Interview:Yaporigami『俊英Yaporigamiが更新するIDMの未来』


聞き手・構成/大西常雨


Yaporigami aka Yu Miyashitaは、既存のテクノのフォーマットに固執することなく、リズム構造6/4の発見と過去の「聖典」へのオマージュで新しいIDMの始まりへと聴き手を誘う。名門ミル・プラトーからリリース経験もあり、宇川直宏に批評眼を持つ稀有な逸材と称された彼に、今までの音楽遍歴、アルトーの名を冠した自己レーベル、新作、そして映像のコラボレーションまでを聞く。


 

――少年時代、どのような音楽に影響を受けたのでしょう? 音楽遍歴を聞かせてください。

Yaporigami(以下、Y) 山梨の富士吉田市で育ち、中学時代はいわば普通の子供で、ラルクやGlayなどをカラオケで歌いつつ、同時にゲームセンターで音ゲーにはまりました。特にドラムマニアに触れたとき、覚えがすごく早くて、ドラムとの適性の良さを感じました。シャッフルのリズムが楽しく感じ、プリミティヴな、身体的な欲求を抱きましたね。友人のお兄さんの電子ドラムを触ったりする機会もあってドラムを始めて、高校3年まで毎日練習していました。アーティスト的にはいわゆる黒歴史になるやもですが、テクニック面の興味があって、ツーバスでスレイヤーを練習したり、学園祭でSlipknotの曲を演奏したこともあります。当時はインターネットも発達していないので、TSUTAYAで様々な音楽を発掘していました。あと中2の時に深夜番組で椎名林檎の「ここでキスして」を聴いて衝撃を受けたりもしましたね。

 高校時代は同じクラスで宅録をしている人に会い、スカパーやMTVの存在を知り、いわゆるロキノン系の音楽、Limp Bizkit、Radiohead、またMad Capsule Marketsにはまりました。特にマッドの上田さん作曲したものは、Baby Metalの提供曲がクレジット見ないでわかるくらい今でも好きですね。そしてFoo Fighters、Mogwai、Gomez(スコットランドのバンド)等を聞いてました。その友人にAphex Twinの『Drukqs』を聴かされましたが、当時はバンドマンだったので、機械が作るものだから音楽ではないと軽蔑し、理解できなかったんです(笑)。

――日本の山梨の高校からいきなりイギリスのブライトンなんですね。その経緯を教えてください。

Y 当時は尖っていたので、学歴社会がいわば日本社会の縮図であることに違和感と閉塞感を感じていました。ですから、海外に行かなければと考えたんです。学年1番の進学クラスで成績が2番だったこともあって、 誰からも突っ込まれずに晴れて留学することになりました。

 親が建築に携わり、英国ではアートに近い扱いを受けていたので、建築を専攻することに決めて、斡旋会社と提携していたケンブリッジかブライトンに行こうと考えました。通常2年かかる勉強を1年でやり、油絵に挑戦し美術のポートフォリオ作成をなんとかこなし、英語の勉強をしました。ケンブリッジへは面接で金髪のパンクスの姿で受けた為か落ち、その容姿で行ったことに関して今でも反省しています。

 ブライトンへは、ネットで情報を見る限り学生の表情がよく、海沿いの街に行きたかったので決めました。当時MTVによく出ていたFatboy Slimがブライトンビーチでパーティーをやっていたのも印象に残っていました。この直感に間違いはなかったと思います。

 入学してすぐに大学のウェルカムパーティーで、電子音楽科の先輩2人に出会い、当時自分はターンテーブルを持っていたこともあって交流がすぐに始まり、マニアックな音楽やエレクトロニカを教わりました。

――クラブ体験について聞かせてください。

Y イギリスだと18歳からクラブ入場可能なので、ブライトンで初めてクラブに行くことができました。そこでキック1発の響き、そして4つ打ちに完全に魅了されました。キックが周期的になっているだけなのに踊れる、というまさにその事実に驚きました。こうして、イギリスで初めてカルチャーに遭遇することになったんです。

 作曲を始めてみると色々なことに気付きやすくなります。Aphex Twinの「4」のブレイクコアで多用されるスネアラッシュが非常に音楽的に使用されていることに気付き、彼の場合はヴェロシティも丁寧に書くので、発見は大きかったです。シンセのラインが、農耕民族ではなく、狩猟民族のそれだと合点がいきましたね。これが作曲という観点からして、原体験と言えるものになりました。

――音楽聴取体験が段階的にうまい具合に訪れましたね。クラブカルチャーがしっかりルーツにあるというか。それが良い悪いというわけではないのですが、牧歌的、キッチュなものの多い、日本人の作るエレクトロニカとは違うなと思いました。しかし同時に日本のサブカル的な側面もあるのが不思議です。

Y 19頭身のレーベルオーナーがブライトンに住んでいて、新入生歓迎会で知り合った人の紹介で出会うことになり、CDR君の作品を聴いたとき、アーメンブレイクも知らなくて、アーメンブレイクとCDR君自身の持つ異様なハイテンションさにもっていかれたんです(註:Aphex Twin aka Richard D Jamesを客に迎える2003年のCDR、14分〜)。アニソンとアーメンブレイクを一緒にエディットしていて、ここまでアウトサイダーになってもいいという自由を感じました。自分はだいぶ素直だと思うんですが(笑) 何をやってもいいんだ!と思うようになりました。 レーベルのオーナーからは山塚アイを教えてもらったりして、日本のサブカルチャーのヤバさを知ることになりましたね。

――当時何か触発されたイベントはありましたか?

