写真批評の通路――『ヱクリヲ9』『パンのパン 03』写真特集〈合同〉刊行イベント 倉石信乃×松房子×きりとりめでる


「心霊写真」とインデックス性

倉石 写真のindexicalityを批判的に検証する際に、心霊写真に関する議論が必ず語られることが、私には興味深いところでもあり、少し距離感を持つところでもあります。おおざっぱにいって多くの人たち、写真論を特に意識しない人にとってみると、普通に写真というものの信憑性、あるいはオーセンティシティをさほどには疑わずにいるのではないか。写真がさしあたって事実に基づいていることを前提に、インスタグラムなどの写真を撮っていたりする人が大半であろうと思います。その常識的な判断の自然な流れには、どうも無視できないところがある。

 もちろん写真のインデックス性、写真が事実を証言することが神話だと断じることのために、「全ては心霊写真である」とあえて言うことも必要でしょう。ただ、それを言おうとするあまり、相当に不自然な論理のなかに入りこんで、何かを失ってしまう場合もあるように感じることがあります。だからと言って、それに対して別の新しい議論をこの場で示すのは難しい。こういう議論はゼミでもよくしているのですが、その都度違う言い方で言おうとするんだけど、うまく言えた試しがない。それをうまく、それこそいまどきの言葉でいえば、自分の考えを「再メディア化」できればいいんだけど、と思ったりもするわけです。

きりとり 『ヱクリヲvol.9』でも『パンのパン03』でも、「心霊写真」という単語が出ますね。「パンのパン」では、美術家の原田祐規へのインタビューで出てきます。原田さんは、岡崎乾二郎が80年代に言った「全てが心霊写真である」というテーゼを念頭に、ここ数年産廃業者が収集して困っている普通のカラー写真を膨大に引き受けています。そして、写真というものに対して心霊写真性を見出すという視点で引き取った写真を運用しています。

 原田さんの心霊写真性が何かといえば、その被写体も撮影者も誰かわからない写真に宿る不気味さだと思います。個人的には心霊写真性って、雑駁ですが、それは鑑賞者によるというか、その鑑賞者にとって誰が撮ったか/撮っていないかかがわからない状況だと思うんですね。先に述べった「撮っていないかもしれない」という写真に対する思考は、視覚文化の時代的な変容に根ざした質感だと思います。例えば森村泰昌は、2010年頃から、鑑賞者にとって、写真がアニメのように見られている(実写とは限らない)と指摘しました。写真から生々しさが消えた、という写真の在り方の変化を感じて、作品の提示方法を模索します。私もそれに同意で、90年代にマノヴィッチはデジタル写真は存在しない」と言いましたが、すべてが「デジタル写真」になったんだなと2015年頃思っていました。そうだったんですが、近作の原田さんの話を聞き、作品を見て、心霊写真と呼ばれる誰が撮ったかわからない・何が写ってるかわからない写真に対して生々しさをむしろ感じたということがあったんですね。

 例えばTwitterとかでコラ画像になっている女性とか男性とかがパッと出てきていて、それはもうコラ画像だから絶対合成されているし編集されているし、なんなら顔のパーツとかも部分部分で違うかもしれない。けれども、そこに強烈に、なんていうんですかね、誰かが存在しているっていうことを感じてしまったりとかするっていう、心理的な状態が生まれているなというふうに思ったりもしたんですね。それは全てが心霊写真になった後の揺れ動き・揺れ戻しみたいなのがあるなというふうに思ったんです。なので、心霊写真っていうものも多分、今こんだけみんなが言うので、もっと多分揺れ動いていって、それを書き留めたりしてくれるといいなと思っています。

 原田さんは展覧会をされた時に1万を超えるヴァナキュラー写真、捨てられていた写真も展覧会に出していました。原田さんはファウンドフォトが美談消費の対象になっていることに対して批判的に展覧会を組んでいたのですが、展覧会の中で、批判のためにファウンドフォトを使用すると、ファウンドフォト批判としては捻れるところがある訳です。それにしても、原田さんの作品を起点に、様々な人の思考がドライブしているなと思います。そういう意味で非常に豊かだなと。詳細は『パンのパン03』に載っているので、よかったら手に取ってください。

 

アーカイブ写真のこれから

 私は写真批評における「心霊写真」という言葉にあまり馴染みがないのですが、ファウンドフォトと「心霊写真」という言葉の結びつきは、各作家における恣意的なもののように感じます。たとえばドキュメンタリー映画でいうと、撮影者は意識的にも無意識的にも、あるアングルを大まかではあれ自ら決定し、その撮影時間に立ち合っているわけですよね。撮った人がいるというのも、写真や映像におけるインデックス性の担保の一つと思うのですが、そのことと「心霊」という言葉のイメージとにズレを感じてしまいます。

 休憩時間に倉石さんが、アーカイブ化されていく写真を再解釈したり現代に持ち出したりする行為について慎重になるべきだというお話をされていましたね。ファウンドフォトや、かなり昔に撮られた撮影者不詳の写真について、私たちはどのように接していくべきか、少しお話を伺えるでしょうか。

倉石 具体例を挙げた方が分かりやすいのですが、たとえば2、3年程前に東京都現代美術館で「キセイノセイキ」という展覧会がありました。その時に藤井光さんの作品で、東京大空襲を記録した写真などの資料を展示することができずに、資料のスペースは空白のまま、キャプションだけが展示されるというものがありました。不在を通じて検閲や政治的な圧力を暗示させる趣向なのでしょうが、アーカイブの資料を、作者の想像力によって操作して、それを自分の作品の要素に組み入れていくやり方だと思います。アーカイブの中に入っているドキュメントを参照したり、実際に引き出したりして、活用するということ自体については、もっと議論されてしかるべきであると思います。たとえば、クリスチャン・ボルタンスキーの場合、あのような演劇的なやり方で写真を「利用」することで、大量死を暗示してみせる手つきには、すでに異論もありますし私もそう思う。しかしアートの中ではドキュメントや証言を自作に利用する手法自体は、すでに一般化しているんですよね。

