小森はるかインタビュー(『空に聞く』):連載「新時代の映像作家たち」


「ロビンソン・クルーソーのようにも、ドン・キホーテのようにも」1というフレーズは、『息の跡』(2016)を見た者にはとりわけ連想のしやすいイメージだろう。震災後の陸前高田に移住した若いアーティスト小森はるかは、自らの被災体験を忘れまいとする「佐藤たね屋」の主人佐藤貞一さんの活動をヒロイックなドキュメントとして撮り上げた。以来、小森は瀬尾夏美との共作も含めて一貫して「何か」が思い出される瞬間のドキュメントを撮り続けた。陸前高田で災害FMを通じて被災者の生活を記録し続けたラジオパーソナリティー阿部裕美さんの活動を追いかけた新作『空に聞く』(2018)、瀬尾との共作『二重のまち/交代地のうたを編む』(2019)でも一層濃密な記憶と土地を巡るドキュメンタリーを製作し続ける彼女に話を聞いた。(聴き手・構成:伊藤元晴、山下研、若林良)

「空に聞く」(2018)愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品 ©Komori Haruka

東北に住みながら制作する

――今日は新作『空に聞く』について伺わせてください。以前のインタビューで『息の跡』を作っているときは、当時、被災地でもある陸前高田のお蕎麦屋さんで働いていた現実の生活と作品とが密接に結びついていると語られていました。今回の『空に聞く』の着想段階ではどのような暮らしをされていたんでしょうか。

小森はるか(以下、小森)  『空に聞く』の完成は2018年なんですけど、撮影時期はほとんど『息の跡』と同じなんです。『息の跡』の佐藤さんも『空に聞く』の阿部(裕美)さんも、お蕎麦屋さんで働きながら休みの日に撮らせてもらいました。『息の跡』は最初、佐藤貞一さん一人の映画にするつもりはなかったんですね。阿部さんと佐藤さん以外にも撮らせてもらっていた方が何人かいて、陸前高田に暮らす人たちの記録をまとめて『息の跡』っていう作品にしようとしていたんです。ですが、アルバイトとか生活で自分がいっぱいいっぱいになってしまって、情けない話ですが結局撮影を続けられたのはお二人だけだったんです。

お二人が作品の中心人物になった時に、一つの映画の中で対比するように描きたくはないと思って、それぞれに形にしたいと思い最初に佐藤さんの作品が完成しました。阿部さんの記録もいつか形にしたいと思っていたんですけど、撮影の終わりを決められないでいたんです。節目というか、どこで撮り終えるかというのが見えない状況が続いていました。

佐藤さんの場合はお店の解体が撮影の最後になったのですが、自分の中でも撮り終わった時に、「これで終わりなんだ」という気持ちがあったんですよ。阿部さんの方ではまだそれが見つからなくて、断続的に撮影させてもらっていました。

――撮影の期間は1〜2年でしょうか。

小森 撮影期間は2013年1月〜2018年9月までなので5年半ほどかかっています。ただ、阿部さんが(陸前高田)災害FMに勤めていた期間というのは、2011年から2015年の4月までだったんですね。私も2015年の3月まで陸前高田にいたので、撮影したのは主にその2年半ほどになります。

阿部さんは災害FMを離れた後、災害公営住宅の交流スペースで常駐スタッフとしてお仕事されるようになって、ラジオではないんですけど、街の人たちの話を聞くっていうことはずっと続けていらっしゃって。他にも「陸前高田昔語りの会」っていう、おじいさんおばあさんに子供の頃からの街の思い出話を、みんなで聞かせてもらう会を市内の喫茶店で開かれていたりもして。ラジオを通してされていたことを、形を変えながら続けていらっしゃって、災害FMを離れられた後の阿部さんの活動も記録したいと、時々ですが仙台に移ってからも撮影を続けていたんです。

――本編中には、黙祷のアナウンスを録音するのはどうかと別の放送局から言われて反対するというエピソードがあったかとも思うんですが、阿部さん自身が独自の強い方針や意志を持って活動していることが作品の核心でもあったように思いました。

小森 そうですね。阿部さんともうお一人のスタッフの方が中心になって作られた陸前高田災害FMならではの番組がいくつもありました。障害のある人たちによる番組だったり、中国から嫁がれた方たちが中国語だけで話す番組とか、地域の中でなかなか表立って声を発する機会の少ない人たちが主体となる番組を次から次に作っていかれました。地元でも全国的にも注目されていました。2015年に番組が終わることになったときには、なんとかして阿部さんがやってきたことを残したいという思いはありましたね。けれどそれでもなかなか形にするまでは至らなかったんです。

