濱口竜介インタビュー:連載「新時代の映像作家たち」


濱口竜介にとって、初の商業映画となる『寝ても覚めても』(2018)が9月1日(土)より全国上映された。その名を世に知らしめることになった5時間17分の傑作『ハッピーアワー』(2015)、あるいはその後に撮られた驚嘆に値する短編『天国はまだ遠い』(2016)に続く同作は、これまで濱口が先鋭的に問い続けてきた「カメラの前で演じること」という主題の一つの到達点となっている。批評家・蓮實重彦は同作に対して「日本映画第三の黄金期」という最大級の賛辞を贈った。『PASSION』(2008)以後に前景化した演技への関心は本作にどのように結実したのか、職業俳優との現場で起きることや牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』(1977) について、あるいはジョン・カサヴェテスへの偏愛など、この特異な作家の実像に迫った。
(聞き手/構成 伊藤元晴、佐久間義貴、山下研)

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS

『寝ても覚めても』はいかにして撮られたか

――今回の『寝ても覚めても』が濱口監督にとって初の商業映画になります。濱口監督が大切にしている撮影前の「本読み」(現場でニュアンスを込めず、抑揚を排して脚本を読む)や「演技を待つ時間」は、今回の撮影環境でも確保できたんでしょうか。ワークショップを含む形で進められた『ハッピーアワー』とは同じようにはいかないのではと感じるのですが、いかがでしたか。

濱口竜介(以下、濱口) 『ハッピーアワー』は通常の映画制作では考えられないほど、時間などの面ではある意味「贅沢すぎる」環境だったので『寝ても覚めても』がそれと全く同じというわけではもちろんありません。とはいえ、プロデューサーの方が僕の過去作を見て声を掛けてくれたこともあって、「本読み」や「演技を待つ時間」などに対して非常に理解がありました。商業映画の枠組みの中で、時にはそれを超えて、最大限の協力体制があったと感じています。

――『寝ても覚めても』の上映時間は119分、それに対して代表作である『ハッピーアワー』の上映時間は317分に上ります。『親密さ』(2012)も255分の上映時間ですし、今回は尺の長さがこれまでとは異なりますが、撮影期間はどのくらいだったんでしょうか。

濱口 『ハッピーアワー』のときは、週1回のワークショップを行う期間が半年ありました。そして、その後に脚本を改稿する期間が2ヶ月ぐらいあったんです。撮影は週1回のペースで進めていましたので、トータルで8ヶ月ぐらいかかりました。『寝ても覚めても』の場合は撮影期間が1ヶ月ですね。準備期間という点でいうと脚本を書いていた時間がとても長くて、2年以上かかっています。

――『寝ても覚めても』では、役者さんとのコミュニケーションの取り方で以前と変化はありましたか。

濱口 基本的にやることは大きくは変わりません。いわゆるニュアンスを抜いた「本読み」を繰り返して、撮影に入ります。それで実際に現場に入ったら、俳優には思うように演じてくれて構わないと言う――その基本的なスタンス自体は何も変わっていないですね。

――濱口監督は著書『カメラの前で演じること』(2015、左右社)で、『ハッピーアワー』では役者を日常ではさらけ出されることのない内奥(はらわた)の次元へ導くことや、その障壁となる役者の台詞の言えなさ――「恥」が問題になったと書いています。今回の『寝ても覚めても』で役者とのやりとりをする上で「恥」について感じたことや、これまでの作品との違いがあれば教えてください。

濱口 本質的には違いはありません。役者さんの感情をできる限り現場で尊重するということです。今回の『寝ても覚めても』で職業俳優の方と仕事する上でも、『ハッピーアワー』でやったことは引き継がれていると思います。

