楕円幻想としての『ラ・ラ・ランド』(サイン・シンボル篇)


限りなく円に近い楕円

 現象学者G・R・ホッケが『迷宮としての世界』(1957年)の「円と楕円」という章で喝破したように、ケプラーによる惑星の楕円軌道の発見により、プトレマイオス的な同心円構造が絶対的に不可能になった「不安の時代」の世界形象は、円ではなく楕円なのである[22]。見事な円環を描きながら、ワルツの如く軽やかに進んできたと思われた『ラ・ラ・ランド』も、エピローグ(セブの妄想シークエンス)における「楕円形の心」の発見によって、物語全体が「不安の時代」に引き裂かれた楕円そのものと判明するだろう。この比類なき7分間のエピローグによって、この映画は「とても良い映画(very good movie)」から「偉大な映画(great one)」になりえたと語る論者さえいる[23]。

 エピローグでセブが直面する現実と妄想、懊悩と救済は、「二つの焦点のある、かれの分裂した心」(花田清輝)を象徴するものである。とはいえセブは片方を単なる妄想として切り捨てるような真似はせず、共に〈現実〉として、矛盾を矛盾足らしめたまま存立させんとする(ラストの微笑みと頷きは、その表れだ)。二つの〈現実〉を二つの焦点として設定することで、彼の揺らぎ分裂した心は、楕円のダイアグラムとして調停され、安定する。

 花田清輝は「楕円幻想」の中で、二葉亭四迷『其面影』の中途半端な主人公が、「二つの中心点」の間で彷徨するばかりで、事にあたっていつも「狐疑逡巡」するという内容の数行を引用したのち、以下のようなコメントを付けている。

……しかも私の歯痒くてたまらないことは、おそらく右の主人公が、初歩の幾何学すら知らないためであろうが、二つの焦点を、二つの中心として、とらえているということだ。かれの「狐疑逡巡」や、「決着した所がない」最大の原因は、まさしくここにある。何故にかれは、二点のあいだに、いたずらに視線をさまよわせ、煮えきらないままでいるのであろうか。円を描こうと思うからだ。むろん、一点を黙殺し、他の一点を中心として颯爽と円を描くよりも、いくらか「良心的」ではあるであろうが、それにしても、もどかしいかぎりではないか。……つまるところ、何故に楕円を描かないのであろうか。……我々の周囲には、二点の間を彷徨し、無為に毎日を過ごしている連中か、二点のうち、一点だけはみないふりをし、相変わらず円ばかりを描いている、あつかましい連中かがみあたるにすぎない。[24]

 そういうことから、セブが最後に下した決断――現実も妄想も共に〈現実〉として受け入れて生きる――は、「楕円幻想」の中で生きるということである。図式的に過ぎる、という批判が聞こえる。しかしプラネタリウムで愛を確信した二人が、ワルツを踊る二つの遊星になるとき、その公転軌道はケプラーの宇宙楕円軌道であったのだとしたら、それはこのエピローグのセブの心理的楕円を予告するものだったといえるだろう。

 ある種の矛盾を孕んだまま、物語は一応の大団「円」を迎える。ハリウッド黄金期のミュージカルを擬態する『ラ・ラ・ランド』は、正に瑕瑾なき円として収束するようにみえる。しかし草森紳一が『円の冒険』の中で「大団円はアンハッピーも包含する」[25]と書いたように、このエピローグ~ラストは、セブのハッピー/アンハッピーという二つの心(焦点)に分裂した、「限りなく円に近い楕円」なのである――擬態された真円。

いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。[26]

 ここで筆者は、円をひたすら称揚し、楕円を唾棄すべきものとしたいわけではない。むしろその逆で、楕円こそ現代という分裂の時代の生存戦略であるとさえ思う。「醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずる」という矛盾を、楕円は矛盾/分裂させることなく両立させ、複雑でより豊かな価値観としてまとめあげる、苦悩が同時に救済でもあるアイロニカルな円環だ。

 このセブの「楕円の心」は「楕円の感情」と、より生々しくヴィヴィッドな言葉に置き換えて精査する必要がありそうだ。この映画の最大のテーマは、チャゼル自身が「刺々しいまでに電撃的な感情(spiky electric feeling)」[27]の開示にあると述べているのだから。それ故、同じく「感情」をテーマにした作品群との比較検討を通じて、心理的楕円が生じるメカニズムをさらに詳しく見ていこう。

 

「エモーション・ピクチャー」―後ろ向きの未来ほど前向きなものはない

 80年代に一世を風靡した米国産ロック・バンドであるジャーニーに「ドント・ストップ・ビリーヴィン」という曲がある。一大ムーブメントとなったミュージカル・ドラマ『glee』(シーズン1)で用いられたこの曲は、初回と最終回で印象的に歌われることで物語を円環/循環させている。菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』批判(第一声明)の中でも指摘があるように、この曲の歌詞は「アナザー・デイ・オブ・サン」とテーマ的にかなり似通っている[28]。菊地は「パクリ」と糾弾していたが、実際『glee』のコレオグラファーであるマンディ・ムーアが『ラ・ラ・ランド』も担当しているのだから、ある部分似てくるのも不思議ではない。では、どこがどう似ているのか。