――小森さんが陸前高田を離れて仙台に移ったのには、なにか理由があるんでしょうか。

小森 陸前高田に3年住むうちに、ほとんど住民の方たちと同じような気持ちで、現実を見るようになってきていました。復興工事がはじまったときに、住民の方たちが複雑な気持ちを抱えていらっしゃって、それ(工事)は自分自身にとってもなかなか受け入れられるものではなかったんです。冷静に街の変化を見ることができなくなっていたところがありました。客観的に記録することが難しくなっていって。それで距離を取ろうと思って仙台に引っ越したんです。すごく親密なんだけど、住民でもなければ、完全によそ者でもない距離をとることが、陸前高田という街と長く関わっていくために必要なんだと気付きました。

――作品のために、撮る対象と一定の距離を保つことを意識されているんですね。近付きすぎてはいけない、という感覚があるんでしょうか。

小森 そうですね。(陸前高田を)離れてからの方が町の人たちとの関係性は、むしろ近くなったような気がします。「なにがしたくて私たちは陸前高田にいたのか」ということが、離れたことで町の人により伝わったという気がするんです。記録を残したいとか作品をつくろうとしていることが分かってもらえたし、自分の中でもそれをやりたくて来たんだってはっきりしました。今までは町に住んでいる学生でしかなかったのが、撮る/撮られることを介しての協働関係が生まれていったように思います。

『空に聞く』でも阿部さんが「小森さんが撮ってくれるんじゃないか」と仕向けてくれた場面もあると思います。阿部さんの方がディレクターで、私がカメラマンになっているときもあるんです。

表現者の「声」を撮る

――作品の中で被写体になる方の「声」というのは重要な役割を担っているように見えるのですが、監督にとって「声」とはどういうものなのでしょうか。

小森 その人を撮りたい、魅力的だなと思う大きな部分に、声があると思っています。佐藤さんを撮りたいと思ったときも、英文手記を朗読する声を聞いたときに一番強くそう感じました。その声がどこに向けて発せられているかわからないけど、本当に祈りのような、呪文のような、でも自分のために読んでいる――言葉の意味だけではなく、声自体に思いを伝える力があって、魅力的だと思いました。(『空に聞く』の)阿部さんも、話を聞いているときの相づちとかその受け答えから、阿部さんの優しさが感じられるんですよね。声質なのかな。声は誰でも持っている表現の手段というか、その人自身が現れる媒体というか、そういうところに魅かれるというのはありますね。

――これに関連して声と目に見えないことについてのこだわりを伺いたいんですが、『波のした、土のうえ』(瀬尾との共同作品)であったようなナレーションのような演出の効果にどのような手応えを持っていますか。

小森 言葉にしないと”見えないもの”が”見えていない”ことがわからないというか、『波のした、土のうえ』にしてもそれが津波の後の風景なのか、もともと草原だったのか説明されなければよくわからないですよね。私たち自身も陸前高田に暮らして、話を聞いてやっと、見えてはいないけれどその地面の上に失われたものがあって、みなさんが記憶の拠り所として大事にされていることに気づいたわけなんですよね。私たちには見えないけど、陸前高田の人たちには見えているものというのがたくさんあって、それをどうやって残したらいいのかはずっと二人とも考えていたと思います。

『波のした、土のうえ』では、瀬尾が陸前高田の人から聞いた話を一人称語りのテキストとして綴り、ご本人に朗読してもらいました。その声と、私が撮っていた風景やその人が写っている断片的な映像を重ねるようなつくりになっています。でも、声はナレーションとして映像を説明しているわけじゃないんです。声と映像は重なっているけれど全く別物の記録としてあって。それによって声と今の風景との間にある時間が表せるんじゃないかという思いがありました。

――「間」にある時間というのは、話している人の記憶になるんでしょうか。

小森 話している人の記憶というわけではないんですが、震災前の時間も、その後も、今も含めていろんな時間の層が一つの画面にあって、それがただ見ているだけではわからないけれど、語りと風景で浮き上がってくるというか。そうすることで、震災によってできてしまった、埋めることのできない「間」を見せられるという気がしたんですよ。この作品では語りと映像の時間軸が同期したりずれたりするんですけど、映像で映っていることと同じ出来事がナレーション的に語られると違和感があるかなと編集する前は不安だったんですね。すごく不思議だったのは、その違和感が『波のした、土のうえ』では起きなかったんですよね。同じ出来事を描写する語りと映像なのに、時間的にも空間的にもそこに「間」が生まれているように感じました。

