レオス・カラックスの映画について考え続けた結果、必然的にそれは、彼の映画を形成する最も重要な、走ること、愛すること、そして映画についての思考になった。
まず、走ること。映画において、走ることは2つの運動を意味している。映画=カメラは、走る人自身を追いかけることで、画面そのものが疾走することになる。「汚れた血」の主人公は、踊るように、あるいはもがき苦しむように、デヴィッド・ボーイの「モダン・ラブ」に合わせて走る。そして走ることで、ドニ・ラヴァンだけでなく彼を追いかけるカメラによって、背景も壁から、道路、町へ、赤と白と黒のグラデーションを次々に塗り替えていく。あるいは「ポン・ヌフの恋人」では、橋の上を動く二人を追い続けることで、花火に彩られた画面そのものがダイナミックに運動する。それは、映画の動きでありながら、同時に彼らの心の運動そのものになっている。愛とは、動き続けること、留まってはいられないことなのだ。そしてそれも、ある目的に向かう移動ではない。がむしゃらに、身じろぎするように、静止した瞬間を拒むように常に動き続けなければならない。このことは、彼の映画の中でますます苛烈になっていく。
カラックスにおいて愛とは瞬間だ。「これから愛する」でも「既に愛した」でもない。それらは理念としての、未だ到達していない、既に通り過ぎた愛だ。しかしそうではなく、愛とはまさに只中の、その渦中の中でしか感得されないのだ。そのまさにただ中の激動は、しかし最も言葉から遠い。そのとき、映画と愛が劇場の下で手を取り、夜の街へと駆け出す。しかし、言葉からより遠ざかるような彼らのみじめな逃走。
ドニ・ラヴァンはどもりの天才だ。彼は本当に、見たことも聞いたこともない動きをする。それは目的に到達するまでの果てしのない遅延であり、到達の可能性の模索である。ドニ・ラヴァンは、全く回りくどいやり方=迂路を通って感情を伝える、そのためにあらわる尽きせぬ想像力を駆使する。それはしかし、珍奇さや芸術性を狙ったものではない。目的に簡単に到達することができない切実さの顕れなのである。
ドニ・ラヴァン、そしてジュリエット・ビノシュは、失語症、外国人、あるいはどもりの達人である。二人は、普通の人のようにただ言葉で愛を伝えることができない。人がどもるとき、言葉がここまで出てきているのに、喉が震え、身体は気持ちをつまらせて結界寸前になり、どもる人は、伝える言葉の内容ではなく、ただ純粋な「伝えたい」という感情を、必死の形相で伝えようとする。しかし我々はその様を異様で恐ろしいと感じる。我々はおはようとかさよならとか交わすとき、言葉に充満した怠惰な繰り返しの中で、表象=再現前を交換している。だからこそ、我々は身震いするように言葉を吐き出そうとする人に返す「言葉」がない。というよりせいぜい言葉しか返せないからこそ、彼らが伝えようとする感情に恥じらい、疎ましく感じる。身震いするように、絶叫するように投げかけられる、おはようの先にある「伝えたい」の感情に、一体どんな言葉を返せるというのか。そんな彼らに応えるには、こちらもどもるしかないのだろうか。しかし、ドニ・ラヴァンはその天才的な身じろぎによってそのどもりを表現する。
映画の中で、ドニ・ラヴァンは軽業師のような軽やかさで、あらゆる動きを、まるでそれが一回きりの身震いのように演じる。そのように身振りを取るのは、しかし恋人に対して限られている。恋人と愛を交わすために、突然絶叫したり、アクロバットに走り回り、腹話術や火吹き芸など、愉快で眼を疑うような奇術を披露する。それは、彼一流の吃り方であり、愛の表現なのだ。
カラックスの映画には、社会的に阻害された立場の人間がよく登場する。盲人、ルンペン、犯罪者、身体欠損者、少年達…。彼らは歩くことにも、話したり伝えたりすることにも苦労している。彼らには型がない。彼らはどもり続けている。だからこそ彼らはしばしば暴走して、暴力的にみじろぎする。伝えられることに自信がないからこそ、例え伝えられたとしても、なんども繰り返し「ねぇ、伝わった?」と聞き返してしまう。それはダサいのかもしれない。シティボーイが目配せで済ましてしまうところに、彼らは本当に長い時間をかけてしまう。
だが愛は、表層の交換ではない。実態のある何かを交換したり、契約によって互いを交換しあうのではない。愛とはそうではないはずだが、愛を語るには語り得るような痕跡をもって説明するしかない。カラックスの映画では、セックスがかなりあけすけに描かれているが、このセックスはがむしゃらで愛に満ちているようで、達成される目標への性急さ、そして絶頂を経た終わりはたやすく達成される。しかし、性を裏表なく描きながら、そこを到達点にせず、最後には冬の橋の下で抱き合ったり、下らないジョークで大笑いしたりする。そこには何の保証もない、恋人たちの笑いだけがある。
そしてだからこそ、カラックスの映画の美しさは、愛を伝えるために恋人たちが寒空の中で身じろぎをする、その瞬間瞬間に息づいている。愛と映画は動くことで始まり、始まったからには終わらなければならない。しかしだからこそ、恋は走り続ける瞬間の中に満ちていき、我々はそれをこそ、美しいと感じる。
横山祐
(第22回文学フリマ東京にて無料配布致しましたミニコミ『ヱクリコ』に収録した文章を再掲しています。)