五十嵐耕平インタビュー:連載「新時代の映像作家たち」


五十嵐耕平は、驚異的な映像作家である。だが、ハリウッド映画に見慣れた観客からすれば、もしかしたらその作品は「ほとんど何も起こっていない」ように見えるかもしれない。ダミアン・マニヴェルとの共同監督作である新作『泳ぎすぎた夜』(2018年)は、少年が父親のもとに絵を届けに行くという、とてもシンプルな映画だ。青森・弘前でロケハン中に出会った古川鳳羅(たから)を主演に起用した同作は、サイレント映画のようにセリフが一つもなく、ほぼフィックスのカットのみで構成される。長尺のカットで捉えられる少年の姿は、およそドキュメンタリーの領域に近づき、虚構と現実の境界を融解させていく。五十嵐耕平はささやかな方法で、しかし、確実に「物語」以外の何かをスクリーンに立ち上げることに成功している。新作『泳ぎすぎた夜』から話題を呼んだ衝撃作『息を殺して』(2015年)について、五十嵐作品に通底する「身体のドキュメント性」や演技/演出論、ジョン・カサヴェテスへの偏愛など、監督に話を聞いた。

(聴き手・構成  山下研・伊藤元晴・松房子)

『泳ぎすぎた夜』(2018年、五十嵐耕平監督)©2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD

 

●ダミアン・マニヴェルとの共作

――五十嵐監督は先日まで『泳ぎすぎた夜』のプレミア上映でフランスに行かれていました。現地での観客の反応はいかがでしたか?

五十嵐耕平(以下、五十嵐) 日本とそんなに大きな違いはなくて、「自分が子供だった頃の感覚を思い出した」という反応が多かったです。ほとんど忘れかけているんだけど、なんとなく思い出せる子供のとき特有の感覚というか。これは作品を撮る上で、僕とダミアンとで共通した狙いでもありました。

――『泳ぎすぎた夜』は、ダミアン・マニヴェルとの共同監督作ですね。そもそも2人で映画を撮ろうと決めたのはなぜでしょうか。個人的には『若き詩人』(2015年、ダミアン・マニヴェル監督)にある、人をかなり突き放して撮る感覚は五十嵐監督ととても似ていると感じます。

五十嵐 ダミアンと知り合って話をしたり、お互いの作品を観ていくうちに、映画に対する姿勢がとても似ていると感じるようになったんです。それで、一緒に映画を撮ることに決めました。実際に撮影に入ると、具体的な方法論は違うところも結構あったのですが「目的」はやはりとても似ていた。

――その「目的」は具体的にどのようなことだったんでしょうか。

五十嵐 映画のどのような部分に可能性を見出しているかということですね。一つのカットを撮った時に「今の凄く良かったよね」ってことや、うまくいかない時に「そもそも僕たちのアイデアが良くないんじゃない?」って共通して考えてたり、そこにはあまり齟齬はありませんでした。具体的なアプローチは異なるんだけども、目指している方向性そのものは似ている。全然違う部分と凄く似ている部分があるっていうことは、何か物を作るうえでとても重要なことだと思います。

――『泳ぎすぎた夜』は、ほとんど五十嵐さんの作品のように思える一方で、同時にダミアン作品にも見えるという不思議なバランスを持った映画だと感じます。ダミアンと共作で映画を撮っていくなかで、撮る前には考えていなかったような衝突や発見はありましたか。

五十嵐 衝突はまったくなかったですね。意見が違うことは当然あるし、議論はたくさんありますけど、僕もダミアンも、映画に対して「これは自分の作品だ」という感覚があまりないんです。現場のみんなと作り上げていくという姿勢なので、この演出は自分のアイデアだとかは撮っているときも、後から観るときも思わないです。『泳ぎすぎた夜』だと、犬が出てくるのが五十嵐さんぽいと言われることもありますが、ダミアンも犬を撮るのが好きなので(笑)。

――『泳ぎすぎた夜』には、ほとんどドキュメンタリーのようにしか観えないショットがいくつもあります。主演している鳳羅(たから)くんも、舞台である弘前でロケハンをしていくなかで出会った少年だそうですね。映画でも鳳羅くんの普段の姿がそのまま捉えられているような錯覚さえ起こすのですが、具体的にはどんな演出をしていたんでしょうか。