その理由はあの語り――あの声にあったと思うんです。自分にまつわる話をご本人が読んでいるけど、すごく「距離」のある声だったんです。自分の話を語るように読んでいない、まさに「テキスト」として読んでいる声だった。テキストのなかには「私が」という言葉も入っているんですけど、そこに自分自身の感情を重ねて読むのではなく、むしろ一歩ひいて「私たち」というか、別の誰かのことを話しているかのように読んでくれたんですね。

「息の跡」(2016)©Kasama Film + Komori Haruka

「聞き手」が作品に現れる

――小森さんがこれまで撮ってきた作品では、小森さん自身の声が入るのも印象的です。小森さんの声が入ることで、佐藤さんや阿部さんといったインタビュイーの方と小森さんの関係性を意識させますし、それは一種の緊張関係でもあります。その関係性のなかで作品が進んでいくと同時に、それがまた変化していくのだろうと観客に思わせるところがあります。ご自身の声を残しているのはなぜなんでしょうか。

小森 撮影時に意図して自分の声を入れようとか、被写体となる方との関係性を示そうと考えているわけではないんです。一対一で向き合っているので、カメラで撮ることと話を聞くということを同時にやるしかなくて。それを(編集のときに)排除するかどうかなんですが、編集前には(自分の)声を取っても成立すると思っていました。でもいざやってみたら無理だなと感じたんです。インタビューではなく私に向かって話してくれた話なんですよね。「聞いていた私」の存在を消す必要はあまりないなと後から思うようになりました。

濱口(竜介)さんの影響もあるかもしれません。濱口さんは『うたうひと』(2013年、酒井耕と共同監督)で、民話を語る人だけでなく、聞く人に焦点を当てて映画を撮られていて、すごく大事なことだと思いました。自分のことを「話を聞く人」として表に出したいということではないんですが、その存在を消して、話だけを切り取ることは佐藤さんや阿部さんに対しても失礼なことなんだと思ったんです。

――聞いている人の声が入ることで「聞いている/聞かれている」という動作そのものを撮ることへの関心があるのかと感じました。

小森 そうしようと思ってしているわけではないんですが、自分が聞き手となる状況でしか撮れないものがあるとも思いますし、『息の跡』ではそういう状況でしかカメラを向けられなかったんですよね。改まってインタビューして「聞かせてもらう」ということよりも、『息の跡』だと仕事終わりに佐藤さんがふと話してくれる話を撮りたかった。

でも人にカメラを向けるのは、常に怖いんです。どんな相手でも、どれだけ撮影をさせてもらっている人でも、すべてを撮ってはいけないし、その都度、回せるか回せないかという判断があると思うんですね。ふとした話を撮りたいと思うときに、佐藤さんと会話をしながら突然カメラを向けるということをしないといけないわけなんですが、それが成立するときってカメラを回してからも会話が続いていくときしかなかったんじゃないかと思います。意図していたわけではないけど、「聞いている/聞かれている」ことの記録でしか、私の撮りたい佐藤さんの姿は、撮れなかったんだなと後になってから気づきました。

――佐藤さんもそうですが、ある種のアーティストとして阿部さんのことも捉えているという印象を受けました。佐藤さんに対して小森さんのとっている立場が、阿部さんがインタビューを通してとっている立場に近いというか。

小森 お二人に憧れている部分はありますね。もちろん阿部さんも佐藤さんも自分がアーティストだという意識は全くないと思うんです。本当に大事なものがなくなってしまったり、個人的なものだけでなく街全体が喪失を経験したなかで、経験した人自身が向き合うことってすごく大変だと思うんですけど、お二人はそれをやっていらした。震災にあって生活するだけでも大変なことだから、暮らしながらすごくスケールの大きいことも同時に考え続けるのって更に大変だと思うんですよね。

しかも生まれ育ったふるさとにいながら、現在あるいは未来のこの街に暮らす人のことを考え続けて、身一つで行動していて格好いいなと思っていて。人の気持ちと心に、その時々に必要なものを自らの手で探している。佐藤さんは英語で手記を書くということだったし、阿部さんは誰かの声を聞いて、別の誰かに届ける役割を引き受けていた。お二人の伝えたいという気持ちや誰かに届けるための工夫、技術を、私は表現だなと思ったんですよね。逆に私は表現することと向き合ってきたんだろうかと突き付けられました。だから、記録する人を記録するとか、話を聞く人の話を聞く、それなら私にもできることがあるかもしれないと思ったんです。

(次ページ“フィクションとドキュメンタリーの「間」”に続く)