『かげろう -通訳演劇のための試論-』観劇レビュー ~私も一人の他者であるために~


 国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2016と題された「東京芸術見本市(Tokyo Performing Arts Market)」(通称TPAM)が2016年2月6日から14日まで開催された。その中で、TPAMショーケースとして上演された濵中企画による青年団若手自主企画 vol.65 『かげろう -通訳演劇のための試論-』を観劇してきた(2月9日19:30の回を観劇)。
 この作品の演出家である濵中峻は一昨年の2014年12月にアトリエ春風舎でも同じタイトルの『かげろう』という作品を上演しており、それも観劇していた私としてはどのように作品が変容したのか楽しみでもあった。その時の上演内容としては、ヘッドホンをつけた役者数名がプロジェクターに移された被災地の風景を背景にして、その土地に住む人々のインタビュー時の言葉を淡々と発話していく内容だった。時には足元を見ながら、被災者を演じるわけでもなく、感情的になるのでもなく、ただただヘッドホンから聞こえる言葉を発話している役者の姿がとても印象に残っていた。その演出に何かしら、福島の人の言葉を東京の劇場で発話することへの誠実な態度を模索している意図を感じた。
 TPAMでは、国際性を担保するために英語話者でも理解できる内容にする必要があるため、今作も日本語で上演され、英語字幕が表示されるものだと思って開演を待った。しかし、私のこの思い込みはのっけから否定される。プロジェクターに映される海の映像、そしてノイズにも似た波の音。上手の椅子に座る黒いワンピースを着た女性。お年を召された女性の日本語の声がかろうじて聞こえる音量でスピーカーから流れる。そして、黒いワンピースを着た女性(伊藤羊子)はその日本語を翻訳して英語で発話を始めた。彼女はイヤホンを付けており、どうやら同時通訳をしているようだ。私はこの光景に面食らってしまった。なぜなら、一人芝居の主演女優だと思っていた黒いワンピースの細身の女性が、ただの通訳として、映像と音声の黒子、影として英語を発話しだしたからだ。しかもその英語と日本語は同時に重なって聞こえてくるのだ。映像にほんの少し姿を見せ日本語をしゃべる女性は福島県いわき市に住む高木京子さんという方らしい。その方の日本語を英語に通訳して発話するもうひとりの彼女を見ながら、この女性も演出家もおそらくは母語は日本語であり、その上で英語によって演じ、演出しているのだと私には思えた。しかし、そのことは演出上の不備では決してなく、演じることと演出することをあえて制限するために、同時通訳という方法をとっているのだと私には思えた。何のために? 誰か他人の出来事をまるで本人のようにカタルことを避けるために。そして、もっと別の存在になるために。このことについては、当日配布されたパンフレットの濵中峻へのインタビューの中にも以下のような発言がある。

 舞台には舞台の当事者性があるんです。俳優は舞台以前には非当事者であっても、舞台の上には何か別の、それも全く別ということではなく地続きになったところで別の当事者になるような。「人が他者から何かを継承する」というのはこのあたりにヒントがありそうな気がしています。

 別の何かになるように、日本語を元にそれを通訳するはずの黒いワンピースの女性は、時として、オリジナルな存在のはずの高木京子さんよりも先に英語を発話した。そのあとで日本語の元の台詞がスピーカーから流れる。こうして話者と通訳の前後関係が曖昧になっていく。そして、スピーカーから聞こえてくる日本語は時として聞き取りづらく、あまり英語が得意ではない私ですら、日本語の音声よりもむしろ英語の発話の方が聞き取りやすいほどだった。英語を発話する彼女はプロジェクターに映るクレーンや、ブルドーザーに合わせて、ゆっくりと踊りだしたりと、通訳者という存在とも、役者という存在ともいえない、映像とも、生身の役者ともいえない、どちらででもあるようでいてどちらでもないような不思議な存在に変容していった。日本語と英語、通訳者と役者、映像と生身、音声と生声、白いスクリーンと黒いワンピース、それぞれの対称関係が拮抗していく中で、「遺体がねぇ…遺体がねぇ」というぎりぎり聞こえるノイズ混じりの声が聞こえる。どうやら、その声は、遺体が見つからないとなんだか受け入れられないというようなことを言っていた。その時に私はある幻覚を見てしまった。韓国の高校のほぼ一学年全ての教室の机の上に白い花が置かれていた。そこにも遺体はなかった。それはとても演劇的な光景だった。その話は確か、藤原ちからさんから聞いた話だったことを思い出した。
 私が藤原さんの講義を聞きに行った時に、エルフリーデ・イェリネクの『光のない。』やチェルフィッチュの『現在地』といった東日本大震災以降にそれを意識して上演された作品を藤原さんが韓国に紹介した時のことを話していた。そういった作品に対しての韓国のプロデューサーからの「なぜ震災を直接描かず、遠まわしに描くのだ?」という質問に藤原さんはうまく回答することができなかった。そうした寓話的に震災を描くことは、日本の演劇界にとって後で大きなしっぺ返しになるのではないかということを藤原さんは語っていた。
 このしっぺ返しを受けないために、震災を直接的に描くということを考えた場合に、私には2つのハードルがあるように思える。
 1つ目は観客の想像力の幅を狭めてしまう可能性があるということだ。どういうことかと言うと、間接的に描く場合は、地震や津波、放射能を別のもので暗示し、抽象化して描くことで観客側の想像の幅を広げ、あとはその広がりを開きっぱなしにして何を観ていいのかわからなくする前衛的な極端な方法から、ある程度わかりやすい話の筋を入れたりして、想像の幅を狭めていくことでバランスをとったりする方法が選べるからだ。しかし、直接的に描く方法をとった場合には、観客の想像の幅のバランスをとることが難しくなる。なぜなら、観客側が直接的に「原発反対」「原発賛成」「被災地復興」「被災者かわいそう」といったメッセージ性に解釈してしまいかねないからだ。そういったわかりやすさは、観客によってはバカにされたという印象を持ってしまったり、押し付けがましいメッセージとしてとらえてしまったりするかもしれない。
 2つ目は倫理性の問題だ。直接震災を描く場合に、映画『タイタニック』の沈没する船の中で逃げ惑う人々のように、CG技術による津波で流される人々を描き、カメラがダイナミックにその姿を写した場合や、照明を当て、感動的な音楽が流れている中で、被災者を演じる役者がこれみよがしに観客の涙を誘うような媚びる演技をした場合に、それをエンターテイメントとして観客が消費してしまうという事態は、私は倫理的に卑劣なことだと思う。映画や演劇は必ずおもしろくなければならないというのは、ひとつの暴力だとすら思う。
 前置きが長くなってしまったが、この2つのハードルを超えた上で、この『かげろう -通訳演劇のための試論-』という作品はさらなる可能性を秘めていると私は直感した。(こういう賛辞の仕方も不適切かもしれない)そしてその直感は、上述したあの聞き取りづらい遺体がないことへのなんともいえない声を聞いた時に、藤原ちからさんが韓国でセウォル号事件の被災校を訪れた際の体験談の想起と同時に私に訪れたのだ。このふたつの「遺体がないこと」は絶対的に切り離された出来事ではあるが、どこかで、、と思いたくなるような演劇だった。(吉田高尾)