 個々の俳優について感じたことでいえば、ヒロインの唐田えりかさんは演技経験が浅く、自分の演じ方が固まっていない状態だったので、『ハッピーアワー』の演技経験を持たない演者たちとやっている感覚にとても近かったです。僕は撮影に入る前に俳優にニュアンスを抜いて脚本を読んでもらうこと(本読み)をやってもらいます。これは現場でナマの感情が出てくるように、その準備のためです。彼女は「演じる」ということをそもそもやり方として多くを知らない。なので、ごく普通に発声していったら自然とこちらが求めているニュアンスのない「本読み」になっていきました。他方で、演技経験の豊富な俳優さんたちは、「ニュアンスを抜いている」というニュアンスから始まる、という傾向はあったように思います。

 ただ今回、演技経験に差がある俳優が混ざるという状況自体は非常に可能性のあることだと思いました。演技経験の豊富な方たちは僕が「ニュアンスを抜いて読んでもらえますか」と言っても、一体どういうことなのかと演出意図を探りながらやるんですけど、進めていくうちに唐田さんのような読み方をどうも濱口が望んでいることだということがわかってくる。唐田さんの声は実際、非常にまっすぐ届くものでしたから、本読みとはこういう風にやるんだな、とそこから学んでいくところがあったのではないかと思います。

――「本読み」を経て、実際の撮影に入ったときに『ハッピーアワー』のときの現場と違う部分はありましたか。

濱口 それはありました。「本読み」の時点でニュアンスを抜くということをした後に、実際の撮影現場に行くとどうなるかというと、経験のある俳優の方たちは現場での「演技の始め方」を知っていると感じました。つまり『ハッピーアワー』の現場で起きたことよりも「振れ幅」があるというか、即興的におもしろいことが起きる、何かを起こしやすい状況になりました。

 本読みでニュアンスを抜いた後、現場で「思うように演じてください」とお願いしたとして、本当に何も起こらないというリスクもあるんです。だから『ハッピーアワー』のときは第一声や初動に関しては僕から演技指示をして「仕掛ける」必要があったんですけど、今回は職業俳優がいることによって自然に生まれていきましたね。

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS

――実際の俳優の演技から何かが起きて変わったシーンを具体的に教えて頂くことはできますか。

濱口 あらゆる瞬間がそうといえばそうなんですが、わかりやすい例で言えば、串橋(瀬戸康史)とマヤ(山下リオ)が争うシーンがありますよね。あのシーンはそれまでメインだった亮平(東出昌大)や朝子(唐田えりか)が脇に置かれて、状況へのリアクションを通じてお互いのパーソナリティを理解するというふうに撮りたかったんです。リアクションというのは、その場で、ナマで生まれてくるものしかよく映らない。
 東出さんと唐田さんがどういう反応をするのかは瀬戸さんと山下さんたちのやりとりにかかっているところがあったので、実は瀬戸さんや山下さんにも画面の外で演技をずっとしてもらい、それに対するリアクションを撮っています。

 瀬戸さんと山下さんが素晴らしいと思ったのは、同じ演技を繰り返していても落ちないという感じがあって、「本読み」の効果もあったかもしれないですけれど、その体力は経験のある役者さんでないとないものだったと思います。つねに何か糸口を探して新鮮さを保った演技をしてくれるところがありがたかったですね。

『SELF AND OTHERS』と『寝ても覚めても』

――『寝ても覚めても』では牛腸茂雄による写真集『SELF AND OTHERS』(1977)の展覧会が、二度に渡って作品に象徴的に登場します。牛腸の写真を使用したのはなぜだったんでしょうか。

濱口 『寝ても覚めても』の脚本には「写真展」と書いてあるんですよ。それを映像にする際には当然、この写真展は何の写真展なんだ? という問題が出てきて、写真家の作品を借りたいということになりました。それでどなたの写真を借りるかということになったときに、牛腸茂雄さんの写真がまず最初に頭に思い浮かんだんです。

