幼女Xがきえることであらわれた、スグルとタムのちがうおもいとおなじおもい-範宙遊泳-『幼女X』ver.TPAM2015


「こんな風になるなんて!」
タイのカンパニー『Democrazy Theatre』と範宙遊泳のコラボレーションで出来上がった『幼女X』はなんとダンスピースだったのだ。舞台上には2人のタイ人の男がいる。彼らに役は与えられていない。スクリーンに表示された言葉に従うだけだ。ダンスピースだというのに踊りもしない。ありのままで舞台に立っているのである。
 
 『幼女X』は2013年2月に範宙遊泳の上演した作品である。この作品は主催の山本卓卓が震災以降の日本に感じていたものをスクリーンに投影された文字と大橋一輝、埜本幸良の2人によって表現したものであり、どこにいるのか分からない悪を探して彷徨う男と、姪に恋慕し義兄の成功を嫉妬する男の物語である。
 この作品で範宙遊泳と山本卓卓の評価は高まり、TPAM in yokohama 2014に招聘されることとなる。それをきっかけにマレーシアでオリジナル版とマレーシア人とのコラボで出来上がった『Girl X』を上演。その後にタイでのオリジナル上演を経て今回のコラボとなったのである。
 
 まず驚かされるのは『物語』がないことだ。山本は『物語』を溺愛していることをよく語っている。役者にも物語に従うことを要求していることも語っている。2脚の椅子を置き、スクリーンに投影するで言葉で会話させたり、ここにはいない存在をスクリーンに投影させた言葉だけで会話させたりと物語ることをとても大切にしているのだ。それなのに『物語』がない。まさに事件である。
 タイ人の男1(ティラワット・ムルウィライ)が舞台上に現れる。するとスクリーンに日本語とタイの言葉と英語で男1に何をしろと表示される。
 「ハンマーを持て」
 「ハンマーを食べろ」
 などなど。その言葉に男1は従うのである。
 男1が指示に従って舞台の外に出ると、男2が舞台上に来ることをスクリーンに投影された文字が指示をする。それに従ってタイ人の男2(ピーラポン・キッルアンピロムスック)が舞台上に現れる。するとスクリーンに日本語とタイの言葉と英語で男2に何かしろと表示される。
 「髪型を整えろ」
 「挨拶しろ」
 などなど。その言葉に男2は従うのである。
 Democrazy Theatreのタナポン ウィルハング(後はタムと表記)は演出家、振付師、ダンサーである。彼は『物語』を不要なものと考える。そのため幼女Xの物語をばっさりと切り捨て、プロジェクターで文字や図を投影するという表現方法と表現しようとしていた本質のみを切り出したのだ。
 投影される言葉はどんどんと強いものへと変わっていくのである。
 「今の日本の政治体制に問題があると思うか?」
 軽い身振りで男1と男2は答える。
 「今のタイの政治体制に問題があると思うか?」
 激しい身振りで男1と男2は答える。
 スクリーンの言葉はどんどんと高圧的になっていく。男1と男2はどんどんと卑屈になっていく。
 「言いたいことがあれば言えばいい」
男1と男2は何かを言おうとする。
「だが20年間刑務所暮らしだけどな」
男1と男2は口を紡ぐのである。
 スクリーンは一部分を残して真っ黒となる。男は残った白い部分の中に収まるように入る。その白い部分は移動して小さくなっていく。それを男1と男2は追いかけて、その中に収まろうとする。とても窮屈そうだった。最後にその空間はストライプになる。男1と男2は囚われてしまったのだ。
  スクリーンに映し出された白い空間はスクリーンの真ん中上方に移動する。その白い空間はストライプとなり、白い部分がオレンジとなり、その空間の右上あたりに赤い円が描かれる。そしてオレンジ色は深い青色に変わり、赤い円は黄色い円に変わるのだ。それを男1と男2が見上げるのである。何という閉塞感。
「赦しを請え。一人でも赦したら、お前の罪を赦してやる」
男1は必死に赦しを請うているけど、客席からは声が上がらない。私も声を上げない。
「誰もお前を赦さなかった」
男は必死に赦しを請うている。
「死ねー」
男1は死ぬのである。男2も同じ事を言われて、必死に赦しを請うている。しかし、客先からは同様に声が上がらない。
「死ねー」
男2も死ぬのである。そして劇場は真っ暗になった。
 
  劇場に明かりが灯ると男1と男2はそこには居なかった。スクリーンの文字は私に語りかけてくる。
 「お前が赦さなかったからあの男たちが死んだのだ。それはお前の罪だ」
 部外者だと安心していた私は不意打ちを食らう。
 「赦しを請え。一人でも赦したら、お前の罪は赦してやる」
 誰に赦しを請えというのだ。そもそも罪を犯したとも思ってないのに。
 「誰もお前を赦さなかった」
 私も何ものかに囚われているのか。そもそもお前は誰なんだ。
 「死ねー」
 そして劇場は真っ暗になった。
 
 席を立って会場を出る。そしてこう思うのである。
「これは幼女Xだった!」
オリジナル版とはまったく異なる表現をとっていた。それでもこの作品は幼女Xだったのである。
 オリジナル版のプロジェクターに投影される文字は男1、男2と同じように『何か』に抑圧されている存在である。その文字は舞台上にいない山本自身なのだ。彼は自分が抑圧されていることを『物語って』いるのである。そして『何か』は明確にしていない。その『何か』は観客の一人一人が考えるようになっている。
  タイ版のプロジェクターに投影される文字は男1、男2を抑圧する『何か』となっている。その文字は舞台上にいない山本自身が操っている。彼は抑圧している何かを『演じて』いるのである。そして『何か』を明確にしていない。その『何か』が観客の一人一人を抑圧していることのみを告発しているのである。
 