五十嵐 いわゆる「演出」はしていません。どんなシーンで、何をするのかの説明だけですね。彼はもともとすごく頭が良くてクリエイティブなので僕たちのことや関係性を意識しつつ、自分で考えて自分のやりたいことをやりたいようにやる。もちろん子供なので完全に逸脱したりもしますが、でも撮影する上で一番大切なのは鳳羅くんの「状態」でした。子供って大人のように平静じゃないというか、平常心という状態があまりないんです。つねに何らかの感情に触れている。人って「つまんない」とか「楽しい」「悲しい」みたいな機微がどんな時も複雑に重なり合っているのが普通で、俳優はその感情を抑えて演技に集中するわけですよね。でも鳳羅くんにはそういう意識はほとんどないので、鳳羅くんが遊びたくてしょうがないときに何を言ってもほぼ無駄なんです(笑)。もちろん「このシーンは迷子になる場面で、ここからあそこまで歩いて」とか言うんですけど、それをどの程度どんな風にやるかは鳳羅くんの「状態」次第で、それはまったくコントロールできない。鳳羅くんがすごく悲しんでいるときに、「楽しい」シーンなんて撮れないんです。

――ということは、撮影では鳳羅くんの状態に応じて撮るショットを臨機応変に変えていったんでしょうか。

五十嵐 そうですね……実は撮影でもう一つコントロールできなくて難しかったのは「天気」ですね。弘前は本当に天気が変わりやすくて、一日のうちに雪が何度も降ったり止んだりする。鳳羅くんと天気、両方ともコントロールができなくて、片方が想定とずれてしまったり、あるいは両方ずれてしまうこともある(笑)。撮影自体は本当に難しかったですね。

――うまく撮れた! という手応えがあったシーンはありますか。

五十嵐 ある日、「今日は晴れているカットを撮るぞ」と準備していったらものすごい吹雪になったことがありました。「どうしよう、何も撮れない」となったのですが、映画のなかに吹雪のシーンはいくつかあって、その一つである市場のシーンを先に撮ろうと。それで、移動して市場に着いたのがちょうどお昼だったんですが、そうすると鳳羅くんは市場で働いているお父さんに会えると思ったんですね。でも、お父さんは丁度仕事を終えて帰るところで「がんばれよ」と言って帰ってしまった。それで鳳羅くんのテンションがすごく下がっちゃったんです。『泳ぎすぎた夜』を観た方なら分かると思うんですが、うまく撮れたというよりも、こんなことがあるんだと印象に残っています。

――『泳ぎすぎた夜』を4:3フレームで撮ったのはどうしてですか。発話がほとんどないこともあり、この映画は非常にサイレント映画のように撮られています。

五十嵐 よく冗談でいうのは鳳羅くんは小さいので、ちょうどいいサイズだからというのがあるんですけど(笑)。近いのは絵本のイメージですね。子供用の絵本をペラペラめくっていく感覚を持たせたかったんです。

 

●「雪」と「子供」のモティーフについて

――『泳ぎすぎた夜』を制作するにあたって、はじめから雪を撮りたいという構想があったんでしょうか。

五十嵐 「雪を撮りたい」と最初に言ったのはダミアンなんです。つまりダミアンが「雪」を撮りたくて、僕は「子供」を撮りたかったのでこういう映画になった(笑)。最初はそういうきっかけだったのですが、実際にシナリオを考えていくなかで、雪がすべてをフラットにしてしまうことや世界から音をなくすことに魅力を感じました。雪は一見、とても美しく見えるけれど、本当はとても過酷だし危険なもので、そのなかに子供がいる。そして雪のなかで子供がお父さんに絵を届けに行くというプロットは、ほのぼのしつつもとてもサスペンスフルなんじゃないかというのが着想でしたね。

――五十嵐監督が子供を撮りたいと思ったのはなぜですか。パンフレットでは(アルベール・)ラモリスの『赤い風船』(1956年)や『白い馬』(1953年)を撮る前に見返したと語っていますが、『泳ぎすぎた夜』はそれらよりもさらに突き放した態度で子供を捉えているように思います。