 『寝ても覚めても』のテーマと牛腸さんの写真はダイレクトすぎるくらいに響き合っていると思います。『SELF AND OTHERS』にある、まるで「分身」のように見える並び合った少女の写真、あるいはカメラをじっと見つめ返してくる被写体の姿は、どうしても頭に浮かんでくるイメージでした。僕が過去に佐藤真さんの撮ったドキュメンタリーである『SELF AND OTHERS』(2001)を観ていたということも少なからず影響していたとは思います。

――牛腸茂雄を含むいわゆる「コンポラ写真」は、モデルを「魂」や「個性」を直接的には感じさせない他者として映すものだと評されることがあります。今回の『寝ても覚めても』では、無言でじっと佇む唐田えりかさんのアップが「何を考えているのか分からない他者」のように印象的に捉えられています。台詞や身体そのものへのアプローチといった、濱口監督のこれまでとは異なる狙いを感じたのですが、そこに『SELF AND OTHERS』と通底するものはありましたか。

濱口 唐田さんのアップは、まず単純に「すごい顔をしているな」と思いながら撮っていました。最初のアップは普通に「写真を見ている顔」として出てきますが、物語が進むにつれて何とも定義できない「すごい顔」になっていく。それはその顔を見ても、「一体何を思えばいいのかが分からない表情」なんです。その表情は役者にやってもらおうとしてできる類のものではなくて、現場の撮影のなかで生まれてきた表情だと思います。だから、そういう顔が撮れたことはとても幸福なことだと思いながら撮影していましたね。

――唐田さんのあの表情は濱口監督にとって「いい顔」だったわけですね。

濱口 そうです。「いい顔」というのは、定義することができない何かに人がなっているときの表情だと思います。役としての朝子の顔でもあり、演じている彼女自身の顔でもあるというような、そういう顔がカメラに収まってよかったです。

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS

「顔」を撮ること――ジョン・カサヴェテス、小津安二郎

――『天国はまだ遠い』でも、小川あんさんが無言でカメラを見つめるカットが印象的です。濱口監督は顔を撮ることに対するフェティッシュはありますか。

濱口 それはありますね。カサヴェテスの『フェイシズ』(1968)がとても好きなんですが、カサヴェテスがやっていることは映画におけるクロースアップの伝統とはまた違った試みだと思っているんです。というのも、カサヴェテスが撮る「顔」は特定の感情を意味するものとして撮っているわけではないですよね。たとえば会話を聞いている顔を映すにしても、その顔は何かを感じていることは分かるのだけど、会話の流れに完全に同調している表情でもなかったりする。その会話に違和感を示しているように見える。

 それでその「顔」の真の意味合いが確定して感じられるのは、いつも事後的です。たとえば『フェイシズ』だとシーモア・カッセルが妻のリン・カーリンの元に戻ってくることで、それ以前に二人が交わし合っていた視線や表情が決定的なものにも見えてくる。だから、映し出されたそのときには何を思っている表情なのかが分からない「顔」がそこに浮かんでいるというカサヴェテスの映画が、僕がやっていることのモデルとして一つあると思います。

――過去のインタビューで、濱口監督は「カメラの夢はカサヴェテスのエモーションを小津のカメラポジションで撮ること」と語っています。『PASSION』はよくカメラが動くのでカサヴェテスにとても近い印象を受けましたが、『ハッピーアワー』の温泉旅館での再自己紹介シーンは小津作品を想起させるようにスタティックに撮っています。『寝ても覚めても』でもアップのシーンなども同様に感じたのですが、小津のように撮ることへの関心についてお聞かせください。

