楕円幻想としての『ラ・ラ・ランド』(サイン・シンボル篇)


「人は後ろ向きに未来へ入っていく」

ポール・ヴァレリー

「この世のものは後ろ向きに見るとき、はじめて真に見える」

バルタザール・グラシアン

プレリュード:秘数「3」から円環の魔法へ

 この『ラ・ラ・ランド』という魔術的なタイトルについて、人はどれほど真剣に考えてきただろうか。スラング辞典を引いてイージーに導き出せるような意味ではなく、「3」回繰り返される「ラ」の音と図像によって象徴されるものをである。今から語る内容の大部分は「象徴」の範疇であり、近代的/映画的な思考様式だけでは捉えることが不可能な問題である。それゆえ『ラ・ラ・ランド』のプラネタリウムのシークエンスにおける、軽快な「3」拍子のワルツのコレオグラフのように、柔軟な思考でもって臨むべきであることを予め断っておきたい。では「3」が象徴するものについて――象徴がその豊かさゆえ「範疇」という概念に収まりきらず、常々解釈が横溢していくことは承知の上で――言語化可能な範囲で記述していこう。

 「3」の発見に関して、『中世における数のシンボリズム』という書物の中で興味深いエピソードが語られている。すべての初期の文明は、数を勘定するということを知らなかったから、「1」と「多」という概念を最初にもつことになった。その次の段階として、人類は男性と女性、昼と夜、太陽と月といった、自然界の二重性の存在に気づくようになる。この「対」概念の発見を通じて、「1」、「2」、「多」という3つの数を表す用語が出揃うことになり、この過程で「3」は「多」と同一視される。なぜなら「3」が初めて「多」の概念を適用できるためである[1]。さらに「3」は、原級、比較級に対して最上級を初めて適用できる数ということもあり、そこに「全」の概念も加わっていく。

数3が最上級、すなわち「全(すべて)」を意味として含むという観念は、決して失われることはなかった。この観念は、「三重の幸福」ter felixや「三重に最も偉大なるもの」trismegistusといったありふれた文句に、また偉大さと力の象徴として三叉や三重の雷を用いることに、……現れている。[2]

つまり秘数「3」は、古代から現代まで脈々と変わることなく、人間精神を捉え発展させてきた、理性を越えた象徴なのである。『ラ・ラ・ランド』とは「酒や麻薬による恍惚境」を意味するといったスラング的な意味合いなどはあまり重要ではなく、この3回繰り返される「ラ」の響きによって自動的に想起される「全(すべて)」のイメージが遥かに重要となる。『ラ・ラ・ランド』は壮大なLAへのラブレターかつ古典ミュージカル映画の復権を謳った作品であり、いわばLAやミュージカル映画史の「全(すべて)」を呑み込みたいという意志に貫かれている。それゆえ『ラ・ラ・ランド』という象徴的なタイトルは、ほとんど無意識のうちに、繰り返される3回の「ラ」を通じて、「多」なるもの、「全」なるもの、瑕瑾なきもの、偉大なるものを志向するというマニフェストになっている。

  「3」は象徴的に「全」と結ばれ、(「全」なるものが結果として「一」なるものに回帰するように)それはさらにウロボロス的に「円」のイメージと結ばれる。ケルトの詩人ジョン・キングはその著書『数秘術』の中で、「3は神秘的に円と関係している、というのは、円は一本の直線上に位置しない任意の3点を通り描かれ得るからだ」[3]と語った。またキングは「3」が「始まり、中間、終わり。永遠の周期」[4]をも象徴すると指摘しているが、これは太陽の運行(日の出、真昼、日没)と正確に一致しており、太陽もまた「永遠の周期」を繰り返す。『ラ・ラ・ランド』が昼のハイウェイで歌われる「アナザー・デイ・オブ・サン」に始まり、夜のジャズクラブで閉じられることを思えば、この映画は日の出と日没を繰り返す太陽の運行のイメージを与えることが分かるだろう。

 以下の章で詳しく語ることになるが、この映画は始まりと終わりで循環しているし、至る所に円環のイメージが発見される。プラネタリウムのシークエンスにおける軽快な「3」拍子の「3」ステップに象徴されるように、すべては「円」の隠し持つ秘数「3」に統御されているかのようだ。しかし、古代マニ教やゾロアスター教を支配した「2」なる数字のもつ魔力は、そう簡単に消えるものではない。ケプラーの楕円宇宙の発見により、楕円の「2」つの焦点として近代に蘇ったそれは、悪魔的に「円」および「3」の完全性を引き裂く。「歴史的常数」(G・R・ホッケ)として現代にマニエリスティックに再来する「2」という数の恐怖(と同時に救済)が、『ラ・ラ・ランド』には多分に刻印されているのだ。

 とまれ、まずは「1」から語り起こすことにしよう。なぜならこの映画は、明確に終わりの構造をもつ「1」本のハイウェイ(=線)で幕を開け、「1」本の円環にリコネクションされることで不朽の命を得るのだから[5]。

 

