夢より深い覚醒を──五十嵐耕平論


 犬ほど映画にとって不気味な存在はいない。
 撮影現場でどれだけ人間が必死に物語を演じていようと、虚構を解さない犬にとってそこは日常と地続きの現実でしかない。その場にないはずのカメラを役者が見つめることは、映画では「第四の壁」を破る禁忌とされているが1、犬にとってそんなことは関係がない。カメラの奥に控えた飼い主をもの欲しそうに見つめる犬は、劇映画という虚構のフレームを食い破る存在だ。

【図1】『息を殺して』(2015年、五十嵐耕平監督)

 そんな不気味な「犬」を、五十嵐耕平という映像作家はどういうわけか度々スクリーンに登場させてしまう。『息を殺して』(2015年)は、年末をゴミ処理工場で無為に過ごす人々がその工場に迷い込んだ犬を探す、ただそれだけの映画である。犬は特に物語に影響をおよぼすこともなく、薄暗く無機質な工場内をふらふらと彷徨うばかりだ。ときおりカメラを見つめさえするその「犬」は、いかなる虚構の存立にも奉仕していない【図1】。
 ダミアン・マニヴェルとの共同監督による新作『泳ぎすぎた夜』(2018年)でも、主人公のまわりにはそのような「犬」が繰り返し姿を現す。犬はただ「犬」としてひと続きの現実のなかにいるのであり(当然のことだ)、カメラはその一部をただ写し取ったにすぎない。なぜ五十嵐耕平は「犬」を撮るのか。
 しかし、ここで一つの疑義をさしはさんでおけば、犬がいくら映画にとって不気味な存在であったとしても、調教やモンタージュという編集上の作為によって、あたかも犬が物語に沿って何かを演じているように見せることは可能だろう。じっさい、そのように動物を「役者」のように撮った映画はこれまでにも数多く存在する。だから、五十嵐耕平はなぜ犬を撮るのかという問いは正確ではない。ほかの劇映画に登場する「役者」のような動物と異なり、なぜ五十嵐が撮る「犬」は虚構世界から逸脱するのか、そう問わなくてはならない。

 五十嵐作品を振り返りみれば、この作家は「犬」以外にもそのような被写体を好んで作品に登場させてきたことがわかる。
 新作『泳ぎすぎた夜』で、五十嵐は舞台となった青森・弘前に住む少年である古川鳳羅を主演に起用した。2週間ほどのロケハンのなかで出会ったその6歳の少年は、それまで映画に出演したこともなければ演技経験もない現地の子供だ。少年が俳優らしい「身振り」を欠いている上に、同作の大半はフィックス撮影でなされ、観客を突き放すような印象さえ与える引きのショットで構成されているため、そのイメージはほとんどドキュメンタリー(観察)に近い。『泳ぎすぎた夜』には、父親のもとに少年が絵を届けに行くという一応のプロットは用意されているが、それよりも少年の一挙手一投足への透徹した眼差しにこそ本作の賭け金があるようだ。換言すれば、その映像は少年を虚構上の子役としてではなく、先に述べた「犬」と同様に、あたかも現実に根づく存在として観客の前に立ち上げている。【図2】

【図2】『泳ぎすぎた夜』(2018年、五十嵐耕平監督) ©2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD

  『泳ぎすぎた夜』における作品の虚構性を剥落させるような試みは、そのほかの点でも実践されている。たとえば映画の開巻を告げる少年の家やそこに住む家族は、少年を演じる古川鳳羅がじっさいに住む家であり、古川鳳羅にとっての実の家族そのものなのである。それはまさしく現実と虚構の境界を融解させるような試みだ。しかし、同時に五十嵐が過去作でも繰り返しそのようなアプローチを用いていることを、わたしたちは見逃してはならない。