濱口 過去のその発言は確かにキャッチーですが、インタビューでの発言はそのときどきのノリで生まれてくるものですから、あまり信じすぎずにいていただきたい。僕が現在やっていることが「小津のカメラポジション」で撮っているわけではないこともまた、強調したいです。小津のポジションはよく知られているようにロー・ポジションですが、それなのに話している役者はカメラを見ているように感じられることがままあるんです。つまり小津のカットバックは、会話が続いていてあたかも目が合っているかのように撮られている。にもかかわらず、お互いの目は合っているはずはないこともはっきりと記録されている。つまり、感情と空間が齟齬を起こしている。空間が壊れているにもかかわらず、物語は何の問題もなく続いていく――そのことが小津を見ることをひとつの恐怖体験のようにしているわけです。それはとてもラジカルなやり方なので、簡単に真似できるものはありません。一方で、僕がカメラを置いているところは、TVドラマでもあるような人の目線の高さですから小津のポジションとはまったく違う。もっと保守的なことをしているんです。

 小津らしく見えるとすれば、それが静的な構図に収まっているということも大きいでしょう。ただ、日本人の身体ってそもそもあまり動かない。日常の動作のなかでは何をしたって欧米人ほど大きく動くものではないので、それに悩んでいたことがありました。動いてくれたら、それを追いかけて撮りたいという気持ちはあるんです。それで相米慎二などがやっていることは頭にあるにしても、「日本人の身体は動かない」ということをいったん受け入れた上でそれを利用して撮ることで静的な画面が生まれているのかもしれません。これはもしかしたら自分の演出家としての限界かもしれませんが、「日本人の身体が自由に動かないということ」自体を撮るという感じでしょうか。どちらかというと、本当は動いてほしいんですけどね。でも日本語で脚本を書くときのリアリティの問題として、とても身体が動く人や状況は特殊なものになってしまう。せいぜい動かない身体がそれでもどれだけ感情的であり得るか、ということを問題にしていると思います。

――『不気味なものの肌に触れる』(2013)では砂連尾理さんによるダンス(振付)、『ハッピーアワー』では重心についてのワークショップが描かれます。これも動かない身体への問題意識から派生したものでしょうか。

濱口 そうですね。そういう状況設定がない限り、僕は人の身体はああいう風には動かないと思っています。

柴咲友香『寝ても覚めても』と脚本について

――『寝ても覚めても』では脚本に2年を費やされたとのことですが、それはこれまでの作品と比べてもかなり長い方なんでしょうか。

濱口 実際に手をかけている時間は、これまでで一番長いと思います。脚本の初稿ができたのが2015年の秋頃だったのですが、そこから2年間ぐらいは改稿作業に当てていますから。結果的に第4〜5稿ぐらいまでいき、その後も細かい修正は色々しています。撮影前に大きく変わったところは二つあって、最初の麦(東出昌大)が出てくる大阪の部分を圧縮したところ。もう一つ、原作にはない震災の要素が入ってくるところは最初からあったんですが、東北に行くという流れは書き加えました。

――『ハッピーアワー』では撮影中にも登場人物や演じる人の心情に合わせて、脚本を変えていったと書かれています。今回の『寝ても覚めても』でも同じように撮影現場で変えることはありましたか。

濱口 撮影現場で変えた部分も多々ありますが、覚えているのは撮影の終盤頃に柴崎友香さんが現場に何度めかにいらっしゃったときのことです。柴崎さんは基本的に脚本について何もおっしゃらなかったんですが、そのときは意を決したような感じで話しかけてこられて、「ラストのここの部分が気になる」とおっしゃったんです。

 端的に言うと、それまで脚本上ではラストに朝子が亮平に許しを乞うようなニュアンスがあったんですが、そのときの朝子の台詞が気になると柴崎さんはおっしゃっていました。あとは朝子が亮平と二人で大阪で家を探すシーンで、朝子が大阪に行って何をしたいのか、もう少し彼女の意思を知りたいとも言われました。柴崎さんの指摘は、むしろ僕自身のひっかかりを解いてくれるようなところがありました。朝子のキャラクターとして実に納得するところがあったので、朝子の「私、働きたい」というセリフが川沿いの家のシーンで生まれ、終盤も謝らない表現に変えています。結果的に生まれた演技も素晴らしかったと思うので、これは柴崎さんのおかげと思っています。
(次ページに続く)