山戸結希は青春映画の名手である。
それは彼女が監督する作品の多くが思春期を過ごす女子高校生を主人公としているから、という理由には尽きない。山戸作品の最初期において特に顕著にみられるモノローグが示すように、彼女たちは周囲の世界――田舎や地元への強烈な違和を心の裡に抱えていることが多い。
おそらく「青春」を生きることとは、今、目の前にある生活とその現実には収まりきらない過剰な自己意識を抱えて生きることに違いない。『あの娘が海辺で踊ってる』(2012年)では、主人公の舞子(加藤智子)はJ-POPを聴くことに夢中の同級生たちに突然食ってかかるような地元で浮いた存在として描かれる。やがて親友である菅原(上埜すみれ)が恋人を見つけて田舎に残ろうとすると、彼女は引き裂かれる思いを抱えながら東京を目指す。あるいは『おとぎ話みたい』(2014年)では、主人公・しほ(趣里)は自らが通う学校の教師である新見に「周囲で唯一ピナ・バウシュを知っている」という理由をきっかけに惹かれていく。彼女もまた物語が終わる頃には、自らの田舎を抜け出して上京することを決意するだろう。
「青春」の渦中にある者は、現実に順応した周囲の人間たちと同じようには生きることができない。なぜなら現実/生活のなかに生きることとは、「過剰な自己意識を封印すること」1によってしかありえないからだ。
だから、現実への強烈な違和を抱える主人公を描く山戸作品では、つねに理想と現実とのズレが物語を駆動していく2。彼女たちの多くは「ここではないどこか」(「田舎」を舞台とすることが多い山戸作品では、それは「東京」に仮託される)、あるいは憧れの相手――「理想的な他者」3を夢みて追い求める。
たとえば『あの娘が海辺で踊ってる』で舞子と母性に満ちた親友の菅原との関係は、どこかふつうの友情を超えた関係として描かれる(彼女たちはよく友達集団から離れ、二人だけの時間を持つ)。舞子は地元に残る決断をした親友のもとから離れ、最後には田舎である熱海から特急列車「おどり子」に乗って東京へと向かう。
あるいは東京帰りの新見に周囲の世界にはない魅力を感じたしほは、彼に「初恋」として思いを寄せる。しほの新見に対する過剰、かつ一方的な思慕はときに彼を困惑させるだろう(だが、相手に自らの理想を仮託しない初恋などあり得るだろうか)。やがて田舎にとどまる新見への愛憎半ばした離別として、彼女は上京を試みる(『おとぎ話みたい』)。『5つ数えれば君の夢』(2014年)では作中で上京が描かれることはないものの、さく(山邊未夢)は現実離れした「不浄」の存在として現れるりこ(新井ひとみ)に対して自らの理想を投影する4。一度都落ちしたティーンモデル・夏芽(小松菜奈)は、「神(絶対的な他者)」との近接を作中で繰り返し言及されるコウ(菅田将暉)に惹かれ、やがて再び東京に戻って芸能活動へと身を投じていく(『溺れるナイフ』2016年)。
山戸結希の作品ではここではないどこかとしての「東京」と、年若い時期に特有のものであるだろう「理想的な他者」という二つのモティーフが頻出する。そして、すでに見たように前者を選び取る代わりとして、後者の喪失を経験する物語になっていることが多い5。
しかし、大まかに考えれば、「上京」も「理想的な他者」もともに共通して通過儀礼的モティーフであるし、それゆえ作品に必然的に青春映画たることを要請するはずだ。目の前の現実に収まりきらない過剰な自己意識を抱え、やがてその理想を追うなかで葛藤を経験し、精神的成長を果たす――すぐれた青春映画の多くはこのプロットの例外ではないだろう。
「上京」は自らが育った土地や人間関係からの離別という試練を主人公に課し、その過程において内面的成長をもたらすものだ。「理想的な他者」とは、作家自ら述べるように「その幻想は離別という形で打ち砕かれるか、あるいは他者がその由来からしても不都合な他者として立ち現れ、到底直視できない、と同時に目を離すことも許されない」6という挫折や葛藤を避けざる形で主人公に与えるだろう。