 五十嵐の作品では、役者がその実名のままスクリーンに現れることが多い。たとえば『息を殺して』で主演を務めた谷口蘭は「谷口蘭」本人役として登場するし、長編処女作『夜来風雨の声』(2009年)でも五十嵐耕平が自ら「五十嵐くん」役として出演する。もう一つ、役者に関して特徴的なことを挙げるならば、五十嵐作品にはほとんど“役者らしい役者”――あらかじめ企図された感情を観客に惹起させるための「演技」をする役者――が登場しない。『息を殺して』に出演した谷口蘭は、五十嵐の前作『豆腐の家』(2014年、『恋につきもの』収録)から引き続き起用されているものの、それ以前にはほとんど演技経験はなかったという。同作では役者の身体性は徹底的に抑圧され、あたかも幽霊のように感情表現を欠いた人物ばかりがスクリーンに登場する。キャリアの当初は予算上の制約もあっただろうが、『泳ぎすぎた夜』を観ればわかるように、それ以降も五十嵐は一貫して演技経験の豊富な役者を軸に映画を撮っていない。
 演技らしい演技をせず、実名のままでカメラに捉えられる「俳優」たち。『泳ぎすぎた夜』に限らず、『息を殺して』『夜来風雨の声』でも基本的にフィックス、あるいは機械的な動線を持つカメラワークであるため、その映像は基本的に物語性や観客の感情移入をほとんど排除している。「犬」が虚構を解さないように、五十嵐作品に登場する俳優は役としてのリアリティよりもその人自身の身体が持つ現実の強度が先立って現れているかのようだ。結果として、スクリーンには役を演じるその人自身が映画という虚構世界のなかに「実在」するかのような、パラドクスと呼ぶほかない現象が起こっている。

 しかし、このパラドクスは、映画というメディアの本質に立ち返ってみれば必然的に導出されるものとも言えるかもしれない。絵画と異なり、映画はカメラを用いた機械的/光学的な外界の記録である。たとえば画家が自らの筆によって、目に見えた光景を主観的に(再)創造しているとするならば、カメラはそこにある光の客観的な痕跡である。より具体的に述べると、フィルムならば順列的にコマを連ねるハロゲン化銀結晶が外界からの光に感光し、科学的反応としてその潜像を形成する。つまり映画には本来的に「現実」が記録されており、そこに虚構世界が成立しているかのように見えることは人間の錯覚でしかない。だから、五十嵐作品の「犬」やあの俳優たちは吃驚するにあたらないのだと、そう強弁することはひとまず可能だろう。
 だが、そんな通説では『泳ぎすぎた夜』における少年の存在感や、『息を殺して』の非「役者」的な佇まい、あの「犬」の不気味さを言い当てたことになるとどうしても信じることができない。五十嵐作品の可能性は、決してそのようなメディア論で汲み尽くすことはできないのではないか。わたしにはそのイメージはカメラによって記録された「現実」よりも、ずっと決定的なものを捉えているように思えるのだ。
 五十嵐作品のパラドクスとして、「役を演じるその人自身が映画という虚構世界のなかに“実在”する」ということを先に書いた。相反するものが並存しているからこそパラドクスは成立するわけだが、ここにある矛盾をより精緻に言語化するならば一体、何だろうか。それはつまりフィクション上で演じられる役と、演じている役者自身の現実性とが“同時に”成立するというパラドクスではないか。つまり、五十嵐作品は完全に物語というフィクションに没入しているものでもなければ、その逆にほとんどドキュメンタリーのように虚構を解体する現実の真正さによってのみ構成されているわけでもない。そのどちらもが“同時に成り立ってしまう”という両義性こそが、五十嵐作品における特筆すべき事態なのである。

 ここでさらなる議論の補助線として、この映画における両義性について思索していた批評家アンドレ・バザンを参照することはおそらく有用だろう。だが、少々の留保が必要だと思われる。様々な再検討がなされているものの、バザンはカメラによる機械的/自動的な「現実」の転写にこそ、映画の「リアリズム」を見出したと一般的に理解されてきた2。それは絵画とは異なる、透明で客観的な外界の記録であり、バザンはこれを「技術的リアリズム」と呼んだ。ここまで読んだ読者ならばお気づきだろうが、これは先に触れた通説――映画には本来的に「現実」が記録されるという主張――の源流ともいえるものである。
 しかし、バザンのいう「リアリズム」には複数の可能性が潜勢していることを、近年の映画研究は明らかにしつつある3。そして議論を急げば、バザンが残したテクストのなかには五十嵐が画面に立ち上げたパラドクスをも射程に捉える着想が、たしかに存在しているのだ。
 ここで、映画における「リアリズム」を論じたバザンのいくつかのテクストを俎上に上げてみよう。まず参照するのは、「禁じられたモンタージュ」(『映画とは何か』所収)である。そこでバザンはアンドレ・ラモリスによる『白い馬』(1952年)と『赤い風船』(1956年)――『泳ぎすぎた夜』を撮る前に五十嵐が参照した映画でもある――を仔細に分析してみせた。

