ここは元々、戦後の農地開発であてがわれた土地。そういう意味ではみんなよそ者だ」と譲歩を示し、むしろ調停者の役を進んで担う。

 黛や高橋に、損得勘定にしか興味のない冷徹な人間ではなく、共感すべき苦労人の役が当てられていることにもすでに触れた。そこで、高橋が自身が社内転職し、都会生活に見切りをつけて管理人として田舎に移住することを思い立つと、映画は(少し安易だが)巧によって開かれた妥協案らしき解決策へとこのまま収束していくように見える。高橋の視点からすれば、その妥協案にも大小の困難があるだろうが、しかしいずれにしても、決して映画が描くことはないこの少し遠い未来は彼にとって、この映画にとって、ささやかなハッピーエンドになるかもしれない。そんな結末が暗示された矢先、映画は唐突に別の結末を迎える。

 この章の初めに本作は必ずしもステレオタイプの善悪の映画ではないと述べておいた。つまり『悪は存在しない』は、地元民と開発側の対立を描く映画ではない。つまり、どちらが勝つのかが問題ではない。映画の本筋は、両者の和解か決裂か、その交渉の結末をめぐるサスペンスにあるのだ。本作における「劇中劇」たるグランピングのはじまり、その説明会で巧は和解の「セリフ」を口にしてしまう。これこそが濱口映画における劇中劇の機能だろう。先の論考の言葉に依るなら、濱口の映画には現実とその裏に潜み、災害の方に属する「はらわた」の次元が存在する。濱口映画において「劇中劇」は、脚本ありきでの即興、脚本があるがゆえの言葉と演技(アクション)の乖離を実現する。つまり、「劇中劇」はセリフの発話をきっかけに、和解を現実に、決裂を「はらわた」の側にと明晰に腑分けし、後者をアクションしまうのだ。こうして唐突にプロットの表面上で進むのとは「別の結末」が生まれる。では最後に、想定通りの予想外を歩むこととなった巧のその結末について確認してみよう。

グランピングの悪魔

 先に触れておこう。巧は人を殺す。少なくとも殺意を持って他人に襲い掛かる。

 本作は、濱口の前作『ドライブ・マイ・カー』でも音楽を担当した石橋英子のライブパフォーマンス用に作られた映像作品『GIFT』の制作に端を発して構想され、ほとんど並走する形で作られたらしい。つまりこれは音楽ありきの作品だった。その試み自体はきちんと成功しており詳しく分析されるべき評価に値するものであろうが、本作における音楽と映像の効果については意表をついたり個性的であるというよりむしろ確実で手堅い演出に見えるため詳しくは触れない。ただ、水挽町にその名の通りおいしい湧水が流れること、鹿たちの生息地である水場にグランピング場が建設されようとしているという点で水は作劇上でも重要なモチーフとなり、水場や清流を映し出すシーンで石橋の音楽が強調される場面はどれも印象深く美しい。

 これはいわゆる映画におけるオフの音声というもので、登場人物の心情に寄り添い本来聞こえないはずの音楽が観客の耳にだけ届けられる。つまり、映像の「外部」で流れる、誰かの心の「内部」の音なのだ。音と水とが前面に強調されることとなる最後のシーン、巧と高橋が、失踪したはずの花と銃創を負った鹿の親子と出会う場面でこの水と音とが前面的に強調される。夕暮れ間際の深い霧の中。それはちょうど、テオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』(1988)にもよく似た霧だ。このギリシャ映画で旅をしてきた貧しい姉弟は、霧の向こうにある死後の世界へ旅立つようにして映画を終えるが、その彼岸にも似たこの世ならざるものの世界。体と心の内と外とが入れ替わってしまったかのような世界で巧は秘めた凶暴性を露わにする。これこそ濱口映画では決して直接描かれることがないものでありながら、フィクションを通じて最後に発露する秘めた災害のような内面なのだ。

 作品としてほぼ唯一難点があるとすれば、本作の難点は子どもの描き方が非常に記号的であるということだ。巧の心変わりのきっかけは、娘の花の失踪と発見だ。この花という娘の来歴や内面はほとんど触れられず、無垢さや自然を象徴的に代表して大人同士の対立を媒介する記号的な役割を担わされるように見える。その点、気になると言えば気になるが、あくまで大事なのは大人同士の物語であるというところはすっきりしている。秘めた内面がサスペンスを生み出すのは、それをわざわざ秘める必要に駆られる大人の特権だろう。 

 この内面の発露は唐突ではあるが、決して不条理でも、個性的ですらもない。映画のサスペンスの定石にほとんど従うと言っても過言ではないだろう。先にも触れたように、プロットは序盤で観客に地元住民の善が、開発側の悪に打ち勝つことを期待させる。映画の結末を予期する対立はこの地元民と開発の対立から、両者の和解と決裂という別の対立にすり替えられてはいるが、和解が成立しそうになった途端、その最悪のタイミングで映画が最初に観客に期待させた住民側の一矢報いるアクションを描いたに過ぎない。

 濱口映画には他にもこうした展開がある。中編連作『偶然と想像』第1話「魔法(よりもっと不確か)」では元恋人、芽衣子と新しく知り合った女性つぐみの間で揺れる男、和明のそれぞれとのやりとりが描かれるが、芽衣子との長いやりとりの後で和明が過去と和解しつぐみとの交際を始められそうになった矢先、唐突に芽衣子が「魔法よりもっと不確かなものを信じてみる気はある?」と自分を選ぶ方に誘いかける。芽衣子かつぐみか、二者択一の設定をして問題が解決しそうになった瞬間、文脈を断ち切る唐突さでもう一方の選択肢が顔を覗かせ、観客を驚かす。『悪は存在しない』でもこれとよく似たことが今回もなされている。二つのうちどちらを選ぶのかという結末についてのサスペンスが提示され、そのうちの一つに結末が落ち着きかけた間際で、もう一つの結末を出すか、ちらつかせるかして観客に宙吊り状態の不安定を味合わせてめまいを引き起こすのだ。

© 2023 NEOPA / Fictive

 まとめよう。開発側との和解か決裂か。ほとんど和解へと話が傾いた矢先、巧の内側へと自分達が暮らすこの土地に新しくやってこようとするものを力強く突っぱねる決意が人知れずひっそりと打ち立てられていたのだ。

 中盤で高橋と黛が二度目に水挽町を訪れる場面がある。巧に指定された待ち合わせ場所は薪割り場だった。遠くから聞こえるチェンソーの音を頼りに高橋らは車を走らせる。またしても登場し、またしても長回しで観察されるチェンソー、斧、割れる薪。慣れない手つきで不器用な高橋は、巧から指導を受けて初めて薪割りを成功させる。まるでそれは、サラリーマンも俳優の夢も諦めてこれからここで暮らすことを高橋が決意する場面のように描かれるが、実はそうではない。濱口映画の定石に則るならば、この薪割りというロールプレイの最中に巧の運命が変わる。彼が殺意を覚えるのは、地元の生活を守るためでも、地元の自然を守るためでも、娘を守るためでさえもない。「グランピング」というフィクションに触れた瞬間にあのレザーフェイスの魂が、チェンソーの特性が彼に火をつける、いやエンジンをかけてしまうのだ。

 それは目に見えないし、手にも触れられない。色や形を持つこともない。それはただただ自然の中の意志のように、あの世の風景のように、そこに流れる水のように、その音のように、人間が営む荒唐無稽なフィクションの中にしか「悪は存在しない」のだ。