子供が子供だった頃――『泳ぎすぎた夜』レビュー


子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ 川は河になれ
水たまりは海になれ と思った
子供は子供だった頃
なにも考えず 癖もなにもなく
あぐらをかいたり とびはねたり
小さな頭に 大きなつむじ
カメラを向けても 知らぬ顔*1

 子供と聞いてそういえば、と思い立ちヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(1989年)冒頭に流れる、作家ペーター・ハントケによる童謡の歌詞を書き出してみたが、見比べてみると想像以上にしっくりきた。これはまるで、五十嵐耕平とダミアン・マニヴェルの共作『泳ぎすぎた夜』(2018年)のために書かれた詩ではないか。
 彼らの新作映画のプロットは言わば、6歳の子供が学校をサボってお父さんに自分が描いた絵を届けるだけの簡潔なものだ。

 雪降り積もる弘前の街に、間もなく朝日が昇ろうとしている。どこかの民家の1階から戸の開く音が聞こえ、起きてきた男がキッチンにたどり着き、オレンジの薄暗い室内灯に照らされ、タバコを取り出し、まずは朝の一服。間も無く、勤め先の魚市場へ出かけていく。外出する父親の姿を窓から眺める6歳の息子(古川鳳羅)。冒頭で予告されるのは、これは子供が父親を追いかける映画だということだ。
 階段を降りる少年の足取りは、まだ半分夢の中にいるようでおぼつかない。白いブランケットを纏い、大きな頭をふらふらと揺らすその姿は、人間ではない別の生き物みたいにちょっと不気味でもある。地球とは別の星の重力にさらされているかのようなその足取りを見ていると、この階段は宇宙船の出口なのではないかと思えてくる。
 彼はお菓子を食べ、トイレに行き、姉を起こすのに失敗し、押入れの中で画用紙を抱え込みなにやら絵を描き始める。かと思うと、次のカットでは今度は布団の中から顔の上半分を覗かせてまた眠る。こうしてしばらく布団の中と外を行ったり来たりする。『泳ぎすぎた夜』とタイトルを掲げて、プールも海も出てこないこの映画では、いったい誰がどこを泳いでいるのだろう。そのヒントは彼が描いている絵の中にある。描き出された魚や亀が、少年が父親の職場から連想し、海についての夢を見ている証拠だ。

 ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』では、長いあいだ人間の歴史を見届けてきた守護天使・ダミエルがサーカスの空中ブランコ乗りに恋をし、人間になるまでが描かれる。ダミエルが人間になると、それまで白黒だった画面に色彩が灯るシーンは印象的だ。ここで、ヴェンダースの映画を引き合いに出したのは『泳ぎすぎた夜』もまた、まだ人間にはなりきっていないかもしれない「なにか」の視点で私たちのありふれた日常を描写する映画だからだ。 
 「7つまでは神のうち」と明治期までの日本ではよく言われたもので、今ほど医療が発達していなかった時代に、7歳になるまで子供が成長できることは現在よりもずっと稀なことだった。「七五三」のような風習は、その7つになってまともな人間になるまで育った子供の成長を寿ぐお祭りとして残っている。7歳までの子供はヴェンダースが表現した「天使」のように神聖で、この現実世界にまだ馴染めていない。
 ヴェンダースの「天使」の例は、ある地点までは私たち大人とは別の存在としての「子供」を考えるのに役に立つだろう。しかし、これは宗教の話では決してない。天使や七五三の話をして子供を神秘化してしまっては、この映画が伝えようとする子供の鈍い動きと、その無防備な滑稽さみたいなものを受け取り損ねてしまう。重要なのは、子供とは私たちが当たり前だと思っている「社会」や「日常生活」「常識」といったものの外からやってきた「なにか」であることまでだ。そしてもう一つ、私たちは皆そうした子供だったことだ。