だから、ここでわたしたちが問うべきことは次のようなことだ。主人公が理想を追い、その過程での挫折や成長を描くという「通過儀礼」の物語≒青春映画において、この作家はなぜ「上京」と「理想的な他者」というモティーフを二者択一のものとして描き分ける必要があったのか。確かにそのような説話構造を持つ作品が過去にないわけではない。だが、なぜ山戸結希はその選択を執拗に描き続けているのか――。
一つの作品解釈として作家の言葉に立ち返るとき、これら二つのモティーフは山戸結希のなかで決して「通過儀礼」的な意匠として一意にあつかわれているわけではないことがわかる。このことは彼女がジャンル映画の枠内に埋没せずにいること、あるいは後述する新作『ホットギミック ガールミーツボーイ』を観れば、それはほとんど明らかなことのように思える。
山戸結希は自ら描いてきたテーマについて次のように語る7。
『溺れるナイフ』にせよ『ホットギミック ガールミーツボーイ』にせよ、ひとつのすでに先行して存在するジャンルの映画――ロマンチック・ラブを撮るんだという意識は当然ありましたね。しかしそれと相反して、「性愛」のモチーフだけで120分を使い果たして良いのか、という回路も同じく見えていました(…)『溺れるナイフ』では、「自己実現」の問題が「性愛」と混在して肥大化していた状態から、「性愛」と「自己実現」にこそ引き裂かれてゆき、どちらかをより強固な形で選ばざるを得なかった物語と言えるかもしれません。(「」強調は筆者)
この言葉のなかで山戸が「性愛」と「自己実現」として切り分けているものは何だろうか。言及されている『溺れるナイフ』、あるいはたとえば『おとぎ話みたい』では、どちらもコウ/新見という異性への思慕(「性愛」)が物語を駆動する。彼らは彼女たちにとっての「理想的な他者」として登場するが、やがて離別するか、あるいは不都合な他者へと変化していく。
一方、「自己実現」のモティーフとして『溺れるナイフ』において描かれるのは、ふたたび芸能人として夢を追うことを選んだ夏芽による東京への「(再)上京」である(『おとぎ話みたい』のしほもまた田舎から東京を目指すことはすでに触れた)。ここで、わたしたちは山戸作品で変奏される「理想的な他者」と「上京」を巡るモティーフがそれぞれ「性愛」と「自己実現」とほとんど同義であることに気づくはずだ。そして「性愛」が「理想的な他者」に、「自己実現」が「上京」に対応するとしたとき、その両者のあいだに明瞭に境界線を引くこの作家の試みの特異性もまた同時に浮かび上がる。
山戸の峻別は通過儀礼のモティーフとして「上京」と「理想的な他者」を同一視することが一面的であることをわたしたち――いや、多くの男性観客たち――に気づかせる。「少年」が苦難を乗り越え、精神的成長を経て「自己実現」を果たす――。そのような男たちの通過儀礼(ビルディングス・ロマン)の物語において、理想の女性と結ばれること(「性愛」)は、ほとんど何の違和もなく接続されてきたといっていいだろう8。それは今でもどこかで「成功して金を稼ぎ、いい車に乗りいい女と付き合う」というステレオタイプの物語が再演されているだろうことを思えば想像に難くない。
しかし、多くの女性にとって「性愛(〔理想的な〕他者との関係の成就)」と「自己実現(上京、あるいは夢を追うこと)」は、決して継ぎ目という痛みなく結び付いた状態で獲得できるものではない。ひと昔前であれば他者(異性)との永続的な関係の成就はただちに自己実現の放棄を意味しただろうし、自己実現を追うにしてもそこにはつねに「女の子らしく」「妻らしく」「母親らしく」という抑圧がつきまとう。つまるところ山戸結希は「少女の」――作家の言葉を借りれば「女の子」の――青春映画を撮ることに対して、きわめて意識的だ。だから、「性愛」と「自己実現」をある種の対立系で捉えているこの作家は、単純に「青春映画の名手」であるのではない。そのフィルモグラフィには、「少女」を描くがゆえに要請されるイメージ群が貫通するようにスクリーンに立ち現れる。
「少女たちは傷つきながら、夢を見る」
