清原惟による監督作品『わたしたちの家』(2017年、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻11期修了作品、配給:HEADZ)は、2017年PFFアワードグランプリ受賞、第68回ベルリン国際映画祭・フォーラム部門に正式出品など国内外で反響を呼んでいる。二つの世界が一つの作品の中に描かれるという、一見すると不思議な映画はどのようにして生まれたのか。あるいは、清原惟はなぜ複数の世界を描くことに強く惹かれているのか。『波』(2017年)、『ひとつのバガテル』(2015年)、『音日記』(2016年)などの過去作からの変遷、あるいはジャック・リヴェットやヴァージニア・ウルフへの偏愛、「音」に対する拘り、「パズル映画」と『わたしたちの家』との差異を聞いた――。
(聞き手・構成:伊藤元晴、松房子、山下研)
――ベルリン国際映画祭から帰ってきたばかりとのことですが、現地での反応はどうでしたか。
清原惟(以下、清原) 日本より活発な感じを受けましたね。会場からの質問だったり、終わった後に見知らぬ方が話しかけてくださったりとか。でも、聞かれること自体は日本と共通していて、「一つの家の中に女性しか住んでいない、男性が除外されている理由はなんでなのか」というものが多かったです。今年のベルリン国際映画祭は女性監督が受賞したり、全体を通じてジェンダー的な作品が多かったので、そういう関心を皆さんが共有していたのかもしれません。
――『わたしたちの家』と反転するように、『音日記』では男性同士の世界を描いていますね。男性/女性いずれにしても何かの境界を作り、それ以外を排除する作品が多いのはなぜでしょうか。
清原 「名前をつけられない関係」にすごく興味があるんです。男女だと、どうしても分かりやすく恋愛的なイメージが投影されてしまいがちなのでそれを避けたかった。『音日記』だと一口に友人とだけは言えないような親密な男性同士の関係、『わたしたちの家』では年の離れた女性同士や、親子の方も一般的な親子像じゃないのをやりたいなというのがあって、一人の女同士というような部分も含めて描いているかなと思います。だから、女性だけがいいということじゃなくて、いろんな共同体の形の一つとして描きました。
――『わたしたちの家』より『音日記』の方が、音の使い方が実験的だと感じました。『音日記』は音の世界と、視覚で見えているものの世界とで、それぞれ違うものが一つのスクリーンに合わさっているかのように思います。
清原 『音日記』はこっちの世界があって、他方であっちの世界があるという感覚が強い作品ですね。『わたしたちの家』は、あちら側とこちら側という関係ではなく、「どちらもこちら側である」というか、簡単にひっくり返せるみたいな感覚ですかね……。どちらにも視点があって、表/裏という関係が成立しないようなイメージです。
――『わたしたちの家』では複数の世界が断片的に描かれています。映画研究では時系列を断片化したり、並行して複数の世界を描くような作品を「パズル映画」と呼ぶようになっています。『レザボア・ドックス』(1992年、クエンティン・タランティーノ監督)、『メメント』(2000年、クリストファー・ノーラン監督)、『アモーレス・ペロス』(2000年、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督)などです。清原さんは『わたしたちの家』を「パズル映画」と呼ばれることについてどう思いますか。一般的に「パズル映画」は脚本上での試みという印象がありますが、清原さんの描く世界の複数性はそれと違うのでしょうか。
清原 「パズル映画」について詳しくないので、もしかしたら間違ってるかもしれないですけど、パズルと聞くと正解があるようなイメージを持ちました。細かく分析していけばどこかにオチがある、回答がどこかにあるというか。『わたしたちの家』が違うのは、詰めていっても端から崩れていく「完成しないパズル」のようなところでしょうか。そういう意味では似て非なる存在かもしれません。あと、「パズル映画」が脚本上の試みだとするなら『わたしたちの家』は脚本の段階ではどうなるか、誰も想像のつかない作品でした。まったく繋がらない二つの物語が、観ている人の頭の中で自然と繋がっていくような効果を狙っていたので、それは脚本というより実際に映像にならないと分からない部分での試みだったと思います。
――「複数の世界」があるという感覚は、なにか子供の頃の体験だったり、具体的な作品などに影響を受けているものなのでしょうか。
