笑いとはなにか。極言するならば、「線を引く」行為である。
たとえば、漫才などを思い浮かべてみよう。以前筆者が参加したライブから例をあげると、そこでは魚を「溺れ死にさせる」と水に投げ込む男のネタや、イヌイットの家族にクーラーを売りつけようとするセールスマンのネタなどがあり、多くの観客が笑いに包まれていた。筆者もまた、そのご多分に漏れなかったが、では、なぜ笑ったのだろうか。一義的には、ボケる側の演者の言動、もしくは行動が可笑しいからに違いないが、よりふみこんで言えば、自分たちの考える常識との「ずれ」があるからではないだろうか(もちろん、同調の意味での笑いもあるだろうが、ここではとりあえず不問とする)。 つまり、多くの笑いにおいては、観客が意識的かそうでないかにかかわらず、その対象から一歩引くような、自分との「ずれ」の意識――それは容易に対象への優越感情にも変化しうる――が介在しているとも言えるのである。笑いが生まれる場においては、演者と観客(これはもちろんパフォーマンスの場のみではなく、日常的な場面に置き換えることが可能である)のあいだに、ある一定の線がたしかに引かれることとなる。
足をひきずって歩く兄と、自閉症をもつ妹。ともに障碍をかかえた兄妹が、自分たちが生きるために「売春ビジネス」へと踏みこんでいく過程を描いた『岬の兄妹』は、笑いの存在をはじめ、いくつもの「境界線」――観客と登場人物との明確な距離――の存在を感じさせる作品である。その前提となるのは、本作のきわめて緻密に設計された細部の存在だ。本作は「障碍者の売春ビジネス」というシリアスなテーマを扱いながらも、その重さ、もしくは単一のイデオロギーに収斂されることなく、さまざまな魅力的な細部が浮かび上がってくる。おそらく、本稿における「境界線」の解釈は、こうした魅力のわずかな切り取りにすぎないだろう。細部の豊饒さは、本作が傑出した作品であることのひとつの証座でもある。
まず冒頭、兄・良夫(松浦祐也)が仕事を首になり、ふたりが貧困にあえぐすがたに着目してみよう。ふたりは掘っ立て小屋ともいえるようなぼろ屋に暮らしており、外から見えないように(公共料金の請求などでおとずれる人間を避けるために)窓にはダンボールがべたべたとはられている。その姿はどこかカリカチュアライズされた印象で、陰惨ながらもどこか笑いの余地を感じさせるものだ。ふたりは食べるものにも困った果てに、ティッシュすらも口にする。常識的に考えれば凄惨極まりない光景であり、悲愴な音楽をバックに「ちくしょう、なぜこんな目に…」などという嗚咽がもらされたとすれば、とても観客が笑えるような状況ではない。しかし、状況のわからない妹・真理子(和田光沙)は無邪気な笑い声をあげ、良夫(松浦祐也)も憤りを表現しつつも、目の大きなひげづらという、そのどこかユーモラスな外見もあってか、不思議と陰湿なトーンにはならない。たとえるのであれば、ちょうど『黄金狂時代』(1925)の序盤、チャップリンがナイフとフォークをもって、無表情で靴をむしゃむしゃ食べることと通底するようなおかしさが、ここには介在している1。
こうしたおかしさに端的に見られるように、本作においては、作品のトーンがテーマに比例してシリアス一辺倒になることが、周到に回避されている。それにおいて重要な役割を果たすのは、ヒロイン・真理子の存在である。彼女は自閉症ということもあり、自らの置かれている状況をよく理解することができない。そのため、自分がやくざの男に力ずくで犯されているようなときでも、きゃっきゃっと歓喜のような声をあげたりもする(それを見て絶望的な表情をうかべる良夫とは、鮮やかなコントラストをなしている)。ウンコを見て喜び、誰に対しても人懐っこい笑顔を見せる彼女は、映画におけるひとつの緩衝材となり、本来なら笑えないような場面に、いくつものおかしさ、また余裕を生み出すこととなる。
もっとも、ここで付言しておけば、このおかしさとは両義的なものではある。観客はなぜ笑うことができるのか。それは結局のところ、彼らのおかれた極限下ともいえる状況が、自分ごとではない(かのように感じる)からである。繰り返しとなるが、それに寄与するのが真理子の自閉症という、通常の観客のそれとは異なった思考のありかたなのだ。つまりここには、観客とふたりとのあいだには確かな心理的境界線が介在していると言えるのである。
