山戸結希監督インタビュー(『ホットギミック ガールミーツボーイ』):連載「新時代の映像作家たち」


もしも「豊洲神話」を撮れたなら

物語の舞台となった「UR東雲キャナルコートCODAN」 (C) 相原実貴・小学館/2019「ホットギミック」製作委員会

――ゆりかもめ「市場前駅」での長回しのシークエンスは、どうやって撮影されたのでしょうか。ガラスに囲まれた環境、動き回る役者をカメラが追っていき、最後は電車が来るタイミングで終わる、とても難しいシークエンスだと思いました。電車が来るタイミングを秒単位で計算した上での撮影だったんでしょうか。

山戸 あのシーンは、当然ながら、実際のゆりかもめが走っているホームに撮影隊が入って撮影しており、もちろん秒単位で計算出来る可能範囲はそうしつつも、時刻表的な正確さだけでは、持続するカットの果てに電車は訪れないので、本当の意味でのタイミングは、こちら側が捉え、察し、同化することが重要でした。その意味で調整可能な「機械」を撮るというよりは、アンコントローラブルな「風」や「動物」を撮るのと同じ呼吸感で撮るように心がけました。演じている二人(清水尋也、堀未央奈)の瞳にしか見えない距離感で、電車もまた生きているものとして見立て、“塩梅”を探っていたのだと思います。

――これまでの作品は地方都市を舞台としたものが多かったと思います。今回、東京を舞台としたことでこれまでと変化はありましたか?

山戸 物語の要請として地方を舞台にすることが多かった一方で、ショートフィルムなどは基本的に東京で撮影する流れになりやすいですね。ただ、東京の街を映したときに起こる「乾き」を心もとなく思っており、東京が舞台である限り、今回は東京を「森」みたいに撮りたいということを、制作部さんとの最初の打ち合わせでお伝えしていました。

――あたかも「自然」のように不確定なものを撮るということが監督にとって重視していたポイントなんですね。

山戸 そうですね、電車にせよ、街にせよ。加えて、生活意識に立ち上ってくるのとは違う撮り方をしたい、「東洋」的な回路を経由して東京を見立てたいという思いがあったのだと思います。アジアの映画を観ると、「森」と都市部が同一線上に、カオスなままで息づいている、呼吸に親しいものとして表出していますよね。

――たとえば、この映画の「森」がいいと感じたアジアの作品はありますか。

山戸 近年で印象に残っているのは『光りの墓』(2015年、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督)ですね。ずっと観ていられる、好きな作品です。伝統的な時間が流れていることを感じさせつつも、「2010年代の身体」を映し出すヴィジュアルに感じ入りました。

――人工物を「自然」のように撮る姿勢は『光りの墓』にも通じるところがあるんですね。『ホットギミック ガールミーツボーイ』ではおもに豊洲が舞台となり、工事現場も多く映っていると思うのですが、そこにも意図はありましたか。

山戸 (東京を)決定的に移り変わるものとして撮りました。そして「森」として今の東京を映すなら豊洲がいいんじゃないか、というのも始まりの際に提案させて頂きました。

 「森」という言葉は、「呼吸」にも繋がってゆくものだと思います。街も、クレーンも高層ビルも、純粋に無機物というよりは、人々の営為の結果として大きなスパンでサイジングし直した時、その時代ごとの息吹の可視化とも言えますよね。人工物は、つまり本当の意味で人が作りしものということだから。

 工事はとても人為的な、血や汗が流れる、つまり「呼吸」のある行為だと思います。もしも未来、AIの領域がもっと広がり、私たちの身体性が社会的により隠蔽される日が来たとしたら、街に施されている工事は、今でいう土器みたいにとても根源的なものになるのではないかと想像しています。土器もクレーンも、誤差の範囲内なのです。それは逆説的に、人の手によってのみ創造しうる夢の塔が最大化された姿が、現代の街には散見されているということですね。