通過儀礼の物語が、「少年」が挫折や苦難を乗り越えた末に内面的成長を果たすという説話構造を採るならば、山戸作品はそこで描かれる成長に「少女」ならではの屈折を導き入れている。冨塚亮平がつとに指摘しているように、彼女のフィルモグラフィにおいて「赤」のイメージは浄/不浄の対比を象徴的に示すイメージとして頻出する9。
たとえば『5つ数えれば君の夢』では5人の主要人物のうち、宇佐美(庄司芽生)は唯一男性との関係を暗示されるキャラクターだ。詳しくは後述に譲るが、思いを寄せる「高木くん」とのデートの帰り道、宇佐美は関係を迫られる。その後の展開は観客の想像に委ねられるが、宇佐美は物語終盤において「赤」いドレスを身に纏ってミスコンに参加する(図1)。一方、主人公「さく」の理想を仮託される「りこ」は純白のドレスで踊りを演舞する。
『溺れるナイフ』ではコウと恋に落ちる邂逅のシークエンスにおいて夏芽は真っ赤な門をくぐり、物語の開巻を告げる(図2)。やがて彼女はコウと恋に落ち、その理想は(一度は)崩れ去ることになる。物語が終幕に近づく頃、夏芽は再び東京を目指すようになるだろう。
初潮や処女喪失を連想させる「赤」のモティーフは、通過儀礼における成長・成熟という説話的機能のなかに不浄、あるいは穢れの意味合いを付帯させているようだ。この作家は「赤」を通じて、少女たちの成長のなかに潜む両義的なニュアンスを具現化する。
山戸が監督を務めたAimer「Ref:rain」のMV(2019年)では、あたかも『あの娘が海辺で踊ってる』の舞子と菅原のような(あるいは『5つ数えれば君の夢』の「さく」と「りこ」のような?)、二人の少女が登場する。彼女たちの背には途中から「赤」い翼が生えるようになり(図3)、やがて離別を思わせるように片方の少女(桜田ひより)の背からは翼が抜け落ち、もう一人(兎遊)はその翼を著しく成長させる。それは身体的な成熟を意味する一方で、何かを選び取ることと裏腹の喪失を同時に象徴しているように映る。
あるいは、NMB48「世界はどこまで青空なのか?」(2017年)MVでは、アイドルを目指す/なった後の荻野由佳を比較するかのような演出がなされる。まったく同一のラインを読み上げる対比的な二つのショットが終盤に配され、アイドルになった以後を思わせるショットでは不穏に「赤」いスカーフが風に揺れている(図4)。ここでは「アイドル」という存在が「理想的な他者」の変奏となり、それに憧れていた「以前」の荻野と、現実を知り傷ついた「以後」の荻野の姿が対比される。
山戸作品における「赤」は以前/以後を明快にまで区分し、その一回性を強調する点で、やはり多分に通過儀礼的である。ただし、その色はその通過儀礼が「少女」が経験するものであることを強調する。「自己実現」を果たすことと、「性愛」を成就させることを同時に獲得することがそう容易にはかなわない世界のなかで成熟することのアンビバレント。彼女たちは「上京」、あるいはやがて崩れ去るだろう「〔理想的な〕他者」のどちらかを選び取ることを迫られる。ひとまず山戸結希がこれまでに撮ってきた作品をそうまとめてみることは可能だろう。
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「上京」後の物語
山戸結希による新作『ホットギミック ガールミーツボーイ』はここまで挙げてきた山戸作品におけるいくつかの傾向を塗り替える作品だ。相原実貴による原作マンガ(『ホットギミック』)の映画化となる同作は、作中人物たちが住む社宅として東京・豊洲にある「東雲キャナルコート」が舞台に選ばれている。東京で進行する物語ゆえ、『ホットギミック ガールミーツボーイ』は必然的に「上京」のモティーフを欠く。
まず、同作において初(堀未央奈)が思いを寄せることになる相手は「複数化」している。物語序盤、初の幼馴染でありながら今は芸能界で活躍する梓(板垣瑞生)からの誘いもあり、二人は急速にその距離を詰める。その後、梓は初の父親に母親を奪われたことへの復讐のために近づいたことが明らかになり、初の「初恋」は早々に終わりを告げるだろう。つまり、これまでの山戸作品において一つの肝要であったはずの「理想的な他者」との成就を巡るカタルシスは同作において早々に失効してしまうのである。