こうした「境界線」の顕在化においては、カメラワークの演出も大きい。本作においては、人物のクロースアップはきわめて少なく、むしろ俳優の全体をとらえたようなミディアムショット、およびロングショットが多用されている。監督である片山慎三は、こうした演出の背景について、本誌のインタビューで以下のように語っている。
画のサイズについては、すごく意識しました。アップで撮るよりも全身を映して見せていきたいと思ったんです。土地を映すのもそうですが、やっぱり「肉体」を撮りたかったんですね。全体が映ってて、動いてて、というのを見せないとだめだなと思ったんです。役者の顔の映画じゃないというのがあって。たたずまいとか体とかが映ってないとだめだと2。
片山は上記の発言に先立つ形で、自身が師事したポン・ジュノの作品をはじめとする韓国映画の影響――それらはいずれも俳優の身体性を重視している――を語っているが、これらは片山が意図したものとは(おそらくは)別な形で、観客の心理をある方向に誘導する効果を生んでいる。
たとえば終盤における、浜辺でのシークエンスはその好例だ。そこでは元上司が良夫に対して、スタッフの欠員により、かつての職場に戻ってきてくれないかと打診する。しかし、売春にどっぷりと手を染め、それによって重大な過失に直面した良夫にとっては、もう後戻りができる段階ではない。「お前のせいで……」と感情を爆発させ、上司につめよる良夫だが、その瞬間、カメラはすっと引いていき、映像は良夫個人というよりもむしろ、真理子もふくめた3人が立つ海辺の風景そのものに立脚することとなる。ここでのカメラの「引き」によって、私たち観客は、良夫の怒りからの「引き」もまた要請されるのである。
さきほど、チャップリンを例に出したが、言わずと知れたその名言をここで思い返そう。「人生はクロースアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」――おおざっぱに言えば、クロースアップとは観客と登場人物を同一化させる技法であり、ロングショットとは真逆に、観客と人物とのあいだにはっきりと「線を引く」技法である。言いかえれば、観客と人物のあいだにある程度の距離を置くことで、観客には登場人物を笑うとまではいかないにしても、ある程度の心理的な余裕が生まれることとなる。
さきほどの浜辺のシークエンスのような、人物の感情への過度なフォーカスを見せない「引き」の姿勢について、もうひとつ例をあげれば、良夫が行方不明になった真理子を見つけ、路上でふたりがもみあうシークエンスである。真理子は大声をあげ、手と足をばたつかせる。ここで着目すべきは、画面においてはほとんど真理子の表情が確認できないことである(通常、人物の感情をもっとも雄弁にあらわすのは表情の動きであろう)。カメラはふたりの体全体をとらえており、表情よりもむしろそちらに焦点があてられることとなる。この一連のシークエンスでは、最終盤において、ようやく真理子にクロースアップがなされることになるが、ここでの彼女の顔は髪に覆われ、その細部を確認することはできない。また、彼女の叫びの根源にある感情は何なのか。具体的な言葉としては出てこないため、それもはっきりとはわからない3。そのため、観客が真理子の感情へと没入することは困難で、ここでも観客は「引きの目」で真理子を見ることを強いられるのである。
ここまでの「境界線」はいささか抽象的な存在ではあるものの、作中における境界線は、より具体的な形においても顕現する。たとえば冒頭、良夫が真理子を使っての売春ビジネスをはじめることを決め、トラックが集まる駐車場での「営業」をするシーンを思い返そう。ここで良夫は「かわいい子いるんですけど、1万円でどうですか?」とトラックに乗っている運転手に話しかけるが、彼は無言で拒絶する。ここで着目すべきは、運転手の拒絶のサインが、トラックの開いていた窓を閉めるという行為としてしめされることだ。このふたりは窓という境界線によって、はっきりと分けられるのである(こうした「窓」による拒絶は、のちに真理子の客・中村(中村祐太郎)によってもなされることとなる)。
また、売春ビジネスは基本的に派遣型であり、電話での注文を受けるそのつど、良夫が真理子をつれて客の家へと向かう。そして家の扉において、真理子の客への受け渡しが行われる。つまり、売春をめぐるOK/NGのサインは、両者の境界線を越えて、相手のフィールドに入ることができるか否かによってしめされるのだ。良夫たちと「ふつう」の人たち――ひいては私たち観客――との差は、これらの具体的な境界線によってさらに露わとなっていく。