 私たちが「豊洲」という固有名で見ている街並みが、その同時代性を超えて、マクロな視点から「神話的なファンタジー」として立ち上がってくるように撮ってみようという試みです。もしも「豊洲神話」を撮れたなら、素晴らしいだろうと着想していました。

(C) 相原実貴・小学館/2019「ホットギミック」製作委員会

現実と虚像の境界を引き裂く「呼吸」

――山戸さんはほぼ毎回、異なる撮影監督と組んでいますね。『ホットギミック ガールミーツボーイ』の撮影監督は今村圭祐さんでしたが、撮影で印象に残っていることはありますか。

山戸 今村さんは同世代のカメラマンとして、すでに大作も手掛けられ、非常に高い力量を持つ方です(映画『帝一の國』ほか、多数のCM撮影を務める)。そんな今村さんと、機材準備のぎりぎりまで話し合い続けていたのが、カメラを何にするのかということでした。

 そして結果として、予算に対して最高画質のカメラ、あるいは普段から使い慣れている機材ではなく、制約の多い小さなカメラで撮り進めることになりました。ズームは使いづらく、アナモレンズも使えない、電子的な障害すら起こる可能性もあるようなカメラだったのですが、今村さんに懇願するような形で(笑)、使っていただきました。

――なぜそのカメラを山戸さんは使いたかったんでしょうか。

山戸 今村さんはとても力量がある方なので、たとえ本当に素晴らしいことが起こっていなかったとしても、とてもいいものが撮れてしまう。そうした「ファンタジー」へと向かうベクトルと、それに歯向かう「呼吸」として訴求するベクトル、その両義性をこそ求めていて、カメラという暴力装置によって、現実と虚像のあいだで引き裂かれる身体の「呼吸」というものがあるべき、だからこそより遠心力を持った「ファンタジー」の力が生まれる、と期待しました。

 つまり、実像が虚像へと転写されてゆく瞬間の連続に、致命的に引き裂かれてゆく在り方そのものを映す営みとしての「呼吸」が必要だと考えていました。

――小さいカメラを使うことで必然的に距離が近くなり、役者さんの「呼吸」を映しやすくなることなのでしょうか。

山戸 カメラを運用することにおける、ある種の労働を引き起こしやすい状況になっていたかと思います。カメラマン自身のタイミングと俳優自身のタイミングが、呼応し合う瞬間が一番強度が高い(映像になる)のではないかというのは理想であるが現実には起こりにくいものですが、結果的に、その遠回りを含めて使いこなしてくださり、見たことのない面白いルックが呼び起こされたと思います。

撮影における「デジタル的な身体」

――俳優さんの動きが今作も気になりました。前作の『溺れるナイフ』でも役者のセリフが多いのに、その身体自体もとてもよく動いていました。役者さんが動く動線などはどのように決めていらっしゃるのでしょうか。

山戸 率直には、現場で「どうしても動いてしまう」というか、俳優さんがそれこそ自律的に動いているかのように「動き出してしまう」もの、というのが素朴な実感としてはまずあります。ただカメラの前で緊張する・しない、という現実的な程度問題を前にしたら、自然に動くなどという事態もまた相対化されるはずです。

 ではなぜ「動いてしまう」「自然に動き出してしまう」というような温度が保たれているのか? そこには、デジタルの時代に顕在化しやすい「身体の弛緩性」が挙げられるかと思います。フィルムの時代であれば「この一回」という緊張が物理的には一旦高まりますが、デジタルの現場においては、カメラは、「回しっぱなし」にこれまた程度問題として近づきます。その場合、役者さんはずっと緊張しているんじゃないかという言葉を頂くこともあるのですが、それは違って、「弛緩」してくるのです。そのときの緊張状態(の度合い)は「役をどう見せるか、どう見られているか」という緊張ではなくて、せいぜい「役に耐え得る身体でいること」への集中という段階に落ちてくるものですね。