 バザンはまず、執筆当時に公開されていた動物映画『とんでもない妖精』(1956年、ジャン・トゥラーヌ監督)をラモリスの比較対象として取り上げることから分析を始める。彼は『とんでもない妖精』では、猿や猫があたかも物語を演じているかのようにふるまっていたとし、それをバザンは「本物の動物たちを使ってウォルト・ディズニーをやって」みせたと揶揄する4。フレームの外側にいる調教師や、あるいはモンタージュによって動物が何らかの演技をしているかのように見せる「擬人主義」が、同作の特徴だ。バザンはこのモンタージュの作為性を批判し、それと逆行した試みとして、『白い馬』と『赤い風船』を称揚する。
 ラモリスの『白い馬』もまた、『とんでもない妖精』と同様に動物を撮ることを主軸にしている。スクリーンでは少年と「白いたてがみ」と呼ばれる馬との交流が描かれていくのだが、そこでは(『泳ぎすぎた夜』と同様に)ドキュメンタリーにも似た価値が発生する。同作は極力モンタージュを省くことで、舞台となったカマルグの風景やそこに生きる人々の暮らしぶり、あるいは馬の存在感をおよそ現実に近い信憑性をまとってスクリーンに立ち上げることに成功している。たとえば、少年が「白いたてがみ」に乗って野うさぎを追いかけるシークエンスがある(フレームには少年、馬、野うさぎが同居している)。少年が馬から振り落とされて野うさぎの上に落ち、それでも命からがら逃げまどう野うさぎを少年が今度は自分の足で懸命に追いかけていくロング・ショットは、現実的信憑性を強く纏っている。

 ここまでは先の「技術的リアリズム」とそう離れたことを言っているわけではない。しかしバザンはその後に、ほとんど転覆的といっていい議論を「禁じられたモンタージュ」のなかで行っていることを看過してはいけない。バザンは『白い馬』の画面に映るすべてが本当に現実で起こったことの純粋な記録であれば、それは「たんなるはなれわざ」「白馬の調教芸」であり、「この映画は存在できなくなってしまう」と述べる。つまり、そこに何らかのトリックや虚構性が孕まれていると知りながら、しかし同時にその現実性を信じることができるという「二重性」こそが映画特有のリアリズムであると、そう主張しているのである。バザンは『白い馬』に見出したこの事態を、次のような表現でパラフレーズした。

つまり<白いたてがみ>はいまでもカマルグの塩からい草をはんでいる「本物」の馬であると同時に、フォルコ少年と一緒に永遠に泳ぎ続ける「夢」の動物でもある。5

 バザンが言うように、映画はただの絵空事としての虚構でもなければ、現実の機械的な転写でもない。「カマルグに住む本物の馬」という現実を糧としながら、想像力(=虚構上の「白いたてがみ」)がそれに取って代わろうとせめぎ合うとき、そこに「映画」が立ち上がる。それは、ちょうどわたしたちが『泳ぎすぎた夜』や『息を殺して』に見出した両義性そのものではなかっただろうか。
 演技経験に乏しい役者を起用し、その本名のままの役名を与え、物語らしい物語も起こることなく、長回しで被写体を撮り続ける。『泳ぎすぎた夜』に出演する古川鳳羅が、弘前に住む現実世界の6歳の少年であると知りながら、しかし同時に父に絵を届けに行くという物語上の「古川鳳羅」であると観客が信じるとき、そこに発生している現実性は単純な現実の記録を決して意味していない。スクリーンに映るのは「フィクション」でありながら、同時にその虚構を演じるその人自身という「現実」的な存在の記録という「二重性」を纏ったイメージそのものである。

 映画に見出したこの特有のリアリズムを、バザンは「写真映像の存在論」で「真のリアリズム」という概念で表現している6。それはカメラを回すことで単純に記録される「現実」(技術的リアリズム)ではなく、そのような機械的転写を基盤としつつも、「世界の具体的な意味、真の意味」を捉えたものなのだ。よりかみくだいて言うならば、バザンが見出したこの映画の存在論的位相は、おそらく『白い馬』を評する際に使用した「想像上のドキュメンタリー」という言葉がもっとも適切だろう。それはわたしたちの見慣れた「現実」をただ映すドキュメンタリーではなく、わたしたちが気づくことのなかった「現実の他者性7」に触れるものではないだろうか。
 わたしたちがふつう現実と知覚しているものの「外」にある何かが映像を通じて立ち上がるとき、そこには完全な現実とも虚構とも判別することができない「真のリアリズム」が生まれてくる。五十嵐耕平があくまでフィクションを撮りつつも、しかしながら同時に役者自身の存在という現実の現実性を映すとき、「想像上のドキュメンタリー」という二重性を孕んだ存在論的位相にたしかに到達しているのではないだろうか。そこで観客は、映画という夢のような虚構を通じて、現実よりも深く現実性を直視する可能性に開かれる。

