●五十嵐作品における「ダンス」と「音楽」
――五十嵐監督の作品には『夜来風雨の声』(2008年)にしても『息を殺して』にしても、とても印象的な長回しによる「ダンス」のシーンが出てきています。踊りを撮ることにこだわりがあるのでしょうか。
五十嵐 映画のなかで踊るってすごく幸せな感じがするじゃないですか。ただそれだけ、というところがあります(笑)。『フレンチ・カンカン』(1954年、ジャン・ルノワール監督)が好きで、ラストに踊り子たちが踊っているだけで、その身体性やエネルギーにすごく感動する。『息を殺して』はとても無機的な世界で、社会的に抑圧された若い人たちを描いていますけど、そのなかで谷口さんがおぼつかないダンスを踊ることで1人の人間としての生命の躍動感を出したかったんです。『泳ぎすぎた夜』に関して言えば、鳳羅くんが自分の世界で生きていくためのダンスを踊っているのをずっと撮っているという映画でもある。踊ったり歩いたり、人が動いていることそれ自体がすごく幸福感があることだと思います。
――五十嵐監督の「音楽」の使い方について伺わせてください。演技では一つの意味に固定されないような演出をしているということでした。ふつう映画音楽は悲しい場面で悲しい曲をかけるなど、そのカットの雰囲気や意味をより分かりやすく伝えるために使用されることが多いと思います。五十嵐さんは『息を殺して』でも『泳ぎ過すぎた夜』でも――ダンスの場面を除いて――きわめて抑制的にしか音楽を使っていません。五十嵐監督は音楽に明確な機能を担わせていないのでしょうか。
五十嵐 そうですね。映画のなかの感情と音楽を一致させることには、基本的に抵抗があるんです。音楽の方が映像よりも強いので、(音楽を使うと)そのシーンはそういう雰囲気や一つの意味を持つことにしかならないところがある。僕はわりと異化効果を狙って画面とアンバランスな音楽を使うことが多いと思います。あとは音楽が出てくるレイヤーが今、どの水準にあるのかということへの興味もあります。『泳ぎすぎた夜』で鳳羅くんが車のなかで眠ってしまうときに鳴っている音楽は車のステレオが鳴っているのか、画面の外の音なのかよくわからなくなっている。エンジンをつけたときに音が鳴るのでカーステレオっぽいけれど、音自体は環境音の広がりじゃないので、環境音ではない感じもする。
――音の出所が不明瞭なんですね。『息を殺して』の谷口蘭さんのダンスシーンも、確かに音源の場所が作品の内部なのか、外部なのかとても曖昧ですね。
五十嵐 そうですね、あれも曖昧なんです。実際にその前のシーンで同じ場所で音楽が鳴っていたから、その後も鳴っている感じがイメージとしてはする。でも誰も音楽をつけてないから、これはどこで鳴ってるのかっていうことが宙吊りになりますよね。
――五十嵐監督の作品で長い尺で音楽が鳴るときは、「決定的な何かが起こってしまっている」という感覚を想起させます。『息を殺して』では谷口蘭さんがお父さんとついに出会うシーン、『泳ぎすぎた夜』も鳳羅くんが白昼夢のような世界から家に戻ってくるシーンです。音楽によって時空間がワープするような感覚は意図したものでしょうか。
五十嵐 それはあると思います。『夜来風雨の声』とか『息を殺して』(で音楽が流れるシーン)は、なにかしらの飛躍のタイミングなんですよね。『夜来風雨の声』は日常的なカップルの話だったのが、命が脅かされるという危険なリアリティのレイヤーに移るときで、『息を殺して』では今まで接点がなかった父親と出会うという飛躍です。『泳ぎすぎた夜』は、おそらく飛躍ではなくて、空間が変容するというか、あの車のシーン以降、鳳羅くんはずっと寝てるんですよね。あの作品は後半2、30分のあいだずっと主人公が寝てる映画なんですよ(笑)。あの後からカメラは基本的に鳳羅くんを撮らなくなる。イメージとしては、あの音楽は鳳羅くんの夢の世界への導入のようなものかもしれない。
――なるほど。私は完全に逆の発想で観ていました。鳳羅くんが明け方からずっと見ている夢が、あそこで終わるんだと思いました。
五十嵐 それでいいと思いますよ。『泳ぎすぎた夜』は全体が夢のように見えるじゃないですか。明け方から寝ていないのか、いや本当はずっと寝ているのかもしれない。最初の始まりの日と、最後の鳳羅くんが寝ているカットは実は同じときで、そのあいだは全部夢かもしれないとも捉えられるし、それはどっちもありだと思う。
――夢のような感覚は、五十嵐監督の作品すべてに通底しているように思います。少し変わった質問ですが、五十嵐監督は明け方がお好きではないですか。『息を殺して』の作中の時間帯は明け方ですし、『泳ぎすぎた夜』も明け方から始まる。『夜来風雨の声』も深夜か明け方に出かけて行きますよね。明け方特有の夢と現実の融解していくような感覚に惹かれる部分はありますか。
五十嵐 夕方から夜って、空気が変わっていく感じがあまりないじゃないですか。でも明け方は空気が変わるんですよね。夜から朝になると何かが変容していくじゃないですか。単にみんな寝ているから街に誰もいなくて、朝になると起きて、動き出してくからだと思いますけどね。
●「カットの長さ」が生み出すもの
――五十嵐監督の作品では、ワンカットがとても長いですね。一つのカットをどの程度まで持続させるかについて、尺度みたいなものはご自身のなかにあるんでしょうか。
五十嵐 やっぱりカット自体の意味を見ているわけじゃないんですよね。例えば、このカットではこういう感情や意味を伝えたい、それが十分伝わったならもう意味はわかったでしょという具合に切る。でも意味以外に何か写っているものが語る時間、観客自らが考える時間があって欲しい。こっちが語るものについて来いというより、観た人が自発的に何かしらアプローチができるものであって欲しいと思っています。
