Interview:チャーリー・ルッカー「NYアンダーグラウンドの叡知とその展開ーーブルックリンDIY・メリスマ歌唱・反ファシズム」


新作“Simple Answers”について 〜音楽と思想背景〜

――そして新作の『Simple Answers』ですが、自分の名前を冠した初めてのソロアルバムとなりますね。こちらは解散ができないですね(笑)。【参考動画(Ritual Fire, Puppet)】

CL 死に至るまでね(笑)。それは冗談とはいえある意味本当で、もう何かを解散するということはない。Seven Tearesは少しゆっくりしているけれどやるし、Psalm Zeroもやる。そしてソロプロジェクトももちろんやる。Psalm Zeroは僕が歌を作るけれど、コラボレーション的なバンドでバンド的なヴァイブを持っている。ギターと声中心のものだけどね。

――しかしソロプロジェクトは(今までとは)全く違います。

CL 「作曲家のアルバム」というアイディアがあって、その「作曲」にはクラシック音楽や現代音楽のような明確なイメージがあった。資金集めのためキックスターターキャンペーンをしてクラウドファンディングをして、弦楽器や管楽器、ブラス楽器、大編成のための音楽家を雇った。

――Tyondaiが新作に影響を与えたと聞いています。

CL 先ほど言った”Central Market”にインスパイアされ大編成の「クラシック」アンサンブルをやりたいと思った時に、金銭的運営的なレベルでどれほど難しいことだろうと戸惑っていたら、作曲にこだわった後で、実際的な次元をそのあとで考えれば良い、と僕を励ましてくれたんだ。最終的にクラウドファンディングでほとんど賄えたけれど、Tyは金銭的なことは音楽的なヴィジョンが完成してからでいいと言ってくれた。

――音楽的にどのようなものになりましたか?

CL 結果的に「クラシック音楽」とは遠いものとなり、それはそれで全然歓迎なんだけれども、歌もの的なものの周辺をめぐる、ヴォーカル作品となった。クラシック音楽じゃない、やばいweirdなオーケストラポップのレコードになったと言える。。しかしどのようなオーケストラポップよりも、編曲が相当変わっている。ソングライティングはポップに近いコード進行とコーラス、ヴァースの形式、だけれども、リゲティーやグリゼー、あるいはホラー映画のサウンドトラックのようなショックな、ノイズ的で、究極的に不協和な音にしている。
 全部で8曲あるこのアルバムは、そう見えるよりかは、特に政治的というわけではない。、端的にファシズムと言える、現在熱を集めているある種の暴力的なエネルギーの波を扱っている。ファシズムと言っても、特にネオナチだとか言うつもりはない。極右のようなイデオロギーでさえなく、それらの態度や感情、傾向を意味している。現在において全ては政治的なのだが、それがなぜだか自分にはわかる。政治に向かう人は、皆信念や主張やイデオロギーを持たねばならないと感じている。言葉ではなく、感情で、彼らは何を信じようか知らなければならない、と感じているんだ。このレコードはファシズムに向けて作った反ファシスト的レコードだ。だけど、これをあれをしろ、これが起きるべきだというわけではない。態度、感情、傾向を扱っている。

――つまりメッセージアルバムではない、と。

CL メッセージアルバムではない。より「自分のことをやっている自分」のアルバムだ。

――ならば、より音楽というか。

CL よりアートだね。新しいレコードでは、この種の「強者こそ正義」的な態度、そしてシンプルで絶対的な答えsimple absolute answersと向かい、全体性を希求する絶望的な乾きに対して作られている。そこには極右のエネルギーがある。特にトランプ(Donald Trump)のことだと言うつもりはないし、具体的な政治についてのことですらない。一般的にインターネット上で人がどのように感じているかについて、僕は語っている。右翼について多くのことを聞いたのだけれど、彼らには思考や言葉が世界を弱体化し分裂させるという、知性や思考に対する軽蔑があり、やがて世界を分断、分析することによって、人間を弱体化させると言う。力への崇拝、肉体への崇拝が超越的なものとなり、言葉、知性、思考、内省といったものを軽蔑する。そしてもちろんそれは反ユダヤ主義を煎りつける。人はユダヤ人を言語や法などと結びつけるのだが、それは多くのスケープゴートが生じた1930年代や40年代に実際に起きたファシズムと似ている。これがクリステヴァ(Julia Kristeva)から得た大半のアイディアで、またある程度はエーコ(Umberto Eco)から得た。

――コメディアンのPatrice O’Neal〔13〕のこともJulia Kristeva〔14〕と並んで言及してましたよね。その意図はなんでしょうか?