 「ドント・ストップ・ビリーヴィン」には “hold on to the feeling”(感情だけは手放すな)、あるいは “livin’ just to find emotion”(感情を見つけるためだけに生きる)などといった歌詞が見受けられ、剥き出しの「感情」が大きなテーマとなっている。これは明らかに『ラ・ラ・ランド』とも共有される部分で、それは「刺々しいまでに電撃的な感情」という先のチャゼルの言葉によって裏付けられるだろう。また「アナザー・デイ・オブ・サン」が物語の始まりと終わりに布置される構造は、先述したように『glee』と類似の構造であるからして、「その映画は決して終わらない。それは続く、続く、どこまでも続く…」というジャーニーの曲の円環的/循環的な歌詞を、『ラ・ラ・ランド』は自ら身振りしているとさえ言える。

 こうして『glee』と「ドント・ストップ・ビリーヴィン」を参照項にすることで、ハイウェイを脱「線」するよりも先行する形で、というよりそれを導くものとして、強烈な感情――円環する時間/物語を産み出す原動力――が機能していることが分かる。つまり渋滞したハイウェイからミアとその夫を脱「線」させたのは、セブの強烈なエモーションの力であり、これが楕円発生の契機ともなったのだ。基本的にモーション(ダンスシーン)が優先されるべきであるミュージカル映画というジャンルにおいて、『ラ・ラ・ランド』は例外的にエモーション(ドラマ)が優先されているというのは特筆すべき点だ。エモーションの絶対的な先行は、感情そのものが矛盾であることから、必然的にこの映画を楕円化させる。そうした映画を「エモーション・ピクチャー」と呼ぶならば、本作にはチャゼル自身が手本にした先例がある。

 『ラ・ラ・ランド』のエピローグにおいて、実はフランク・ボーゼージ監督の『第七天国』(1927年)を参照したと、この若き監督は種明かしをしている。ここでわざわざ第一回アカデミー作品賞、女優賞、脚本賞を獲得したこの映画を引用するチャゼルのしたたかさ(自分が最新のアカデミー賞を受賞することで映画史が一サイクルする仕組み!)は、紛れもなく先述した映画史をすべて呑みこむ巨大な白鯨を作りたいという、彼の〈方法としての百科全書〉の一端であろう。とまれ、彼の『第七天国』解釈を知ることで、『ラ・ラ・ランド』最大のテーマである「感情」の形象=楕円も明確に浮かび上がってくるのだ。

 『第七天国』のラストは、第一次大戦で戦死したはずの夫チコがなぜか生きて帰って来て、そのままハッピーエンドになってしまうという突拍子もないものである【9-10】。これをチャゼルは、「チコが死んだのも事実だし、生きているのも事実だ」と解釈してみせた。なぜなら「本当に深い感情は時空も現実も物理法則も超える」[29]からだという。するとこの映画を参考にした『ラ・ラ・ランド』のエピローグにおいて、セブがミアと離ればなれになるのも、くっついて幸せになるのも、矛盾しているようだが、どちらも「現実」ということになる。セブの直面する現実も、彼の最も深い感情が作り出す現実も、どちらも真なのだ。最も深いエモーションはふたつの焦点(現実)を作り出す。こうして「エモーション・ピクチャー」である『ラ・ラ・ランド』は楕円化する。

 

図9-10.螺旋階段を昇り詰め、ダイアンが待つ七階の部屋(第七天国)を目指す死んだはずのチコ。二人が再会する直前に挿入される時計のショットが、円環する時間の契機となっている。『第七天国』(IVC)よりキャプチャー。

 

 ここでさらに、エモーションが作り出す楕円が、「人間いかに生くべきか」という命題に一つの解答を与え得るところまで見ていこう。楕円の心(/二重の現実)を生み出す強い感情は、『ラ・ラ・ランド』も『第七天国』もそうであるように、概して「こうだったらよかったのに」式の後ろ向きのものである。とはいえ決して否定すべきものでもない。ライムスターの宇多丸はTBSラジオのコーナー「ムービーウォッチメン」において、「人生が二度あれば」という自著の文章を引用する形で、『ラ・ラ・ランド』のラストを以下のようにまとめている。

「確かに『あの時、ああしていたらこうなっていたかも』的な「後悔」というのは、つまるところ、『こうだったかもしれない可能性』という、言ってみれば過去に向けて抱く夢や希望のようなもので(つまり、決して実現しないかわり壊れもしない!)、かならずしもそれは否定されるべきものではない、どころか、限定的なものでしかない我々の人生にとって実は不可欠な、ささやかな「救い」でさえあるんじゃないか?」[30]

 苦悶と救済を同時に孕んだアイロニカルな形象としての楕円、それは後ろを見ながら前に進むというパラドックスを生きる人間の象徴図ともなろう。エピグラフに掲げた「人は後ろ向きに未来へ入っていく」というヴァレリーの言葉は、まるで宇多丸の言葉を詩的言語として凝縮したかのようだ。後ろ向きに未来へ入ること――しかしそれだけが人生ではなかろうか。『まわり道』や『さすらい』などのヴェンダース映画の作中人物たちが、しばしば進行方向に対して後ろ向きになるようにして、列車の窓際に腰掛けるように[31]。

 以上の議論から、エモーションそのものを楕円というダイアグラムにおいて把握することができたと思う。しかしこのエピローグ~ラストにおいて析出された「楕円のエモーション」は、実のところ、舞台となったLAという土地そのものから写しとられたものであるといえまいか。