――映画のなかに流れる時間に観ている人の時間が同期してくるまで待っているということですか。
五十嵐 そうですね。そこにある種の見る自由があるので、こちらで強制しすぎることを拒んでるんだと思います。
――映画に対する姿勢などで五十嵐さんが大きく影響を受けた映画や作家はいますか。
五十嵐 さっき挙げたルノワールは好きですね。
――フレームから受ける印象は(ロベール・)ブレッソンに近いように思いました。
五十嵐 ブレッソンはダミアンが大好きなんですよ。僕は(ジョン・)カサヴェテスが好きなんですけど、ブレッソンが好きな人とカサヴェテスが好きな人が一緒に映画を撮るってなんか危なそうですよね。
――喧嘩になりそうな気がしますね(笑)。
五十嵐 でもカサヴェテスが好きなのは美的な映画だけのことではなくて、彼らの生活だったり人生だったりっていうのが映画の中に色濃く反映されているからです。そういう、映画を作って生きて行く態度のようなものにすごく惹かれます。ただ、僕もブレッソンは好きです。『抵抗(レジスタンス)-死刑囚の手記より-』(1956年)とかは、刑務所のなかの描写がすごく細かい。そういう観察的なところが、面白いと思う。『スリ』(1959年)とかも、どうやって(スリを)やるのかってことだし。ブレッソンの映画には演技にしても、物語にしても強いドキュメント性がありますよね。あとは……エドワード・ヤンとかホウ・シャオシェンもすごい好きですね。
――『牯嶺街少年殺人事件』(1991年、エドワード・ヤン監督)だと、主人公の少年が意中の少女を刺殺してしまう場面を異様に引いて撮っていますね。あの感覚は五十嵐監督にもあるように思います。
五十嵐 エドワード・ヤンもホウ・シャオシェンも、「空間」と「時間」と「人」を撮っている。それは当たり前のことに聞こえるかもしれないですけど、それで映画を語っていくことはとても難しいことだと思います。でもさも当然のように見える。物語自体はシンプルだったりしますけど、本当にたくさんのことを感じたり、考えたりできます。まるでその時間を実際に生きたかのように、複雑な感情が残ると思いますね。
――世代の近い作家さんで、注目している監督がいれば伺いたいです。
五十嵐 たくさんいますけど、もちろんダミアン・マニヴェルと、あと三宅(唱)くんですかね。三宅くんも基本的に「空間」を撮っていて、そのなかに俳優がいるという感覚がすごく強い。それで俳優の存在感っていうのが際立ってくる。気配だったり、匂いというか色気というか、そういうものが画面に漂っている感じがしますね。特に最初の長編の 『やくたたず』(2010年)だったり『Playback』(2012年)とかもそうですけど。今度新しい映画ができたみたいでそれもすごく楽しみです。※『きみの鳥はうたえる』(2018年、三宅唱監督)
――今後の作品の構想があればお聞かせください。
五十嵐 いつも違うことをしたいなと思っています。『息を殺して』の後に『泳ぎすぎた夜』を撮るぐらいに違うことがしたいですね。自分が考えたことよりも、ダミアンと会ったり、鳳羅くんとの出会いでこういう映画を撮れたので、いろんな場所に行っていろんな人に出会うなかで探していきたいです。それこそプロフェッショナルな俳優と原作ものをやるのも面白いですし、一人でカメラを持ってドキュメンタリーを撮りに行くかもしれないですしね。
――最後にどうしても聞きたかったんですが、『泳ぎすぎた夜』で鳳羅くんが犬に向かって吠えるシーンで、犬が二匹飛び上がるカットはどうやって撮ったんでしょうか? 観ていて本当に驚きました。
五十嵐 雪国ならではの事情で撮れてしまっただけなんですけど、まぁ内緒です(笑)。
五十嵐耕平(いがらし・こうへい)
……1983年、日本の静岡生まれ。東京造形大学在学中に制作した映画『夜来風雨の声』が Cinema Digital Seoul Film Festival (CINDI) に出品され韓国批評家賞を受賞。2014 年、東京藝術大学大学院映像研究科にて制作した修了作品『息を殺して』は第67 回ロカルノ国際映画祭に出品され、その後全国劇場公開された。また近年はD.A.N. Alexandros 等のミュージックビデオも手がけている。
<作品情報>
映画『泳ぎすぎた夜』
©2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD
2018年4月14日(土)よりシアター・イメージフォーラムほかにて公開
主演:古川鳳羅
監督:五十嵐耕平 & ダミアン・マニヴェル
HP: oyogisugitayoru.com
【製作年】2017年
【製作国】フランス/日本
【上映時間】79分
【制作プロダクション】NOBO
【製作】MLD Films
【プロデューサー】マルタン・ベルティエ / 大木真琴
【撮影監督】高橋航
【照明】跡地淳太朗
【録音・音楽】ジェローム・プティ
【録音】高橋玄
【助監督】上田真之 / 平井敦士
【編集】ウィリアム・ラヴリ
【カラリスト】ヨヴ・ムーア
【出演】古川鳳羅 / 古川蛍姫 /古川知里 /古川孝 /工藤雄志 /はな(犬)
◆連載【新時代の映像作家たち】
①清原惟インタビュー
・音と次元のフレームアウト――清原惟論
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