その後、初は加虐趣味を持つ優等生・亮輝(清水尋也)や兄である凌(間宮祥太朗)、それぞれに接近しては離れていくという展開が続く。『ホットギミック ガールミーツボーイ』は「私の初恋は終わってしまったんだね」という初のセリフが示すように、「理想的な他者」が思い描いたような存在ではないことを知った「後」に続く物語である。だから、そこでは「初恋=理想的な他者」を巡るカタルシスが焦点化されることはなく、その後の展開にこそ作劇の重点は移っている。
通過儀礼はその前/後を明瞭に分かつ点できわめて一回性的である。理想は理想のままであり続けるか、あるいは幻想として崩れ去るかのどちらかしかありえない。初の相手となる男性は梓→亮輝→凌→…と複数の可能性に開かれていくことで、それぞれとの関係はそれ以前/それ以後という一回性、絶対性を帯びない。梓と付き合った後は同時に亮輝を好きになる以前であるし、亮輝からの離別は凌への接近を意味する。『ホットギミック ガールミーツボーイ』で描かれる恋の様相とはそのような代替可能性に満ちたものだ(「すぐに梓の代わりを見つけてしまうんでしょう?」)。
「初恋」以降の複数性への開かれは、同作における性的な接触に対する態度にも現れている。たとえば作品内に電車が象徴的な意味を伴って現れるシーンで、『5つ数えれば君の夢』と『ホットギミック ガールミーツボーイ』では対照的な違いを持つ。『5つ数えれば~』で唯一、男性との関係を暗示される宇佐美は、夜道を並んで歩くなか好意を寄せる少年から関係を迫られる。二人が近づくと、轟音とともに電車が画面外からインサートしてくる(図5)。ここで宇佐美は再三、相手からのアプローチを断るのだが、半ば強引に連れていかれてしまう。不穏な感情を掻き立てる轟音が響くこのワンショットは、多分に望まれざる接触として「穢れ」を観る者に想起させる(そのことはストーリー上、神聖な役割を負うりこが纏う純白のドレスと宇佐美が着る真紅のドレスという対比からも明らかだろう)。きわめて暴力的な電車の画面へのカットインが暗示するものはほとんど明白だ。
一方、『ホットギミック ガールミーツボーイ』にはこのシーンと相似をなす出色のショットが存在する。冒頭、亮輝に弱みを握られてしまう初は彼の奴隷としてふるまうよう要求され、ゆりかもめのホーム上でキスを迫られる。この長回しのショットはやがてホームへと侵入してきた電車に亮輝が飛び乗る直前、二人が唇を重ねる場面で終わる。『5つ数えれば~』では暴力的なニュアンスを帯びた男性との接触(唇を奪われる)が、このショットにおいて初は自らの行為によって亮輝とキスをすることを選び取る(「お前の意志はどこにあるんだ!」)。『5つ数えれば~』では受動的だった接触の主体が、ここでは結果的に初によって自ら獲得される。やがて電車の発着音が高揚感をいざなうだろう。直後にインサートされるタイトルクレジットが示すように、やはりこの物語は「その後」から始まるのである。だから、『ホットギミック ガールミーツボーイ』がその作品内に「赤」をほとんど必要としないことは必然といっていい。
「性愛」という点を取り上げる限り、山戸はこれまでの作品とまた違う境地を『ホットギミック ガールミーツボーイ』において切り開いている。先述したように、3人の男との関係性が描かれる同作において「初恋」というカタルシスは物語の中核をなさない。もはや初にとって最終的に結ばれる亮輝は「理想的な他者」ではないのである。その一方で対照的に理性的に描かれる亮輝が最後には「バカ」になり、初に対して「お前が俺の初恋なんだ」と宣言する。初と男たちの関係は彼女が望む限りで続くだろうし(「わたしがわたし自身を追いかけたいの」)、そうでなくなった場合にはただちに解消されるだろう。そこに描かれているのは前/後を分かつ通過儀礼的な「初恋」ではなく、今後も繰り返されるだろう恋愛の「過程」そのものだ。