CL 確かに新作を語る際、フェミニスト/精神分析家のJulia Kristevaとアメリカ人コメディアンのPatrice O’Nealの影響についてはよく言及している。僕はスタンドアップコメディのファンで、彼は最高のコメディアンで大好きだ。
 それはジョークではないけれど、誇張ではあるかな。しかし彼の影響は歌詞の中にも出てくるし、よく彼のことを考えてきた。彼個人についてではないけど、彼のコメディは、たぶん自分が笑える中で、最も凶悪なものだ。しかしその可笑しさを否定することはできないし、認めている。その中で、女性嫌悪など、僕が信じないことに関する事柄もあることも否定できない。しかし彼が最も面白いやつだと思う事実を認めねばならない。だから、僕は正当にKristevaを評価すると同時に、Patriceのコメディについても考察しなければならない。それが内的な葛藤であって、自分はそれに付き合い、考えなくてはならない。Patriceだけじゃない。Bill Burr、初期のLouis CK。彼らは弱さや脆さに対する侮蔑がある。Patriceのコメディでおかしいことと言えば、首に大きな甲状腺腫があるやつを見て、その体の異様さを嫌悪する。これはまさにファシスト的なイデオロギーだ。しかし、それを彼は人間臭くて尤もらしいやり方で、笑いへと引き込む。それは笑いとしてよくできている。たぶん僕はダメなやつかもしれないけれど、そのことに対して正直にならなくてはいけない。
 そして、弱者への侮蔑と言語への不信は関連している。KristevaとPatrice O’Nealの2人は、言葉から意味が崩壊した、非—意味の虚無について語っているんだ。Kristevaのことで非常に僕にとって深いことは、そのアイディアを歌詞にもしたのだけれど、ファシズムに関する洞察だ。1冊の本としてテーマに掲げた訳でもないと思うけれど、至るところに出てくる。『恐怖の権力』では、ファシズムについて書いているけれど、そこではファシズムを言語の問題と、また母親の体と関連づける。ファシズムでは言語が弱体化することだけではなく、母胎へのノスタルジーの感覚がある。そこには、概念によって世界が分断される以前。言語によって分断される以前の全体性の場所がある。
 また彼女は憂鬱に関してもたくさん書いている。もし人々は本当に憂鬱に苦しむならば、自由に喋れなくもなるのだと。彼女はその現象と並行するファシズムの心理学について語っている。今作に同じタイトルの曲を作ったけれど、Kristevaの著作『黒い太陽』では、深刻な憂鬱が政治的右翼性を誘発すると言っている。左翼もTwitter上で自分たちの鬱についてツイートすることがあるけれども、本当の鬱とは、力そのものと同一化し、自分を消失することだ。このことは概念的なレベルや、また直感的で感情的なレベルで言っているのではない。憂鬱の状態に陥ったのなら、うまく喋ることもできなくなるのは、話すというアイディア自体が弱く、屈辱的で、知的で、ユダヤ的なものとみなされるからだ。そこには反ユダヤ主義の要素が結びついてくる。そこを標的としなければならない。 自分は半分ユダヤ人だからわかる。人が「攻撃的じゃない。全然大丈夫でしょ」と言って、最悪のことをすることを知っている。

――両親はユダヤ人なのですか。

CL 父がユダヤ人だね。そして両親とも精神分析をしているので2人ともユダヤ的だね。Kristevaは知性、思考、理性という概念に対するスケープゴートとして反ユダヤ主義を捉えていた。
 
ファシスト的考えの中では、言語や合理的思考の限界はユダヤ人のせいとなる。例えば12音階について君に聞かれた時、セリー主義は音楽的な共産主義だねと冗談めかして言った。人によると、それはユダヤ人による西洋古典の曲解であり、何かより本質なはずものに根を持たない、過度に知的なシステムだと言う。一方ファシストは血縁、土壌であるとか色々言うんだけれどね。だからこのアルバムは、僕が何者で何を気にしているかが分からなければ、誤解して受け取られるアルバムであると思う。しかし、僕の真意はどこにあるかは理解してもらえるのだと、人を信頼することにしている。これらのテーマを直線的に解説するのは難しい。なぜなら僕の中でそれらは内破し、連結しあってるからだ。読書をして、その中で個人的な経験の中に落とし込めて、考えたりしなくてはならないからね。いくつかの歌詞は、多義的に捉えられるようになっている。一部の歌詞はファシストの心理的、憂鬱と渇望を書いている。

――歌詞は多義的に捉えられる余地を作っているのですね。

CL 開かれた解釈をされたいし、また過度に説明することに億劫になったりはしない。僕がいくら話しても、 歌詞には曖昧さの力のようなものがあり、人は自分の問題として捉えることができるから。 メッセージアルバムではないけれども。全世界的に問題として政治的状態は僕にとって怖い。法律や政策の話ではなくて、文化的闘争について語っている。右翼と左翼の究極的な分裂だけが怖いのではなくて、極右が極左を、極左が極右を理解するより、まともに理解しているということだ。
 数人のメタルミュージシャンを除いて、僕の友達には非常に左翼的な人が多いのだが、彼らは「ファシズムや極右の思考過程を理解しうるならば、もうすでにお前はすでにその存在を認めているのだし、共謀関係にある」と言う。80年代のKristevaでさえそのような批判を受けた。その時ファシシズムが言語や母胎へのノスタルジー、憂鬱に関連付けて語ったとき、人々はファシズムは断固として人種差別である。ファシズムに関して何か考えているなら、もうすでにあなたがファシストである、と!
 知的に何かを理解しようとするならば、それらの思考がたとえ「悪」であっても自分の頭で複製して考えなくてはならない。何も「右翼にハグが必要だぜ」、なんて言ってるわけじゃない。彼らがハグを望んでいても病気なんだし、明らかにそのようなことはしない。特に反ユダヤ主義に対してはね。良いわけないし、嫌悪するけれど、人々の心の中でどのように作用するか、それを理解する必要がある。