五十嵐 子供ってすごく複雑な存在だと思うんですよね。意識が統一されていないというか、アイデンティティが確立していないときの興味の持ち方や意思決定の仕方がとても魅力的だと感じていて。そこには、大人になるにつれ社会性を身につけていくにつれ失わていくものがあると思う。人間って本当はもっとエモーショナルな存在で、そのときの興味や感情に応じて意識と体が動くはずですよね。子供のときは目の前の雪や虫とか、地面のひび割れについつい注意がいく。頭で考えていることはあるんだけど、それが目の前のことで一瞬で消し去られてしまう。そして見たり聞くこと触ったりすることで、世界を自分で作っていくような瞬間を子供は持っている。それはとても素晴らしい時間だと思います。

――実際に撮影をしてみて、子供に対する印象は変わりましたか?

五十嵐 こんな感じかなと思っていたのよりはるかにやばくて、すごい衝撃でした(笑)。僕は子供がいないし、普段触れあうこともあまりなく鳳羅くんとのコミュニケーションが「ファースト・コンタクト」的なところがあったので余計に。まず、自分で自分自身のことをコントロールできていない様子がすごい。もちろん子供だって打算や駆け引きもできるんです。でもその理性的な部分を感情が必ず上回ってしまう。それは大人からすれば意味不明なんだけど、彼は多分いま、僕とは違う世界を生きているって感じがする。でも僕たちはもう子供ではないから、理解できないですよね。予想がつかないし、コントロールもできない。だから撮影に関しては、僕たち大人が考えた子供のイメージではなく、彼についていこう、彼の世界に行ってみようと思いました。それは発見の連続でしたね。

『泳ぎすぎた夜』(2018年、五十嵐耕平監督)©2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD

 

●「身体のドキュメント性を撮りたい」

――子供は意識が統一されていない、「大人」のように社会化されていないというお話がありました。五十嵐監督は『泳ぎすぎた夜』で鳳羅くんをほとんど動物――犬を撮るのと同じように撮っているように感じました。『息を殺して』(2015年)で、五十嵐監督が犬を撮ることにこだわってきたことの延長線として子供を撮っているように思えたのですが、いかがでしょうか。

五十嵐 でも人間を撮るのと犬を撮るのは、自分のなかでは違いますね。犬ってやっぱ犬なんですよ。違う生き物。違う生き物だからいいと思うんです。いつもすぐに擬人化されてしまいますが、見ている世界も何もかもが違うはずです。僕が鳳羅くんを撮るときに考えていたのは、「自然」の一部として撮るということでした。ダミアンとは撮影前からいろいろなモノ――景色や鳳羅くんを含め、すべてをある意味で即物的に撮っていって一本の映画にしようと話していました。山や空、犬、鳳羅くんはそれぞれ全く違う存在だけれど、それらはすべて「自然」の一部として映すという感覚です。

――鳳羅くんにあまり演技指導をされていなかったとのことですが、大人の役者にはないものを引き出すというのは五十嵐さんにもダミアンにも共通した狙いだったんでしょうか。

五十嵐 ダミアンは元々ダンサーなんですが、彼は身体的なものに対する興味がとても強い。すごく寒いので弘前の人は服をたくさん着込むんですが、そのせいで動きがすごく制限された身体の動かし方をしていて、ダミアンはそれをいつもおもしろがっていました。鳳羅くんは、その上に重いリュックを背負っているので前傾姿勢になりがちで、しかも不安定な雪の上を歩いて、まだ頭も重いから本当に特有の身体性があったと思います。僕とダミアンはそれも撮りたいと考えていた。

――『息を殺して』には、みんな生きているのか死んでいるのかわからない、ゲームのアバターのように身体性を感じさせない部分がありました。『泳ぎすぎた夜』はその反対の試みだったということでしょうか。

五十嵐 そうですね。『息を殺して』は、ほぼ全員に同じような制服を着させて、一人の人格という個性を徹底的に奪っていった映画でした。『泳ぎすぎた夜』はまさにその逆で、個別性だけで映画を撮ったと言えるかもしれない。