このことは『ホットギミック ガールミーツボーイ』では「自己実現」が具体的なイメージを伴う形では描かれないことの理由の一つにもなっている。初は「性愛」において相手に妄信的な理想を賭けるのではなく、相手をその都度選び替えるという主体性を物語の最後に獲得する。クライマックスに用意された性急な発話シークエンス――山戸結希を山戸結希たらしめる徴である――で彼女はこう叫ぶ。
わたしの顔も、わたしの声も、わたしの手も、全部わたしのものだもん(…)これからボロボロになっても、シワシワになっても、もっともっと汚くなって……いつか誰からも求められなくなっても、わたしの身体はわたしのものだ
亮輝に「バカ」と言われ、「わからない」を連呼していた初は相手との関係を自分で構築する意志を示す。これまでの山戸作品で分かれざるをえなかった「性愛」と「自己実現」が、ここである形で共存する。相手に理想を仮託する(それゆえ成就か破滅しかない)「性愛」や、上京する/しないという二者択一の「自己実現」という一回性の物語系を『ホットギミック ガールミーツボーイ』は放棄する。
それゆえに「初恋・性愛(理想的な他者)」か「上京(自己実現)」かという二項対立もまた同作では顕現することはない。これまでの山戸作品が通過儀礼的モティーフが物語の核をなしていたとするならば、『ホットギミック ガールミーツボーイ』はそこから焦点をずらす。同作は東京で撮られなくてはならなかったのである。
山戸結希は青春映画の名手である。
ただし、その「青春映画」のなかに『ホットギミック ガールミーツボーイ』は含まれない。「青春映画」を単純に「初恋」や「上京」という夢を追う高校生の物語とみなすとき、あるいは「性愛」と「自己実現」との葛藤に苦しむ女子高生を描いた物語とみなすとき、同作は容易にはその枠内に収まることはない。主体性を獲得したその瞬間から、相手との関係性はつねに当事者によって選択され、更新を続ける「過程」になる。
物語終盤、初はもはや「理想的な他者」を追っていない。少女は男たちを「振り返らせる」。『ホットギミック ガールミーツボーイ』は通過儀礼としての「青春映画」や、あるいはこれまでの山戸作品への挑発的実践である。わたしたちはただちに次のように言い換えなければならない――。 『ホットギミック ガールミーツボーイ』は少女たちにとっての「もう一つの」青春映画である、と。
〈註〉
1 三浦雅士著『青春の終焉』(2001年、講談社)
2 山戸による作品がアイドルを被写体として捉えることが多い理由もまたこのことに起因するのかもしれない。アイドルもまた、ファンからの「理想」を投影される存在でありながら、同時にそれを演じる「現実」の人間でもあるという摩擦をつねに抱えている。
3「ポップカルチャーにしか救えないこと おとぎ話・有馬和樹×山戸結希」 CINRA.NET https://www.cinra.net/interview/201501-otogibanashi
4 批評家の富塚亮平は『ユリイカ』2019年7月号(特集 山戸結希 ―『おとぎ話みたい』『溺れるナイフ』『21世紀の女の子』『ホットギミック ガールミーツボーイ』へ)にて、りこの白と宇佐美の赤がそれぞれ「山戸の世界にあって浄/不浄を象徴する対立を構成する」と指摘している。
5 長編作品では『5つ数えれば君の夢』を除く。
6 「山戸結希インタビュー(『ホットギミック ガールミーツボーイ』):連載「新時代の映像作家たち」」 ヱクリヲWEB http://ecrito.fever.jp/20190710215841
7 前出 http://ecrito.fever.jp/20190710215841
8「ビルディングス・ロマン」という言葉の出自である教養小説の多くもまた男性を主人公としている。
9 『ユリイカ』2019年7月号(特集 山戸結希 ―『おとぎ話みたい』『溺れるナイフ』『21世紀の女の子』『ホットギミック ガールミーツボーイ』へ)2019年、青土社