――誤解があるかもしれませんが、私にはメタルキッズの多くは右翼に見えます。

CL 彼らは単に攻撃的になりたいがために、右翼的なことを口走ったりする。怖くもないし、誠実でもないね。尊敬しているメタルのミュージシャン達やバンドは、特にブラックメタルの人たちは、ノンポリだったり、政治が嫌いだったりするかもしれない。けれども、知性的でない形の、魔術的な力、精神的な力や生命的なエネルギーに囚われているね。
 
その意味で必ずしもファシズムではないけれどもニーチェが挙がるだろう。あと三島由紀夫は書いている内容から、極右に行くのが納得できるね。多くのものは特別に右翼と言うわけではないけれど、『太陽と鉄』はそれが見受けられる。驚くべきことに、作家であるにもかかわらず、言葉に対する不信がある。そして自己嫌悪。
 三島はボディービルディングに取り憑かれ、体が力と火の単なる場であると言う。そして自殺した。ユーモアのセンスがあれば、誰だってそれには笑えるだろう。ヒトラーは自殺して終わった。だから、誰かがナチであっても良いことはない、なぜなら結局勝利することさえもできないからだ。火は自分をも燃やしてしまう。三島は切腹という儀式性の中において死んだ。
 人々は弱さを感じると、力の概念に囚われるが、社会の弱さには気づかない。本当は脆くも弱くもない、ある種の特権的な人が、近代において失われた力を回復しようと言う思想にとらわれる。英雄主義や、全体性への希求。生、力への意志……それらは本当に危険だ。
 ユーモアのセンスがあるならば、戦士か何かになりたいとか、言語や思考がユダヤ人のみのものであるというアイディアそのものが、怖くておかしい。ユーモアを持たなくてはならない。僕はアルバムで他の人について言っているけれど、傷つけようと思って言っているわけじゃない。これは自分の問題であって、他の人にもなんらかの役に立てばな、と思っているわけだ。なんらかの治癒になれば、と思うよ。

――このアルバムに書いてある内容を、人が主体的に捉えるように仕向けたい、とのことですね。

CL そう願うよ。

――しかし治癒という概念にも、全体主義、母胎への回帰など、ある種の全体性への希求を感じませんか。実際に医学的、あるいは現実的には治癒はありうるし、必要かもしれないですが。

CL 良い質問だね。例えばDonald Trumpであれば壁を作ることが治癒だよね。精神分析は治療なのか、ユダヤ的神秘主義なんじゃないか? 現実的にいえば、トラウマ、そしてトラウマの治癒、そして精神分析にはなんらかの全体性というアイディアがあるのだろう。それをどれだけ厳格にするかなのでは。治癒が断片化を拒否して、全体性への帰還を意味するならば、そこに右翼的なものが入っていると言うのは面白いけれど、日常の場において、すべての右翼が精神分析されているわけではない。また、右翼は精神分析が好きじゃない。
 音楽と哲学を巡って考えるとき、音楽の役割は何だろうと考えるとき、バタイユの儀式的「越境」には興味がある。けれども前提として、「越境」的アートというコンセプトには興味がないし、「越境」そのものに価値を見出さない。しかし、歌詞を書くとき、境界のある聖なる場所をめがけて、facebookやtwitter上で、社会的にある程度まともな形で扱うことはある。「よし、ファシスト的なことを言おうぜ、それはタブーだからだ」と言うのは儀式的「越境」ではない、単なるバカのすることだ。自分の価値観から見て、自分自身の箇所におかしいところを見つけること、それが自分の考える「越境」だね。個人的境界を超えることだから。社会的な境界を侵犯するのではなく、自分についてこうである、と考えていることを超えることに興味がある。それが一種の答えと言えるかな。
 
治癒というとき、ある種のエネルギーを儀式的に行使し、悪魔祓いexcorcisingすることを僕は意味している。バタイユは前近代社会における人身供儀について語っている。暴力はタブーだけど、1年に1度子供の首を切断し、神殿に供える、そしてエネルギーを行使する。バタイユのように、子供の首を切流というような狂ったことではなく、僕はよりましな形で悪魔祓いexcorcisingしようと思う。そのために、凶暴、冷酷、非人間的、悪魔的な視点、思考、態度、エネルギーがこのアルバムにはあるんだ。個人的境界の儀式的越境――。

――最後に今後の予定をお聞かせください。また来日の予定はありますか?

CL もう新しい名前のプロジェクトは作らないつもり。夏はPsalm Zeroのレコーディングをする予定。あとはCharlie Looker名義でインストの曲、つまりヴォーカルなしで曲を作る予定だよ。ソロ楽器(フルートやコントラバス)とエレクトロニクスというような曲を作りたい。
  
日本にはPsalm Zeroでいずれ行きたいと思ってる。