 『息を殺して』で工場に佇む「犬」からはじまり、「なぜ五十嵐耕平は映画という虚構世界から逸脱する被写体を選ぶのか」という問いの答えをここまで追ってきた。バザンの映画におけるリアリズムをめぐる議論は、そこに一定の解を与えてくれたように思える。だが、ここで留意しておきたいのは、これまで辿ってきた理路では五十嵐作品が持つ特性を、ラモリスの『白い馬』とほとんど同一視してしまっているということだ。わたしたちがここで考えたいのは、きわめてドキュメンタリーに近似する手触りを基本としながらも、しかしそこから明らかに逸脱する、五十嵐作品に内在する「ノイズ」の要素についてだ。その「ノイズ」とは、たとえば『息を殺して』や『夜来風雨の声』における、観る者の記憶に焼き付くあの「ダンス」の長尺ショットだ。それはそれまでの物語のトーンから大きくリアリティが変容し、突如として作中人物が踊り出すというきわめて虚構性の高い演出のもとに立ち現れる。あのダンスシーンにおける可能性の中心は、はたしてこれまでの議論で説明することができるだろうか。

 迷い込んだ犬を探すうちに、工場で過ごす人々の前には不可思議な現象が起こり始める。すでに亡くなった主人公の父や、死んだはずの同僚が工場内を徘徊する姿が目に見えるようになる(映画はそれまでもフィクスのショットでその「幽霊」を捉えていたため、ここにも五十嵐作品の「想像上のドキュメンタリー」性は発揮されているといえるかもしれない)。やがて、映画が進行するにつれ、終幕近くに突如として谷口蘭が音楽に乗って踊り出す「ワンシーン・ワンショット」が挿入されるのだが、このシーンは明らかにそれ以外の場面よりもいくつかの点で際立っている。【図3】

【図3】『息を殺して』(2015年、五十嵐耕平監督)

 まず、この長回しのショットは『息を殺して』のなかで、ほぼ唯一といっていい手持ちカメラによるブレを伴う映像になっている。また、そこで鳴る大音響の楽曲はそれが作品世界内の音なのかオフの音なのか出自が曖昧であり、それまで非常に抑制された音響――その場にある音の使用――によってドキュメンタリー性を高めてきた同作のなかでは異端の演出だ。作品内で明らかに“浮いている”このダンスシーンでは、物語上でも一つのクライマックスに位置している。谷口蘭がダンスを踊り終えると、その目の前には亡くなった父が現れ、スクリーン上ですれ違い続けた二人はここでついに邂逅を果たすことになるのである。

 このような音響を前景化させた長回しのショットは、五十嵐作品における通奏低音のように形を変えては現れる。『夜来風雨の声』は、そのほとんどが風変わりなカップルの日常を描いた作品だが、クライマックス手前に主演の稲葉雄介が駐車場で突如として踊り出すショット(これも「ワンシーン・ワンショット」である)がある。このシークエンスも明らかに作品のリアリティを大きく逸脱した虚構性の高い場面になっており、以後、物語はギアが変わったように急速に変転していく。あるいは『泳ぎすぎた夜』では長い冒険(夢?)が終わり、少年が車のなかで眠りに落ちるときに大音響のクラシックが鳴り響く。少年の目線と思しき長尺のショットを経て、やがて少年は日常と地続きの現実――実家へと戻ることになる。
 五十嵐自身、過去のインタビューではそれらを「リアリティのレイヤーが移動する」場面と説明しており、音楽を使用した長尺ショットは物語上での変節を効果的に示している8

 しかし、この物語上で現実性のレイヤーが移動する場面を五十嵐はなぜ「ワンシーン・ワンショット」で撮っているのだろうか。これは、これまで見てきたバザンにおける「真のリアリズム」とは少しばかり相性が悪いようだ。
 なぜか。五十嵐がこの場面で映し出しているのは、「亡くなった父と再会する」(『息を殺して』)あるいは「夢としての冒険が終わり、現実に連れ戻される」(『泳ぎすぎた夜』)といった、虚構/物語の水準における出来事である。それはちょうどバザンが「ワンシーン・ワンショット」に見出した可能性の逆位相にあるように思える。
 バザンはかつて、オーソン・ウェルズを論じた批評で『市民ケーン』での「シークェンス・ショット(ワンシーン・ワンショット)」を、「現実の塊」を把捉するものとして高く評価した9。それは現実世界に内在する曖昧さを観客に「啓示」するものであり、そこに映るものの「本来の存在の密度、重みのある存在感」に迫るものだとバザンは考えたのだ(一方で「古典的デクパージュ」≒モンタージュを、世界を細分化/抽象化してしまう手法として強く批判した)。
 つまり「想像上のドキュメンタリー」があくまでドキュメンタリーに重点が置かれていることと等しく、バザンが特権化する「真のリアリズム」とはカメラによる現実世界の転写の“上に”、わたしたちが普段は知覚することのできない「現実の他者性」を表現するものなのだ。だから、カメラという光学的な記録による「技術的リアリズム」だけでは「真のリアリズム」は成立しない。しかし、同時にそれは疑うことなく成立条件の大きな一要素でもあるのだ。