「線」から「円」へ

 アヴァン・タイトルのハイウェイの交通渋滞に何を読み取るべきだろう? おそらく、それは現代における直線的な物語構造の停滞・限界を如実に物語っている。パラノイアックに直進するだけでは立ち往かないと分かったポストモダン的意識を抱えた人間たちは、車から飛び出して四方八方に踊り出す。フェリーニ『8 1/2』やゴダール『ウィークエンド』、小説でいえば矢作俊彦『スズキさんの休息と遍歴』を俟つまでもなく、信じがたい交通渋滞は、伝統的に脱線の符丁あるいは作家的煩悶の比喩表現となる。しかしゴダールや矢作の鋭角的で神経症的な脱線運動と異なり、『ラ・ラ・ランド』はワルツのように優雅な円を描きつつ脱線する。それはミュージカル映画という形式自体に内在する力――すなわち劇映画のガチガチな直線構造をミュージカル部分でクネらせ、適度に物語を脱線させるというポテンシャル――を、『ラ・ラ・ランド』もポストモダンという影を負いつつ引き継いでいるからだ。とまれ、本作の渋滞は「線」が「円」としてリコネクションされる符丁として機能している。なぜなら、アヴァン・タイトルの交通渋滞はエピローグ(セブの妄想シークエンス)直前になって反復されるし【図1-2、エンド・クレジットでは冒頭の「アナザー・デイ・オブ・サン」が日没の様相を呈して繰り返されるのだから。一見すると『ラ・ラ・ランド』にはエンド(線)が用意されているようだが、詰まる所エンドレス(円)だというのが正しい。交通渋滞から抜け出すことで引き起こされるあまりに印象的なエピローグでは、時間が円環するように巻き戻され、ありえたかもしれないミアとセブの人生が、悲痛さと多幸感に引き裂かれながら展開される。交通渋滞は脱「線」のサインであり、「円」環時間/運動へ向かう契機となるのだ[6]。

 この開始早々の脱「線」が作家によるマナー表明であるとしたら、この作品全体が方法としての「円」に統御されるのも何ら不思議ではない。それゆえ次は、監督デミアン・チャゼルの方法意識そのものがある種の「円」であることを確認していこう。

図1-2.繰り返される渋滞。そして「円」環の予兆となる脱「線」。

 

映画史を円環させる―〈方法としてのEncyclopedia

 『ラ・ラ・ランド』は数多のミュージカル映画の断片が引用された作品で、元ネタをあげるだけでかなり壮大なリストが出来上がりそうだ。「古今東西、あらゆる映画を観まくった」と豪語するデミアン・チャゼルは以下のように発言している。

「確かに、無意識のうちにいろんな映画へのオマージュが溢れていったかもしれないな。僕らはさまざまな映画を研究していて、そんな思い出の中で泳ぎながらこの映画を作っていたようなところがある。」[7]

 町山智浩の解説や篠儀直子の「“ハリウッドの夢”を散りばめて」[8]という盛大な元ネタ探し論考と併せ考えるに、『ラ・ラ・ランド』はハリウッド・ミュージカルの夥しい引用から作られたポストモダン・ミュージカルであるのは明白だろう。ミクロな指摘は後に回すとして、重要なのは、マクロに見ればそれがミュージカル映画の「百科全書」的な佇まいをもつという点である。とはいえ、チャゼルは『ザッツ・エンターテインメント』(1974年)のごときミュージカル映画の百科全書=カタログを作ること自体を目的としているのではなく、それを〈方法としての百科全書〉にまで高めている。いわば『ザッツ・エンターテインメント』で寄せ集められた過去ミュージカルの映像(先人の知)を、劇物語の枠に嵌め込んでいくようにして出来たのが『ラ・ラ・ランド』ということになる。

 ここで「百科全書」(en-cyclo-pedia)のエティモロジーを披歴するならば、知=パイデイア(pedia)を繋ぎ合わせて円環(cyclo)させると「円満具足」するといったところで、収集された知の理想形が全円としてイメージされていることが知れる。だから〈方法としての百科全書〉は、全円=全知に何らかの欠如が見出されたとき、それを埋め合わせるために生じるかりそめの円環という意味で、近代以降の思考様式と極めて骨絡みといえる。より詳述するならば、中世において信じられた、完全な一者を象徴する全円(=全知)が信じられなくなった時代において、バラバラになってしまった知を再積分し、フィクショナルに全知の円環を構築する結合術が百科全書だといえる。とにかく全円(フルサークル)は完全性を象徴するフィギュアなわけで、チャゼルはこの全き円を中世ではなく、往年のハリウッド製ミュージカル映画の全能感に溢れた豪華絢爛の中に幻視しているのだ【3-4】。

 ミュージカル映画史(というよりハリウッド映画史そのもの)を巨大な白鯨[9]のようにすべて呑みこんでしまいたいというチャゼルの壮大な意志は、過去ミュージカル映画(先人の知)の断片の偏執狂的なまでの蒐集・引用癖からも感じられるだろう。そもそもミアとセブのデートシーンで、ガラクタの寄せ集めから作られたLA名物ワッツタワーがわざわざ映されるのも、この映画自体が一種のアウトサイダー・アートであり、「蒐集行為としての芸術」(四方田犬彦)に他ならないのだと宣言するためではないか。

 さて、作家のこうした(ポスト)モダンな蒐集行為が、不可避的に百科全書的/円環的にイメージされると理解したうえで、円を志向するこうした意識(/無意識)をリフレクト(反映=反芻)するかのように、映像にも円が象徴的に現れる様子を次に見ていこう。

 

図3-4.『四十二番街』(1933年)における名高い「バークレー・ショット」と、ジュスト・デ・メナブオイによって描かれたパドヴァの大聖堂の天井画に共通するプトレマイオス宇宙的な同心円構造。ともに凋落の時代を迎える前のイノセンスを象徴する図像。図3は『四十二番街(DVD)』(ジュネス企画、2013年)よりキャプチャー、図4は「PADOVAOGGI」の以下のリンク先より転載。(http://www.padovaoggi.it/eventi/visita-guidata-battistero-duomo-centro-padova-27-febbraio-2016.html