 カメラが回っていない場所でしか起きないような「乱れ」、それをカメラで捉えることを望んでいるんだと思いますね。『溺れるナイフ』も『ホットギミック ガールミーツボーイ』もロマンチック・ラブのお話なので、それと対になるような「乱れ」を撮りたいという要請がバランサーとして機能しているのだと考えています。お話上は「単一線」上をゆきながら、実際には身体上での「乱れ」によるノイズが、その一本道を許さない。綺麗な恋を望みながら、泥んこの女の子、髪くしゃくしゃの女の子が映っているという表象、その二つのレイヤーが響き合っている地平に現出する審美性がポイントなのだろうと思います。

――役者さんが自然に動いていくとのことですが、撮影前の打ち合わせはどのようにコミュニケーションを取っているんでしょうか。

山戸 形式的に段取りをするということよりも、カメラを中心にして、相互的に変容してゆく時間があります。そして基本的に終わりはないが、物理的に夜が来るので終わらざるを得ない。あえて強く明言すると、デジタル的な身体にかなり向かっているんでしょうね。

――デジタル的な身体というのは。

山戸 フィルム(で撮ること)の限界があると、事前にきちんと役者さんとお話して、その1回でトライして、ということが前提条件として要請されますね。デジタルだとその制限がフラットで、日常生活のリアリズムがより混入しやすい状態にあります。この視点にはもちろん功罪があることだと感じていますね。

――現場ではカメラを回しっぱなし、というお話がありましたが、明確なOKテイクは山戸さんのなかにあるのか、それともいくつかいいと思うものを撮って編集の段階で選んだりされているのでしょうか。

山戸 現場でモニターを見ている時のOK/NGの線引きに対する判断と、編集のときに良いと思う成果はほぼ変わりません。基本的には、ラストテイクが最も望ましい状態で編集に入っています。

――今回の『ホットギミック ガールミーツボーイ』では、脚本を山戸さんお一人で書いています。『溺れるナイフ』での井土紀州さんとの共同脚本と異なり、クライマックスの長セリフなど「山戸節」全開という印象です。今後も脚本は自分ひとりで書きたいという思いはありますか。

山戸    なにか、自分の言葉に辟易する意識というのは書き手としてはありますよね。全てのコマーシャルフィルムにせよ、ショートフィルムにせよ、文筆的なもの含め、自分の手で書き続けており……映画監督として言葉を書くよりも前、そもそも言語能力を習得してからずっと、自分の言葉に対するフレッシュな歓び、自由な感覚は掴めていないのかもしれません。

 他者による言葉をどこまでインプットしても、言葉をめぐる最終的な決定権は自分自身にあるという果てなき回帰性。自分自身の手で書くという行為自体の反復からは逃れられない。その自己限界が常に感知されながらもテクストを書くということの苦しみは、根深くありますね。自分自身は自分自身の言葉でしか、今ここで話すことが出来ないという人間の宿命性に、もうこりごりです(笑)。だから映画を撮りながら、その宿命をささやかに引き裂いてゆくことを構想します。

山戸結希(やまと・ゆうき)
……2012年、『あの娘が海辺で踊ってる』でデビュー。2016年、小松菜奈・菅田将暉W主演の長篇『溺れるナイフ』が60万人以上を動員。RADWIMPS、乃木坂46、Little Glee Monster、DAOKOらのミュージックビデオ、大手企業広告の映像ディレクションを手掛ける。2018年、企画・プロデュースを務めた『21世紀の女の子』が東京国際映画祭にて特別上映された。

〈公開情報〉

映画『ホットギミック ガールミーツボーイ』

監督・脚本:山戸結希
出演:堀未央奈 清水尋也 板垣瑞生/間宮祥太朗  
桜田ひより 上村海成 吉川愛 志磨遼平 黒沢あすか 高橋和也  
反町隆史 吉岡里帆

6月28日(金)公開 
原作:相原実貴「ホットギミック」(小学館「ベツコミ フラワーコミックス」刊)

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