清原 いつからか、そうとしか思えないこと、直感的にそうとしか思えないことって、誰しもあると思うんです。わたしにとって、そのひとつが、この世界の構造でした。でも、それは漠然とした直感で、私以外の何かによって語られた時、これほど心強いことはありません。そういった意味で影響を受けた作品のひとつとして、(ヴァージニア・)ウルフや(マルグリット・)デュラスからのインスピレーションは大きいかもしれない。ウルフの『波』(1931年、The Waves)という作品では、主人公が複数人いて、その心の内だけが書かれていて客観的な情報というものがないんです。つまり登場人物の形成が、他者の眼を通して行われるということです。それは、観測者の数だけ世界が存在しているようにも見えます。今回、『わたしたちの家』で取り扱った世界モデルそのものではありませんが、個人の視点に留まらない世界モデルとして、影響を受けたものであると思います。
――小説というジャンルは清原さんにとって大きな存在ですか。
清原 大きいですね。決定的に映画でできないことができるジャンルだと思います。だから、すごくうらやましいと同時に、もしこれを映画でできたらすごいよなって思いますね。だから、ウルフの映像化はすごくやりたいです。『わたしたちの家』をつくっていたときもウルフの存在が念頭にはありました。映画は人の心の内を直接描くことはできないですが、小説にはできる。ウルフの『波』は人の心の内側しか書いてない小説なので、もう完全に映画と真逆のことをやっているんですが、でもそれを映像で実現できたら絶対にすごいことになるんじゃないかと。それにウルフが描こうとしている世界への感覚には、とても親近感があるんです。
――清原さんは過去のインタビューで、好きな映画監督にジャック・リヴェットを挙げられていますね。『アウト・ワン』(1971年)に登場する劇団のように、架空の組織を介して現実世界のこちら側とあちら側を見立てるようなフィクションの構造はリヴェット作品に共通の特徴かと思います。そういった設定に共感することはありますか。『アウト・ワン』(1971年)に登場する登場人物たちのように、架空の組織を介して複数の立場や世界を立ち上げるなど、リヴェット作品の構造に共感することはありますか。
清原 『アウト・ワン』大好きですね。素晴らしい作品だと思います。リヴェットにもすごく影響を受けていますし、あちら側とこちら側が入れ替わってしまうような感覚って本当にリヴェット映画のすごい特徴でもありますよね。一番初めて観たのが、多分高校生のときにTSUTAYAで借りた『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974年)なんですが、夢の中の世界だと思ったものが、実は現実なんじゃないかという感覚にすごく共感します。
――『わたしたちの家』は、清原さんの中では全てが繋がっているのを、あえて断片的に提示しているんでしょうか。それとも清原さん自身も判然としないまま撮っている部分があるのでしょうか。
清原 自分の中では決めているのを意図的に隠している部分と、全然自分でも決まってない部分とが混在している感じです。ただ二つの物語の関連性――どこが似ていて、どこが違うのか――は、脚本の段階で細かく組み立てていました。時系列もちゃんと表を作って、セリがこうしているときはサナはこうだなと考えていました(笑)。でもそれが映像としてどう立ち上がってくるかは、脚本を書いている段階ではわかりませんでした。
――『わたしたちの家』で印象的だったのは、家の中での移動を捉えた長回しを――横に曲がったり、上下の角度がつけるなど――とても立体的に撮っていたシーンです。これまでに見たことのない映像感覚だと思ったんですが、清原さんは複数スクリーンなど新しいメディア環境に興味はありますか。それこそパラレルワールドは複数スクリーンの方が描きやすいかもしれません。
清原 興味ありますね。『わたしたちの家』は本当のことをいえば、二つの物語が時間軸的に同時に進んでいったらいいなという気持ちがありました。それが物理的にできないからああいう編集にしたので、もし一度に複数のものを知覚できるようなメディアが生まれたら、そういうものもやってみたいなと思いますね。あとは、インスタレーションのような展示環境だったら体を動かすことができるじゃないですか。だからアート的な映像作品だったらマルチスクリーンっていうのはやってみたいアイデアではありますね。
――逆に清原さんがアートではなく映画を選んだ理由はあるのでしょうか。映画じゃないとできないことを作っているときに実感することはありますか。
清原 現場に入っているときに一番感じます。現場で撮っていくうちに、脚本や自分の頭の中で想像していたものとは全然違うものになるという、そのプロセス自体がすごく面白いなと思っていて。映画の撮影現場ってちょっと特殊な場所じゃないですか。その特殊な撮影現場は自分自身のアイデアを広げていくために、すごく重要なんです。
――『わたしたちの家』では手持ちのショットも多用しているように思います。それは作品のテーマと関連していたりするのでしょうか。