 もちろんアーカイブの中の資料を参照することが悪いわけではない。しかしまずは東京大空襲なら東京大空襲の写真そのものを検討すること、たとえば展示する努力をすべきであって、それが可能になったしかる後にそれに即して考えていく方がいい。それこそがまず共有されるべきであって、そこから始めるべきだと思う。さほど吟味することなく具体的な資料を不可視性の、あるいは表象不可能性の領域に転送して、さらには自分で作り上げた虚構のコンテクストの中に引き込んでいき、出来上がった産物を作品と称して消費していくようなやり方が、果たして良いのかということです。

 それより私は、作品化の手前にある、アーカイブの中に入っているドキュメントを検討することにはるかに関心がある。十分に検討した後で、それをどう語っていくかということが、次に始まることではないか。そうでないと、全てが悪いとはいいませんが、非常に機会主義的な、消費的なサイクルの中にドキュメントが入り込むことになるでしょう。ヴァナキュラー写真、あるいはファウンドフォトと呼ばれているものを扱う場合にも同じことが起こるわけです。

 よく問題になるのは、震災の時の写真を洗浄する、流出した写真を洗浄するというプロジェクトは、それ自体はとても重要なことだと思うんですけど、その退色した写真を別のコンテクストの中で展示して、良い感じに退色したものをみんなで新たな美的な、ある意味二次元の中で廃墟化した写真をみんなで共有して、楽しむ――楽しむと言うと言葉は悪いですけど――そういうことにはやっぱり抵抗がある。本来はおそらく名前を持った主体がシャッターを押しているもので、それはやっぱり心霊的なものであるより前に、個人がシャッターを押したことが紛れもない事実だというその前提が無いといけない――その後で写真の心霊的な憑依というようなことが俎上に昇ってくるということは、とても写真論的な意味があると思いますけど。誰かがシャッターを押したということ、あるいは押したか押さなかったかは分からないけど、写真がそこで生じたと捉えること、その辺の議論をこれからしていく必要がもしかしたらあるかなと思っています。

(了)

 

 

 

倉石信乃(くらいし・しの)
…明治大学教授。1998年重森弘淹写真評論賞、2011年日本写真協会賞学芸賞を受賞。主な著書に『スナップショット―写真の輝き』(2010年)、『反写真論』(1999年)、『失楽園 風景表現の近代 1870-1945』(共著、2004年)などがある。

松房子(まつ・ふさこ)
…武蔵野美術大学映像学科卒業。批評誌『ヱクリヲ』編集部。ヱクリヲWebに写真論考「ランドスケープとしての写真展――「トーマス・ルフ」、「ロスト・ヒューマン」展から」、「イコン写真家――篠山紀信考」などを発表。

きりとりめでる
…京都市立芸術大学大学院美術研究科芸術学修了。視聴覚文化の変容と伴走する美術作品をデジタル写真論の視点から 、研究、展覧会企画を行なっている。2017年に「渡邉朋也個展「 信頼と実績」」(artzone)。2016年に「フィットネス. | ftnss.show」(akibatamabi21)、「移転プレ事業 Open Diagram」(元崇仁小学校)など企画。2017年から美術系同人誌「パンのパン」を発行。著書に『インスタグラムと現代視覚文化論』(共編著, ビー・エヌ・エヌ新社, 2018年)がある。

〈註〉
1 2010年に鈴木理策、鷹野隆大、松江泰治と批評家の倉石信乃、清水穣らによる「写真分離派」が八足。2012年に共著『写真分離派宣言』が刊行された。
2グラーツに拠点を置く写真芸術財団「カメラオーストリア」は、写真プロジェクト「KEEP IN TOUCH: Positions in Japanese Photography」を企画開催した。ここでは、メインとなる日本の現代写真に焦点を当てた写真展のほか、関連する3つのシンポジウムが開催された。それらはいずれも、現在活躍している日本の若手写真家たちにスポットを当てており、パネリストは主に日本で活動する写真家や写真を専門分野とするキュレーター、批評家などにより構成された。
3『松江泰治 地名事典|gazetteerr』(2018年12月8日(土)〜2019年2月24日(日))。
素材や媒体固有の性質、本質を指す用語。
5R・E・クラウスとA・マイケルソンによって創刊された芸術批評/理論誌。
階調飛び。 画像描写でハイライト部からシャドー部までのなだらかな階調再現力がなくなり、部分的に境界ができて縞模様や帯のようなものが見えてしまう状態。 とくに空や人肌などの微妙なグラデーション部分で目立ちやすい。
ノズル(吐出口)から印字に必要な量のインク粒を対象物に吹き付ける方式。

ヱクリヲ vol.9 
特集Ⅰ「写真のメタモルフォーゼ」
清水穣インタビュー「メディウム・スペシフィシティの新しい幽霊」/写真の「可能態」を思考するためのアルケオロジー /写真論ノート from ボードレール to バッチェン/翻訳論文「光なきドローイング――ビデオゲームにおける写真のシミュレーション 」/寄稿:大山顕、久保友香、水野勝仁、松房子ほか
特集Ⅱ「アダム・ドライバー〈受動〉と〈受難の俳優〉」