 五十嵐作品は多くの場面で「役を演じるその人自身が映画という虚構世界のなかに“実在”する」という両義性によって、「真のリアリズム」を成立させてきた。しかし、たとえば『息を殺して』のダンスシーンは亡くなった父と再会する演出によって、現実にはありえないように思える「虚構」を成立させている。ここで問いを整理するならば、次のようになるだろう。五十嵐はなぜワンシーン・ワンショットという「現実の他者性」を啓示する手法に則って、より虚構性の高い場面を撮ったのか。
 結論を先に述べてしまえば、五十嵐耕平はおよそバザンの議論をも拡張する地平に到達していたのではないだろうか。わたしは先に「真のリアリズム」を換言するものとして「想像上のドキュメンタリー」というバザンの言葉を挙げ、それはどちらかといえばドキュメンタリー≒現実の記録に重点を置くものとした。だが、「想像上のドキュメンタリ―」という称呼に孕まれた二重性は、ただちにそのネガとしての表現を要請することになる。それはまさしく、その語を反転させた「本物の幻覚」というタームだ。「想像上のドキュメンタリー」があくまでドキュメンタリーであり、「現実」に力点を置いているのだとすれば、「本物の幻覚」は映像における現実的信憑性の上にこそ、「虚構」を映し取ることに重点を置く。ここには、よりパラドキシカルな可能性が開かれている。
 公平を期すために記しておけば、じつはバザン自身が「本物の幻覚」という表現を映画におけるリアリズムをめぐる議論のなかで用いている。だが、あくまで「真のリアリズム」が技術的リアリズムの上に成り立つという性格をバザンが強調するとき、そこでは幻覚≒虚構を称揚する潜在性は相対的に薄められてしまうことは避けられない。五十嵐は一つの作品のなかで映画に宿る二重性を増幅/拡張させることで「想像上のドキュメンタリー」だけでなく、「本物の幻覚」としての映画という、その双方の可能性をスクリーンに立ち上げることに成功しているのではないか。

 五十嵐耕平が撮った映画を観るとき、わたしたちはまずその虚構のなかで、演じている役者自身の現実性に直面するだろう。その二重性を孕む映像を観続けるうち、やがてダンスシーンなどの突然の変調によって、観客は幻覚のような映像を眼差すことになる。だが、観客はその幻覚のように思える虚構を一つの現実性として受け取れるほどにその感覚が拡張されていることに気付くはずだ。ここには映画の存在論的位相がもたらす、豊穣な可能性が宿っている。現実のようでいて現実ではない、あるいはときにきわめて虚構性の高い夢を通じて、現実よりも深く現実性に覚醒する。映画を観終えたとき、わたしたちは「現実」の在り処を見失った野良犬のように世界を彷徨うことになるかもしれない。

 

<註>
1 一般的に演劇等において観客席(現実)と舞台(フィクション)の間に概念上存在する透明な壁を指す。 
2 三浦哲哉著「二つのリアリズムと三つの自動性 : 新しいシネフィリーのために」(『現代思想』2016年1月号、青土社)を参照
3 前出「二つのリアリズムと三つの自動性 : 新しいシネフィリーのために」や伊津野知多著「アンドレ・バザンのリアリズム概念の多層性」(『アンドレ・バザン研究2』2018年4月、アンドレ・バザン研究会)を参照
4 アンドレ・バザン著、野崎歓訳「禁じられたモンタージュ」『映画とは何か』(2015年2月、岩波書店)
5 前出「禁じられたモンタージュ」
6 アンドレ・バザン著、野崎歓訳「写真映像の存在論」『映画とは何か』(2015年2月、岩波書店)
7 前出「禁じられたモンタージュ」
8 http://pict-up.com/interview/interview159501igarashi2.html
9 アンドレ・バザン著、堀潤之訳『オーソン・ウェルズ』(2015年12月、インスクリプト)

 

五十嵐耕平インタビュー:新時代の映像作家たち
子供が子供だった頃――『泳ぎすぎた夜』レビュー

連載【新時代の映像作家たち】
清原惟インタビュー
音と次元のフレームアウト――清原惟論