清原 そうですね……これまでの私の作品は基本的に固定のショットがメインでした。『わたしたちの家』全体を通してみると、それでもフィックスのショットが多いとは思います。手持ちになっているところは、気持ちのぐらつきとかざわめきがあるシーンだと思っていて、はじめてサナと透子が歌を歌っているシーンでは、はっきりと心の変化が映っているシーンなので手持ちで撮っています。セリがクリスマス・ツリーを置くところも同じく心が動くシーンなので、それ以外の客観的な固定ショットとは違うように手持ちで撮りました。
――ご自分でカメラを回すことにこだわりはあるんでしょうか。『ひとつのバガテル』など清原さんが撮影をしている過去作もあります。
清原 『ひとつのバガテル』は武蔵美にいるときの作品ですが、そのときは撮影を自分でやることが大事なことだと思っていたんです。でも藝大に入って以降、『わたしたちの家』で撮影を他の方に任せてみて、「こっちの方がいいな」と思いました。自分で撮るのも好きなんですけど、カメラに集中し過ぎてしまうところがあって。
――清原さんは建物への関心はあるのでしょうか。『わたしたちの家』では家、『ひとつのバガテル』では団地がそれぞれ作品上で大きな存在感を持っていました。
清原 建築って芸術の中で一番大きなものじゃないですか。人が物理的に中に入れる作品って他にあまりないと思うんです。中に入る感覚、包まれる感覚ってすごく不思議なものだと感じるんです。唯一あるとしたら、音楽にはその包まれる感覚があるかもしれません。
――包まれるような音響を意識して作品に取り込まれたことはありますか。
清原 それは意識しています。『わたしたちの家』は5.1chなんですが、包まれるような音響設計を意識していました。家の中にいる感覚を狙っていたんですが、でもこの作品は観る人が完全に世界観に入っていくような映画ではないという部分もあります。あちら側/こちら側という線引きを観ている人がぜざるをえないというか。だから過去のインタビューで観客席を「三つ目の世界」と呼んだんです。自分たちの世界が「ある」ように、スクリーンの中にもセリやサナの世界が「ある」という感覚が私の中では重要でした。
――清原さんは生活音の使い方がとても印象的のように思います。それは撮影に入る前、ロケーションを選んでいるときに得るアイデアなのでしょうか。
清原 撮影前はほとんどないかもしれないです。撮影中もあまり余裕がなくて現場で音のチェックはしないので、撮影した後の方が多いですね。現場にあった音とかを使っていることが多くて、特に『わたしたちの家』はあの場所の音がメインになっています。普通の映画よりもそういう外のノイズとかを積極的に取り入れてるところはあります。
――『ひとつのバガテル』は音のメロディを重視されていますね。生活音というよりは、きちんと口ずさめるものやクラシックの曲がBGMのようにずっと流れています。
清原 ベートヴェンの『6つのバガテル』(1823年)という曲をメインテーマ、作品の主題曲として設定したので、音楽が必然的にすごく増えました。主人公も音楽をやっているという音楽映画ですけど、その一方で私は生活音と音楽みたいなものをあまり区別してないんです。どこからが「音楽」で、どこからが「音」なのか、線引きってすごく難しいと思いますし、昔好きでよく聴いてた音楽もその境界が曖昧なものでした。ノイズやドローン、アンビエントとか武蔵美の授業で佐々木敦さんが取り上げていたような音楽がすごく好きで。灰野敬二さんやASUNAさんとか。以前は日常的に移動している時、イヤフォンで音楽を必ず聴いていました。でもノイズのライブに行ったとき、あまりの爆音で耳が聞こえにくくなり、イヤフォンで音楽を聞くのをお医者さんに止められました。それで、イヤフォンなしで仕方なく電車に乗っていたら、電車の連結部分の音なのか、とてもきれいなアンビエント的な音が聴こえてきて……。日常に溢れる音も音楽として聴くことができると気がついたんです。その瞬間にジョン・ケージの思想が理屈だけじゃなくて体感的に理解できたと思いました。
――「音はフィルターを通さずに人に作用する」ということを清原さんは過去のインタビューで語っています。音の演出で特に興味深いと思ったのですが、『波』です。『波』は基本的に無音で作品が展開していって、男が女性から笛を奪って吹くと、世界のあらゆる音が前景化してくる。一種の音が人に作用する暴力性、直接性のように感じたんですが、あの作品での音響設計は何を考えていたのでしょうか。
清原 『波』は「音の生まれた瞬間」というか、「音の誕生」を描きたかったんです。すごく象徴的というか神話的な作品です。それは包み込むというよりかは、生まれたてのエネルギーを表したかったんです。赤ちゃんの泣き声、産声も聞く人によっては暴力的かもしれないですが、それとも似たものかもしれないですね。
――『ひとつのバガテル』で印象的だったのは、おばあさんが登場するときにどこかから出てくるのではなく、ショットが切り替わったらいきなりそこにいるという冒頭の場面です。作中人物の精神的なイメージのように撮られていて、清原さんの映画では背景と人との区別がそれほどついていないこともあって、人間が映ることを特別視されていないのではと思いました。