――『泳ぎすぎた夜』では演技経験のない鳳羅くんを主役に起用しています。過去作の『豆腐の家』(2013年、『恋につきもの』収録)でも、演技経験の少ない谷口蘭さんを抜擢して『息を殺して』でも起用されています。「役者然としていない役者」を起用し続けていることの理由を教えてください。

五十嵐 僕はプロフェッショナルな俳優って本当にすごいと思うんですよね。こんなに困難で素晴らしい仕事はあまりないのではと思います。ただ自分が今まで作ってきた映画というのは、出会った人だったり、友人だったり、何かしらの関係の中で作っています。なので交換可能なわけではなくて、映画を立ち上げていく存在ですね。その人固有の「身体のドキュメント性」にもっとも重きを置いているということだと思います。ですからプロでも、演技経験が少なくても、起用するという意味では違いはないです。その人がその人だったというだけで。

――役者の方が役者のままの名前で出演していることも特徴的ですよね。『息を殺して』で、谷口蘭さんは谷口蘭役としてスクリーンに映っている。そこには虚構上の世界でありつつも、同時に演じているその人自身が映っているという二重性があるように思います。(アンドレ・)バザンが『映画とは何か』のなかで、ラモリスの『赤い風船』と『白い馬』――五十嵐監督が本作を撮る前に参照した映画でもあります――について書いた批評に「想像上のドキュメンタリー」という言葉が出てくるんです。スクリーンに映る馬が、虚構上の存在であり、同時に現実性も強く纏うという二重性をバザンは指摘しているのですが、五十嵐監督の作品にもそれを感じます。気になったのは、五十嵐監督は純粋なドキュメンタリーへの興味というより、フィクションとドキュメンタリーの間にあるものに魅力を感じているのでしょうか。

五十嵐 映画を作るっていうのは本当に現実的なことだと思います。現実の景色や人にカメラを向けた時に、そこに映るのは僕のイメージやアイデアだけではないんですよね。僕の意思とは関係なく現実世界は動いているので、それは対話みたいなものかなと思います。アイデアを投げかけるとリアクションしてくれる。風が吹いたり、雪が落ちたり、俳優が急に微笑んだりとか。そういうことに魅力を感じています。

『息を殺して』(2014年、五十嵐耕平監督)

 

●「空間」と「運動」

――五十嵐監督が撮る構図は、特に『息を殺して』がそうですが非常に構成的な画面だと感じます。だから撮影以前にかなり緻密に構図を考えているんだろうと思っていたんですが、実際は現場でかなり即興的に撮っているということでしょうか。

五十嵐 具体的にこういう構図で撮ってほしいということは何も言ったことがないです。この部屋で撮ります、それで向こうから撮るのはどうでしょうとカメラマンの人に提案して、こっちがいいと言われたら、じゃあそれでということも全然あるし、あまり最初から決めていないですね。

――五十嵐監督の作品は『息を殺して』や、これまで撮られたMVでも無機的な構造物へのフェティッシュを感じます。それが構図的な画面にも繋がっているように思います。

五十嵐 無機物は好きなんですけど、フェティッシュなことってなかなか説明しづらい(笑)。ただ、僕は構図にはあまり興味がないんです。構図をあらかじめ決めたことはないですけど、でも、ロケーションの構造とか建物にはすごく興味があるんですね。「空間のなかで人がどう動けるか」ということをすごく考えるんでます。複雑な構造物だと、1人の人間が上下左右、あるいは斜めに動けるし、それをどうカメラにで映すかということにもいろんなやり方ができる。複数の「運動」を1カットの中でも見せられる空間がすごく好きですね。

――五十嵐監督はなぜ「運動」を重視するのでしょうか。

五十嵐 「運動」とそれを見る(観客の)視線が、結果的に感情や物語を生み出していくと思っているんです。物語が先行して、それを伝えるためにアングルを考えて撮る映画もあると思うんですけど、僕は順番が割と違っていて、先行するのは常に運動と(観客の)視線です。そもそも僕は自分が考えただけの物語というのにあまり興味がわかないんですよね。芝居でも、風景でも、想定とは違うリアクションが出てくることがあって、そこから何かしらの物語が発生したりする。それに反応したり、投げかけることによって映画ができていくみたいな感覚ですね。なるべく気持ちをオープンにして、起こったことを受け止めて考える、ということの連続です。
(2P目に続く)