写真批評の通路――『ヱクリヲ9』『パンのパン 03』写真特集〈合同〉刊行イベント 倉石信乃×松房子×きりとりめでる


写真家は写真発明家的である

倉石 また、デジタル技術のありようが制作のなかに影響を与えていることもまた、確かです。以前の古典的デジタル論だと――ウィリアム・ミッチェルの『リコンフィギュアード・アイ』など――デジタル画像は劣化しないというようなことが書いてあるわけですが、『ニューメディアの言語』はそれを否定していきますよね。また、デジタル写真ではそのアウトプットの段階で、バグやノイズが生じるわけです。私にはデジタル写真における次元のズレのようなものが、どうしても気持ち悪い。たとえば、トーン・ジャンプ6のようなものですが、具体的にプリントとしてアウトプットされるとき、デジタルとアナログのインターフェイスのところで出てくるノイズに慣れるのに時間がかかります。

 加えてデジタル技術の発展と相まって、インクジェットプリント7というものが出てくるわけですが、これがまた話をややこしくしています。インクジェットプリントはカラー写真を自分で制作するものに変え、安価にしていく大きなメリットがありましたが、デジタルカメラの発達との相乗効果により、これまで非常に技術的には習得することが難しかったスナップショットが、いわばインフレーション化したと思います。撮影でもプリントでも、技術の神秘のようなものが働かなくなった。これまで手ブレなどを起こすような場面でもブレのない、一見すると高度なスナップショットのプリントが手軽に手に入るようになりました。

 2000年代に入ってからはモノクロ写真――松江泰治はモノクロとか「白黒写真」はおかしい、「黒白写真」と言うべき、と言っていますが――、ともかくそれがこれまで培ってきた蓄積や前提を失うという時代になったと思います。要は印画紙が手に入らない、手に入ったとしても非常に高いという状況になっていく。当時、写真家も四苦八苦していたと思います。松江さんが本格的にカラー写真を手掛け始めたのは21世紀になってからですし、この10、20年というのは80、90年代と比べて、写真家がよりいっそう技術の変化という状況に対応しなくてはいけなくなった時代だろうと思います。

 ただ一方で、写真というのは誕生した19世紀の頃からそうですが、つねに所与のテクノロジーをそのまま使っているだけでは写真家はそんなに大したことはできないんですね。それぞれ撮影でもプリントでも独自の工夫をする必要がある。展示でもそうで、(ヴォルフガング・)ティルマンスが自分の方法を見つけたように、です。だから、写真家は写真発明家的であると言っていいのかもしれません。19世紀はもちろん、今でも歴史に名を残す写真家はそうだと思います。

 

カメラのシミュレートによる新たなリアリズム

『パンのパン03』たくさんの写真についての論特集号 gnck、永田康祐、きりとりめでる、原田裕規ほか

きりとり いまさっき話にでてきたテクノロジーと作品の関わりというところが、どのメディアを扱うに関わらず、最もそれを「前提とした時代」に入ってきたということはrhizomeとかに寄稿する美術史家のアレックス・ベーコンも言うわけですが。その状況で写真における評価軸としていま何があるかと言ったときに、具体的な作家をあげて、2パターン話しておきたいなと思うのがあります。

 まず、『パンのパン03』の表紙に選ばせていただいた新居上実さんという方なんですけれど、この方は2013年頃には俗に言うクロースアップマジック的な手法の作品に入っていました。どういうことかというと、狭い机の上とかで、ものを展開して配置していって、それを写真で撮ったときに、それが一体どうやって撮られたかがわからないというもの。新居さんの場合は、レタッチがほぼ介在していなくって。フォトショップですることといえばトリミングくらいです。あと、ギリギリ鑑賞者がリバースエンジニアリングできる構成ですね。ある2017年の展評で、新居さんのは「最近よくみるスタイル」とか言われていましたが、国内でクロースアップマジック的な写真作品の完成度を上げた、最初期の作家です。

 新居上実さんがいて、宇田川直寛さんとかもいますが、新居上実の写真の表面性だけにおいて近い作家としては永田康祐さんがいると思います。永田康祐さんは写真におけるソフトウェアというもの、フォトショップ、ポストプロダクションが写真において前提になっていること自体を写真作品のなかにどのように表すのが最もよいのだろうかというのが近作ですね。写真の広告媒体における合成においてどういうことが起こっているのか、それを一枚の写真でどう表示するかとかですね。だけども永田康祐さんは、写真ということだけではなくて展覧会や、美術制度におけるインスタレーションという形式の中で、それと同じ現象をどのように展開できるかという、まったく違う位相でジャンプしていくところがあって。美術家だなと思います。写真家、美術家、これはただ言葉の質感というかテクスチャーなんですけれども。

 もう一個あるのが、今回『ヱクリヲvol.9』の中にあるセス・ギディングスによる「光なきドローイング」の翻訳の中でも話題になっていたのが、レンダリングそのものの中にあるインゲームフォトグラフィ、ヴァーチャル・リアリティの中での再撮影みたいなことはヱクリヲの中でも話題になっていると思うんですけど、そのことを扱っている美術家というのが日本の若手の中にも結構いるなと思っています。