清原 そうかもしれないですね。『わたしたちの家』がポリフォニーだとしたら、『ひとつのバガテル』はモノフォニーな映画なんです。主人公の主観的なものしか写ってないような映画で、だから突然人が現れてくるシーンがそう見えたのも不思議じゃないです。急に人が出てくるのは前からそうで、『暁の石』(2014年)でもすごい広い沼に女の子が一人いて、もう一人の女の子が急にフレームインしてくるというシーンがあるんです。それを人に見せたとき、「映画の基礎がわかってない」と怒られたことがありますね(笑)。
――清原さんが意識されている同世代の監督はいらっしゃいますか。
清原 その質問は難しいですね……藝大での同期になりますが、『みちていく』(2014年)という作品を撮った竹内里紗さん、あと竹林(宏之)くんは監督として自分とは全くかけ離れたことをやってるけど、それぞれに新しいことを考えてるような2人なので今後も楽しみにしてます。あと同世代ではないですけど、ベルリンで観たホン・サンスの新作(『GRASS』2017年)には刺激を受けました。すごくいい雰囲気の音楽がかかる中、男女が喫茶店で話し込んだりしているっていう古典的なムードの映画なんですが、やっていることがすごく新しくて。これまでの映画の歴史への意識みたいなものをとても感じる一方で、同時に見たことのない映画の形式に挑戦していて、それが自分もやりたいものにも近かったんです。いろいろなカップルの話が交互に出てきて、しかもそれが同じ場所で行われていたりするんです。それでカメラが振られると、急にそっちの話になったり、どんどんどんどん目移りしていくように物語が進むんです。古典的なムードなんだけど、そのまま一直線に進んでいくわけではなく、複数の違う映画に切り替わっていく感覚。でも、観終わってみると、なんだかまとまりになっているような感じもする。全体としてそれぞれが観た人の頭の中で連絡されるところがあって、とてもいい映画でしたね。
――『わたしたちの家』で上手くできなかったこと、今後やりたいことはありますか。
清原 できたことは複数の世界を対等に存在させること、それを一つの作品として観てもらえたことですね。できなかったことは……それぞれの話をもっと濃密に長く描きたかったという気持ちはあります。二分割すると、やはりそれぞれの話が薄くなってしまう部分があるので。本当はどちらか一つでも一個の作品として成立するくらいのものが、二つあわさっている映画を撮ってみたいです。登場人物を増やすことにも興味があって、『わたしたちの家』も最初は三人の世界を考えていました。今回は「家」を舞台に異なる話が展開される作品でしたけど、次はまた違ったやり方で異なる話が一つの作品になっているものを作ってみたいです。
――今後撮ってみたいジャンルがあれば教えてください。
清原 ミュージカルは予算が手に入ったらいつか撮りたいです。『雨に唄えば』『巴里のアメリカ人』とか、しっかりセットを組んだ古典的なミュージカルが好きなんです。『ラ・ラ・ランド』でオマージュされていましたけど、それをもっと大掛かりなセットを組んでやりたいです(笑)。
清原惟(きよはら・ゆい)
……1992年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学映像学科卒業、東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻監督領域修了。黒沢清監督、諏訪敦彦監督に師事する。東京藝術大学大学院の修了制作として撮影した初長編作品『わたしたちの家』がぴあフィルムフェスティバル2017でグランプリを受賞。
<作品情報>
『わたしたちの家』
2017年/80分/アメリカンビスタ/5.1ch/カラー/DCP/東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了作品
監督:清原惟
出演:河西和香 安野由記子 大沢まりを 藤原芽生 菊沢将憲 古屋利雄 吉田明花音 北村海歩 平川玲奈 大石貴也 小田篤 律子 伏見陵 タカラマハヤ
脚本:清原惟 加藤法子
プロデューサー:池本凌太郎 佐野大
撮影:千田瞭太
照明:諸橋和希
美術:加藤瑶子
衣装:青木悠里
サウンドデザイン:伊藤泰信、三好悠介
編集:Kambaraliev Janybek
助監督:廣田耕平 山本英 川上知来
音楽:杉本佳一
公式サイトhttp://www.faderbyheadz.com/ourhouse.html
◆『音と次元のフレームアウト――清原惟論』(伊藤元晴)はこちらから
◆連載【新時代の映像作家たち】
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