 冒頭の、起きるとも寝るともつかない緩慢な子供の動きに自分の幼いころを思い出す観客はきっと多いはずだ。決して少なくない人が、冬休みのだるくて起きられない朝、自分の小さな体には不釣り合いなほど布団が大きくて温かいせいで、その中にまるで広大な眠りの王国が広がっていると夢想したことだろう。
 起き上がったり寝転んだり、眠りながら朝食を食べたりとだらだら過ごした後、少年は何度も転びながら不器用に靴下を履いて、ランドセルを背負い、ぶかぶかの防寒着を揺らしていかにも鈍そうな動きで歩きながら家を出る。寒さをしのぐために何枚も服を着ているせいで揺れる体は、ちょうど「宇宙服」を着ているかのようだ。

『泳ぎすぎた夜』(2018年、五十嵐耕平監督)©2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD

 小学校に着くや否やチャイムが鳴り、一度は遅刻しまいと校門の向こうへと急ぐが、すぐに門に背を向け引き返してきて、柵を越え、非常食のようにポケットに忍ばせておいたオレンジ色のみかんを取り出し、皮をむいて食べる。目の前の積もったまま手付かずになっている雪原は文字通り人跡未踏の地。森や川原を探検し、今度は駅――つまり地上の“ステーション”へとたどり着く。
 続いて彼が「子供」であることを一層強調されるのは、周囲の建物との関係で、だ。駅のベンチや、電車の座席、ショピングモールのフードコートの客席に座ると地面から少年の足が浮いてしまう。代わりにどこかの公共施設の大きな階段に座ってみると彼にとっては居心地がよさげだが、その階段に腰掛ける少年の姿はなにか自分よりも巨大な別の生き物のために作られた未知の文明に迷い込んだ者にも見える。街の中のあらゆる建物や設備が彼のサイズに合っていない。
 椅子に座ったときに浮いてしまった足はぷらぷらと揺れ、手の届かないウォータークーラーから水を汲むために背伸びした体は、バランスを崩してぷるぷると震える。大人と同じ要領では目的を果たせないその身体は常にノイズを生み出し、例えば雪道を反射するカーブミラーや、二匹の柴犬や雪かきの音に気をとられるうちに、もともとの目的がノイズに飲み込まれるようにして彼はやがて道に迷い、父の職場に辿り着けなくなってしまう。

 フードコートで自分が写したデジカメの写真データから、父の職場の建物を見つけ、それを目印にやっと目的地にたどり着く。ここで『泳ぎすぎた夜』という映画のなかで、やや歪な運動の停止を生み出す写真がどんな効果を生み出しているかを考えてみたい。そのシークエンスでは子供の目線に成りかわり、突如として画面には彼が見ている写真のイメージだけが映る。それは、ちょうど彼の身体が生み出すノイズが排除された静止画の世界である。ノイズの削除によって彼は大人に、「人間」に近づいていく。つまり、換言すれば彼と彼がまだ馴染みきれていない「人間」の世界との間にギャップがあり、その隔たりに「ノイズ=運動」が生まれ、映画はそれを少し意地悪に記録し続けてきたというわけだ。『泳ぎすぎた夜』とは、すなわち子供が父親=「人間」に一致しようとする「運動」の記録なのかもしれない。彼は父の職場を探し、不要なノイズを刻み、迷子になりながらもなんとか目的地にたどり着く。それは子供が大人になるための物語であるかのように描かれる。