 具体的に名前を世代順に挙げるとムラタタケシがいて、山形一生、藤倉麻子、平田尚也さんがいると。彼らは3DCGをレンダリングし撮影する手法を取っている。それぞれ、取り組んでいることは違っていて。たとえばムラタタケシさんであったらポストインターネットと呼ばれる(形式じゃなくて)様式でなにが参照されているか、行われているかということが形になっている。藤倉さんは、陸橋が動くような映画が撮りたいけれど、それはできないという、不可能性の実現として、または3DCGのシミュレーターの挙動との対話に取り組んでいる。平田さんは、とくに彫刻の、物理的な製作上の困難や実現不可能性を念頭にモデリングをしている。パレルゴンを含めた彫刻作品として撮影しているから、「作品写真」ともいえる。山形一生さんは、ストックフォトの流通やイメージを用いるものもありますが、例えばレンダリングをするときも、どういうふうに光の効果を与えるか、みたいなこと。カメラのシシミュレート、再媒体化を3Dモデルにどう与えていくかというような、ギディングスの提起には一番近いところで新たなリアリズムを追及していると思います。違いがみなさんにある。アレックス・ベーコンが言うように、メディアアウェアであることは大前提で、その前提に対して、技術史からの演繹だけでなく、リアリティのある個人的な解を模索している取組みが面白いと思うんですね。

 

写真批評の正史とオルタナティブ

 ありがとうございます。私はきりとりさんが挙げてくださった作家の方たちに対して、割とメディアアーティスト的なイメージを持っています。この線引きは非常に視野の狭い見方だとは思うのですが…そして彼らは決して片手間ではなく、写真やカメラを自身のモチーフとして扱ってはいるけれど、それは各アーティストにとって関心のあるメディアの選択肢の一つとしての写真、つまりはメディアアートの拡張としての写真の取り込みであるという先入観を持ってしまいます。倉石さんは横浜美術館の学芸員として、写真領域における作家・作品の位置付けとともに写真作品を展示していくというお仕事をされていたと思いますが、この辺りいかがでしょうか。

倉石 とくに写真の歴史を語ることにおいて、それをスタンダード化していくための努力をオーセンティックな場所、たとえば美術館などがいささか怠ってきたということはあると思うんですね。やはりスタンダードがないと、それに対するオルタナティブも育たない、そういったダイナミックな関係が作られていかない、ということがある。たとえば東京都写真美術館は、いわゆる常設展的なところでスタンダードを打ち出していくことがあまり行われない、常設展においても、学芸員がその都度創意工夫を凝らした企画を披瀝する場になっている。それは必ずしも悪いことではなくて、それも必要なことですけれども。

 美術館の学芸員たちと話していると、たとえば、「一つの」写真史というものを押し付けたくない、そうすべきではないとよく言う。その気持ちもよくわかりますが、一つの写真史というものが築き上げられていかないことで、日本の文化、特に現代の美術に対するディスクール空間がいびつなものに見える時があるんですね。一つの写真史を構築しながら、同時にその複数性をいわばコノテーションとして提示するのがいいのですが。千葉成夫さんが書いた『現代美術逸脱史』(1986年)という「通史」がありますが、あくまで「逸脱史」と銘打っている。これは椹木野衣さんの『日本・現代・美術』(1998年)に影響を与えた本だと思いますが、また千葉さんのことを悪く言うつもりもないんですが、結果として現代美術史の正史を書いているにもかかわらず、それを「逸脱史」というふうに名乗ってしまうという、それと同じようなことが、日本の文化史的な言説にはよくあるんですよね。「奇想の系譜」などもすでにそういう感じがします。つまり正史を語る立場にいる人間が、あらかじめやや斜めを向いてしまう。

 潔くないというのか、それは私自身のこれまでの批評的な活動を含めて反省すべきところがあって、キチンと語る姿勢が足りない部分なのかもしれません。スタンダードがあって、それに対するアンチがある、というようなダイナミズムが働かないと、どこまでも相対的な、さまざまな活動が散発的に起こっていて、散発的な事象についての並列的な解説がつづく、そうした言説空間があたりを支配していて、どこか居心地が悪いという感じがしてしまうんですけどね。

 ただ、おそらくこの20年ほどの間、大学のような場所で表象文化論や批評理論の中で写真に触れて関心を持つ人が増えてきていると思います。写真に関してアカデミアが少しずつ成立してきたことが、やはり写真の言説空間を変えているし、今回みたいな集いが可能になったというのも、おそらくそのことと関係があるだろうと思います。それ自体には、肯定的でありたいと思います。関連していえば、前川修さんや橋本一径さんをはじめ、従来の痕跡論的な意味でのindexicalityへの固執がパターンに陥っている限界を指摘して、写真=インデックス論を超えて、別の選択としての新たな写真論の可能性を共有している人たちが増えてきているのは、やはり写真の言説空間の変容がもたらした成果だといえます。そのことが、たんに単数的な写真の存在が離散的で複数的なものへ移行していったというだけではなく、やはり、今回の二つの写真特集「ヱクリヲ」と「パンのパン」のような試みを成立せしめたのだし、その中で重要なタームの一つが、「心霊写真」ではないかと思うわけです。

★次ページ:〈「心霊写真」とインデックス性〉へ続く

ヱクリヲ vol.9 
特集Ⅰ「写真のメタモルフォーゼ」
清水穣インタビュー「メディウム・スペシフィシティの新しい幽霊」/写真の「可能態」を思考するためのアルケオロジー /写真論ノート from ボードレール to バッチェン/翻訳論文「光なきドローイング――ビデオゲームにおける写真のシミュレーション 」/寄稿:大山顕、久保友香、水野勝仁、松房子ほか
特集Ⅱ「アダム・ドライバー〈受動〉と〈受難の俳優〉」