Y Wrong Musicというイベントがあって。DJ Scotch Eggがいわゆるチップチューンをゲームボーイを使って演奏しているのを見たり。そこに入り浸っていましたね。Planet MuというレーベルからVex’dというアーティストが出てきたり、Venetian Snaresが呼ばれたり、ブレイクコアが流行っていたんですよ。Breakcore Gives Me Woodというイベントがベルギーであったりして第一派の全盛期でもれなく影響を受けた。当時一番反抗精神があってパンクな音楽だと感じていました。

 そして2006年に、最初のアルバム『XIII』(Give Daddy The Knife, 2006)を出しました。そこには僕なりのブレイクコアの解釈があります。

――イギリスにいながら日本のカルチャーの深い部分を知っていったのは面白いです。さらにそれ以降も日本のアンダーグラウンドな音楽を掘っていったと聞きます。例えば作風にはノイズの影響も感じますが、ジャパノイズ、例えばメルツバウはどのようにして知ったのでしょう?

Y 電子音楽/サウンドアート科へと転科し、なんでこんなに音楽的に聞こえない音楽のCDがこの世にたくさんあるのが気になり、その謎を知りたくなりました。どうせならしっかり勉強してみようという気になり、アブストラクトな方向に向かって行きましたね。

 大学図書館で、シュトックハウゼン、クセナキス、スティーヴ・ライヒ、中村としまるなどを聴きまくり、ドローン、音響、グリッチ、ノイズ、コンクレートなどの音楽が、なぜ音楽として成立しているのか自分で分析を続けました。このように大抵は自分で聞く練習を始めたけれど、大学の授業でも、ライヒのミニマリズムを元にポリリズムの作曲の課題が出たり、ルイジ・ルッソロが未来派の画家でノイズマニフェストや、イントナルモリを作ったという事実を教わったりもしました。セオリーの勉強は好きで、自分の成長具合とちょうどマッチしていたんだと思います。その頃からLightning Boltからインスパイアされた2人編成のフリージャズぽいデュオをやっていたりもしました。灰野敬二と吉田達也の共演盤をよく聴いていたのもこの頃です。

 ノイズに関しては、音楽的にノイズを追求したというより、アーティストとしてのマニフェストとして反社会的な部分と親和性が強く、それをすることに意味がある音楽だったと考えています。ハーシュ・ノイズは初期衝動やエネルギー体として1番いい表現方法。攻撃性を表現するのに1番いいエレメントで、ノイズはラウドネス・レベルが高い状態がデフォルトで、その変化を楽しむ音楽と理解したときに、楽しくなってきて、メルツバウ、ゲロゲリゲゲゲ、インキャパシタンツなどを聴き始めたんです。留学当時、18歳まで日本に育っていてアイデンティティーが揺らいだことも大きくて、自分の存在意義を音楽の中に見つけようとしていました。自分はノイジシャンとしてアイデンティティーを確立するしかないと考えていた時期もありましたね。ノイズ音響を聴き漁り、ノイズを作っていました。大学に通いながら作っていたノイズのまとめをたまたまミルプラトーから出せたんです。

――Yu Miyashita名義で出た『Noble Niche』(Mille Plateaux, 2011)ですね。おそらくこの時期までにダークなノイズ的要素が醸成されたように感じました。そして踊れる電子音響がコンセプトのレーベルHz Recordsを経て、2014年にRichard DevineやJimmy Edgar擁するDetroit Undergroundからリリースします。

Y SyncBody』 というMVがバズって、これを見てDUの人が声をかけてくれたんです。 

――例えば『Hertzian』(Hz Records, 2012)は4つ打ちがメインですが、その中にサンプリングがあり、1つ1つの音が対立するのがコンセプチュアルに聞こえました。グリッチ、ノイズを選んで作る作業があり、またコラージュぽくもあります。それに対し、『Eye/Hand』(Detroit Underground, 2015)がおそらく最新作以前に1番リズム面での実験をしています。

Y 『Hertzian』は、いわゆる音に対する意識、音色への欲求が強くなり、そこを表現できたことが収穫でした。『Eye/Hand』は、完全にフロアから離れないけれど、ビートが連鎖的にずれていくという感覚を追求したくて作りました。

――こうして作品を比較すると、ほかのインタビューで直感的に作ったと言ってましたが、それにしては作品自体は毎回コンセプチュアルだと思いました。

Y 普段から曲を作っていて、アルバムを出すオファーが来る時に、作品として出すからにはまとめようということで、コンパイルして出すという形になります。普段は直感的に作っていて、同じ時期には似たような作品が多いから、毎作品コンセプトがあるように見えるのだと思います。

――つまりコンセプトが血肉化しているからこそなんでしょう。そして、自己レーベルもやられています。アントナン・アルトーの名前が冠されたレーベルThe Collection Artaudを作った経緯を教えてください。

Y アルトーの『神の裁きと訣別するため』は愛読書です。彼は変えられない社会や時代性に対し、常に違和感を持って立ち向かった人だと思います。どうも自分は奇妙な社会的拘束力を、日本から感じてしまう。ある時期、アルトーを読んで自分こそがちゃんと機能している、器官を伴った身体を持つ真の人間なんだ、と思いました。社会をゲームの感覚のように鈍感になって楽しめればいいけど、アーティストの人はそれが上手くできない。だから、社会を変えるのではなくて、自分が社会に変えられないように努力するということ、これがアーティストには大事なのではと思います。そうした社会的圧力に対する決別だとか解離だという状態をアルトーの文章から感じていて、僕なりの現代に生きているアルトーを探して発掘、リリースしていく、ある種の宣言として名付けました。

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Mille Plateaux (vert