劇団ままごと『わが星』短評


三鷹の舞台に彼らがいた時、そこは確かに学校の屋上だったし、遠くて近いどこかの家のちゃぶ台を囲む団欒の場であったし、星のホールでもあり三鷹市芸術文化センター・「星」のホールでもあった。そこに地球のちーちゃんがいたこと、お月様の月ちゃんがいたこと、彼女らがタイムカプセルに光を詰めて10億年待ったことを僕は憶えている。出来ることなら忘れたくはない。ちーちゃんのお婆ちゃんが100億年も生きられなかったこと、身体が「でろでろ」になってお星さまに変身したこと、二度の「ハッピー・デース・デー」を過ごしたこと、そしてそれに納得できないちーちゃんが時間を巻き戻し過ぎてまだお母さんのお腹にいた頃にまで戻ってしまったこと。一人の少年と、校則/光速を超えた先生が語り合ったあの屋上で、理科室から持ち出した望遠鏡で見つけた遠い家族…。

柴幸男作・演出、劇団ままごと公演の『わが星』を観に行った。劇はあまり沢山観る方ではないが、しかし一つ大胆なことを言わせて欲しい。「わが星」は、「演劇」ではなく「ままごと」だった。それも「言葉のままごと」である。

舞台上にはただ人間がいるだけだ。しかし言葉が彼らを「地球」、「生徒/先生」たらしめる。冒頭と終盤に、時報が一秒一秒を刻む音に載せて、俳優たちは誰かの誕生を祝う歌を斉唱する。それは言葉遊びを使いながら日常の風景と地球の命運を軽やかに繋げ、解体し、それにより舞台の輝きを印象付ける。この戯曲は言うなれば「惑星の生と死」を物語る戯曲ではあるが、そこに立ち現れるのは明るさであり、生命力であり、何より速さである。二つの速さがこの「ままごと」の中で際立っている。等しい速さ(身体の速さ)と、超光速(校則)の速さ(言葉の速さ)である。

この戯曲が上演されたホールは勿論周囲を壁に囲まれて、日常的な生活空間から隔離されている。時間にしても、上演中の時間は日常のそれとは異質なものだ。つまり祝祭空間のような異質な時空間が劇場に構築されるのである。しかし言葉はこれを越境する。「地球」という言葉が発せられるやいなや、「わが星」が上演される空間内では第一に女優の演ずる地球の「ちーちゃん」へ、第二に一人の少年とその先生がいる「物語内の地球」へ、そして第三に「現実の地球」へと意識が向いてしまう。「地球の最後は、大きくなった太陽に包まれて燃えてしまう」という話を耳にすることで、「わが星」という非現実を通して本当の現実へと観客は回帰を強制される。劇中で語られるいくつもの言葉は虚構を形作ると同時に現実的な運命をも示唆している。

虚構と現実を文字通り0秒で往復するこの速さが「言葉の速さ」である。

もう一方で、別の速さを生きる存在がある。「そして、今も宇宙は広がり続けています!そのスピードは1メガパーセク当り、秒速70キロメートル」一人の男優がこう言うと、俳優たちが一斉に舞台を駆け抜ける。彼らはその運動によって「1メガパーセク当り70キロメートル」の速さを表現しようとしているのか。そうであれそうでなかれ、結局のところ表れるのは宇宙の広がる速さに対する身体の速さである。天文学的な途方もない速さに際立たせられる、文字通り地上を這って進む鈍さという速さ。この速さはしかし時報のビートと同調を果たし、俳優たちの歌と踊りのコーラスを成立させる。どんな台詞であれ身体を持った俳優に語らせようとすると、その速さ・時間がその長さに依存することは避けられない。しかしそれは、ほとんど同じ時間を同じ持続の中で生きているという喜びの共有である。なぜ誕生日を祝うのか、それは等しい速さの中で時間感覚を共有する喜びだからである。

「わが星」ではこれら二つの速さが幾度となく交錯する。俳優が1分回る間に10万年を超える。学校の屋上から遥か宇宙の彼方の少女へ向かって少年は跳躍する。

そして、ちーちゃんは俳優の身体を持ってして50億年の時を往復し、自らの死と生をその目に焼き付ける。

(ちーちゃん)「ねえ」

(何者か)「何?」

「これ、私が死んでく時?」

「そう」

「うん、憶えてる」

「ずっと見てたんだ」

「見えてた。燃えるんでしょ」

「燃えるよ」

「消えるんでしょ」

「消えるよ」

「ねえ」

「何?」

「手繋いでもいい?」

ちーちゃんに応答する声は無い。地球と手を繋ぐにはどうすれば良いのか。たかが100年の生を以って50億年の時間と対峙するにはどうすれば良いのか。そう、速さである。

言葉の速さだけが50億年を超える。身体の速さだけが100年の有限性を浮き彫りにする。「わが星」の上演中も刻々と時は進み、観客だけでなく俳優の、そして全てを支える地球の寿命が近付いてくる。「時」という言葉は虚構と現実を超光速で貫通する。言葉と身体が戯れることで、劇場空間はただ周りから隔離された祝祭空間に仕立て上げられるのでなく、その外枠の構築と解体を不断に繰り返すのである。そこに現れる時空間は、現実と進行中の物語と未来の運命が混在する多元宇宙と呼ぶしかない。時報に合わせて俳優たちが歌い、歩き、手を叩くとき、彼らは演じるというより踊っている。同じリズムを共有し、共に物語を紡ぎ、意味の無い言葉もリズムに乗って他の言葉とシンクロすることで歌と化し、他との関係において意味を獲得する。

「ままごと」の喜び、その一つはこのように現実と虚構を軽やかに横断しながら、相手とリズムを共有することにある。