 やっとの思いでたどり着いた魚市場では、もう誰も働いておらず、彼は結局は父親とすれ違う。落ち込んだ少年は吹雪の中を歩いて、鍵の空いていた車に休憩場所を見つけそのなかで疲れて眠る。小さな宇宙飛行士の探索は終わり、後はその乗り物に乗って故郷の星に帰り着くまで眠り続けるのだ。探索は行われたが、たどり着いた目的地は空っぽだった――あたかもジョン・フォードの西部劇にも、リドリー・スコットのテラフォーミング映画にも、ジョージ・ミラーの『マッド・マックス 怒りのデスロード』(2016年)にも描かれたことのある、作劇上の一つのパターンにならう彼の探検は、こうして幕を閉じる。
 その後、この80分足らずの短い映画の中で、最後の20分間、主人公である少年は眠り続ける。カメラは彼の寝顔と景色や自宅の部屋、彼の家族たちをただ映すばかりだ。後半の場面で、最も印象的なのは彼の母と姉とが、テレビを見ている場面である。といっても、ここではフレームのなかにテレビ画面は映らない。二人の女性の視線と画面の外から聞こえるテレビ番組の音声だけがその同一空間内に画面があることを示唆している。
 じつは、冒頭にこれとよく似たシークエンスがある。そこでは我々の小さな探索者であるあの子供のクローズアップが映し出され、暗闇のなかで彼の顔に画面の外のテレビ画面の光が反射して顔はうっすらと赤色や緑色に光る。後半の母と姉のシーンは、このシーンの反復なのだが、ここにこそ本作の賭け金がある 。

『泳ぎすぎた夜』(2018年、五十嵐耕平監督)©2017 MLD Films / NOBO LLC / SHELLAC SUD

 どういうことか。まずは冒頭の少年のクローズアップである。フレームの外にテレビ画面があることで、観客は少年の顔だけを見つめることになり、劇場では鏡のように働くスクリーンが、観客の少年への同一化を助けている。本作は、いわば子供と対峙することで始まり、最後に観客は子供そのものとなって彼の母や姉と向かい合うというわけだ。そこで観客は、最初のテレビ画面の場面から最後の再登場までの間に、あたかも自分がその子供のようになっていたことに気付くのである。言い換えれば、前半と後半のこの「フレーム外のテレビのシーン」のあいだに『泳ぎすぎた夜』の本編――父親を探索する子供の冒険劇――があり、観客は彼の探索をたどりながら、ノイズを刻む少年の小さな身体特有のリズムに徐々に同期していたのではないか。
 つまり、あの「あいだ」のずれた子供の身体のノイズは、大人になろうとする子供の動きではなく、大人を子供に戻そうとする動きだったのだ。そして、この映画を見終えたとき、観客はよく見知った自分たちの周囲の景色を見知らぬ惑星のように再び体験し直すことができるようになる。

 最後に、ラストのショットに登場する魚市場の忘れ物を思い出してほしい。再び次の朝、父親が職場に出かけていくと魚市場には子供用の防寒帽が置かれている。観客は、きっとあの少年の帽子だとすぐに察するはずだ。『ベルリン・天使の詩』の終幕では、人間に憧れ、天使の身分を捨てて人間になることを選んだ主人公ダミエルのもとに、元天使という設定で本人役で出演している俳優のピーター・フォークがやってくる。彼は、天使をやめたものに残されたダミエルの「鎧」を指差し、どこの質屋なら高く買い取ってくれるかと人間の先輩として助言する。しかし、このシーンはフォークの側から見れば、その「鎧」こそが彼に、彼もかつては天使であったことを思い出させているはずである。 
 『泳ぎ過ぎた夜』では最後に映される子供の帽子が、この「鎧」と同じ役割を果たしている。彼は未熟でノイズの多い動きをする子供であったがゆえに、「帽子」としてそこに自分が子供であった証拠を忘れていったのだ。
 あの子供は、その防寒帽をきっと取りにくるだろう。いつか子供は大きくなり、迷ったり、ものを忘れたりしなくなり、身体は運動のノイズを減らしていく。しかし、映画はその忘れられた「帽子」を記録し、彼がかつて子供であったことをいつでも思い出せるようにした。彼だけではない、この映画を見ることで私たちの誰もがいつでも自分の「子供が子供だった頃」に帰ることができる。帽子とは、それを端的に示すためのシンボルなのだ。そこに置き忘れた帽子さえあれば、私たちはいつでもそれを取りに帰ることができるのだから。

<註>
1. わらべうた ペーター・ハントケ(『ベルリン・天使の詩』(1989年、ヴィム・ヴェンダース監督)より)

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