 このオリジナル版とタイ版のこの違いは何なのだろう。それは国の違いだろうか。いや、マレーシア版は現地の演出家、役者と協力の下、ローカライズされた幼女Xだった。タイはクーデターがたびたび起こる国。発言に力がないと伝わらないのかもしれない。だが、タイにも演劇はあるはずである。マレーシアの時と同じようにローカライズできるはずである。だから国の違いとは言えなさそうだ。では何だろう。それは山本とタムの住んでいる表現世界の違いであろう。ダンスの国の住人であるタムは演劇の言葉を話す気が一切なかった。演劇の国の住人である山本はタムが何をしたいのか、そして山本が譲れない部分はなんなのかを考えつつダンスの言葉を考えつつ話していたのだろう。アフタートークの時に現れた山本はぼろぼろだった。とても元気であったタムとは対照的である。まさに異文化に飛び込んでカルチャーショックを受けたのではないだろうか。ジャンルを超えるという範宙遊泳にとっても自分たちの言葉がそこまで通じないのは初めてのことだったのかもしれない。
 
 このオリジナル版とタイ版のこの共通点は何なのだろう。幼女Xがいない、物語らないのに『幼女X』だった。それは抑圧する『何か』を描いているからである。この公演を行う際、山本卓卓は『幼女X』に込めたものをこのように語っている。
 
『幼女X』は震災についてだけ描いたわけではないんですよ。大橋君(大橋一輝。範宙遊泳所属の俳優)扮する男が、ハンマーを持って敵を探していますけど、その敵を、例えば政府に置き換えてもらっても全然構わない。つまり、目の前にはいなくて、テレビの向こう側とかに存在するものだったり、もし会っても、人間味が感じられて敵と思えなくなるような存在と言うか……。ハンマーの彼が電気店の前でテレビを眺めていると、連続幼女強姦殺害事件の犯人が逮捕されたニュースが流れてくる。その時に隣でテレビを見ていたおじさんが“こんな奴は早く捕まって死刑になれ”と言う。でも実際に犯人に会ったら“この人がそんなひどいことをするとは思えない”と感じる。そういったトータルのことです。
(MAGCAL.NET 範宙遊泳 山本卓卓インタビューより)
  
 このおじさんが スクリーンに映し出された文字の正体なのである。そしてこの文字は短いセンテンスでテンポ良くスクリーンに表示される。twitterを連想させるのだ。このおじさんは我々すべてと置き換えられる。
 
 震災以降、日本人は他人に対して不寛容になった。今までは気にもしていなかった事に対してもかみつくようになった。そのことで自分は強い人間だと言えるようになったように。そしてその悪意ともとれる言葉が一気に広がっていくのである。そしてその言葉に対して反論する言葉がまた生まれていく。どんどん騒がしくなっていく。そのうえISによる日本人人質事件が発生した結果、言いたいことをさらに言いづらい風潮となってきている。そのため言葉はさらに口汚くなっていく。
 軍事クーデター以降、タイ人は政治的な発言をできなくなったようだ。タイが大好きな役者の山内圭哉は自身の参加するパンクバンド「Wat Mayhem Orchestra(W.M.O)」でタイの僧侶の格好をして登場したことがある。そのときの写真がfacebookのW.M.Oのページに載せられ、タイ人の友人がいいねをしたことで、タイ国内でニュースになるほどの大きな騒動となったようだ。それは言いたいことを言えないがための騒動でもあったようである。
 
 なぜ人はこんなにも『抑圧』されたと思うのだろう。それは自分と他人が違うからである。その違いを認めないからである。そう思うからこそ人は行動する。山本とタムは『作品』という方法を取って行動しているのである。そして二人のその行為は観客を抑圧するものである。耳がいたいのだ。しかしその抑圧を観客が受け入ることで違いを認められる。そして抑圧が解放されるのである。
 
 山本卓卓とタナポン ウィルハングという違う国の、違う表現をする二人が出会うことで産まれた『幼女X』は
お互いに抑圧し、抑圧された上で合意された作品だ。つまり『幼女X』で提示した『抑圧』の先を制作過程で示した作品とも言えるのである。
 (観劇日:2015月02月15日 14;00)
 

範宙遊泳 × Democrazy Theatre

幼女X(日本‐タイ共同制作版) 

KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ
2015/02/14 14:00
2015/02/15 14:00
 
 原作:山本卓卓(範宙遊泳)
演出:タナポン・ウィルンハグン(Democrazy Theatre)、山本卓卓(範宙遊泳)
出演:ティラワット・ムルウィライ(B-floor Theatre)、ピーラポン・キッルアンピロムスック(Democrazy Theatre)
原作英訳:寺田ゆい
通訳:シリー・リュウパイブーン、鈴木香穂、近藤勇一、鈴木なお
舞台監督:藤江理沙
音響:ガモンパット・ピムサーン
衣装:ニシャー・ブーラナサムソット
照明:パウィニー・サマッカブット
制作:坂本もも(範宙遊泳)、パウィニー・サマッカブット(Democrazy Theatre)