よりふみこむならば、境界線の存在は、それによって分けられるふたつの対照性によって、逆説的に際立つという側面もある。ひとつには、キャラクターの次元における対照性である。本作で良夫と真理子の存在に対をなすのは、良夫の(唯一の)友人・肇(北山雅康)の存在だ。彼は警察官であり、いわば法を遵守する側の人間である。いっぽう、良夫と真理子は言うまでもなく、売春という犯罪に手を染めている、法を破る側の人間である。そして、彼らの対照性は「妊娠」という細部によってより際立つこととなる。劇中、はじめて登場する肇の妻はお腹が大きく、やがて彼女がふたたび画面に登場する際には、赤ん坊がその腕に抱かれることになるであろう。いっぽう、仕事の副産物として真理子は妊娠してしまい、堕胎手術によって胎児を処置しなくてはならなくなる。つまり、子どもを産むことができるか否かという対照性が描かれることによって、彼らのあいだの距離感はよりくっきりと顕現する。それはひいては、良夫と真理子の生活レベルの低さを説明する細部としても、明確な機能を見せるのである。
ここまで筆者は心理的、および具体的な次元における「境界線」の解釈を述べた。ただ、『岬の兄妹』が主要人物である良夫と真理子のふたりを、一般的な観客とは分けられた存在として設計をおこなった映画だとするならば、そこには、倫理的な危うさもまた内包されている。それはひとえに、ふたりがそれぞれ障碍をかかえた存在であるからだ。障碍者を「自分たちとは違う存在」のように描くことは、見方によってはある種の差別感情の反映ともとらえかねられないだろう。
しかし、ここであらためて思い返そう。良夫や真理子へと線を引くのは誰だろうか。トラック運転手やふたりへの援助を拒む肇のように(もちろん、その責任が彼らにあるわけではなく、むしろ拒否が当然なわけではあるが)「私たち」の側の存在でもある。物理的な支援や金銭的な援助を拒むとまでは言わないにせよ、たとえば、電車の中やデパートなどの商業施設において、私たちとは異なった思考のありかたを見せ、ときには奇声をあげる障碍者を見て、あなたは目をそむけることや、心の中で舌打ちをしたことが、本当になかったと言えるだろうか。彼らに対して笑いを浮かべ、いっぽ引いた視線からみることは、制作者の側ではなく、むしろ私たちの無意識下の差別感情が、逆照射された結果であるとも言えるのである。
本作のラストシーンは、そのような私たちの感情の、さらなる試金石ともなりうるものだ。真理子は岬(まさに海と陸のあいだの「境界線」である)に立ち、後ろから良夫が呼ぶ。真理子の行くすえはどちらにあるのだろうか。水に濡れたその姿は、やがて彼女が入水し、命を落とすことの説得的な伏線になっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。良夫の呼ぶ声に振りむいた彼女の表情にはもはや笑いはなく、その印象的なクロースアップに、はじめて私たちは「没入」の余地を得ることになる。言いかえれば、ここではじめて私たちは、彼らに距離を置くことなく、同じ立場で考えることを強いられるのである。
生と死、どちらに真理子、ひいては彼女と共依存の関係にある良夫の行くすえを私たちは見るだろうか。いささか陳腐な言い回しにはなるものの、その判断は観客一人ひとりの倫理感に左右されるだろう。最後にいたって線を引かれるのは?――それは、これまで自身の隠された差別感情を恥じることすら怠ってきた、私たち観客のほうであるのかもしれない。
〈註〉
1『黄金狂時代』との類似性については、片山へのインタビュー(『キネマ旬報』2019年3月下旬号、p.143)において、映画評論家の森直人もまた指摘をおこなっている。
2 片山慎三インタビュー(『岬の兄妹』):連載「新時代の映像作家たち」http://ecrito.fever.jp/20190310220347
3 通常このような場面では、多かれ少なかれ叫び声の主体が、感情をより具体的な言葉としてぶつけることになるだろうが、真理子の自閉症という設定が、「言葉にならない」という状況に説得力を付与することとなる。
■片山慎三インタビュー(岬の兄妹)
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