特別対談:牧野貴×渡邊琢磨 映像音響の前線へ


牧野貴作品とコラージュ

――牧野さんはブラザーズ・クエイに師事された後カラーリストとして働かれてましたが、その時期に作られたコラージュ作品が昨年(二〇一九年)東京都写真美術館で展示され、牧野さんの関心の中心が少し理解できた気がしました。牧野さんにとって、二つの異質なものを繋げて外からの力を加える、コラージュとは一体どういうものなのでしょう。

牧野  東京都写真美術館で展示したのは、自分が何をベースにして制作活動を続けているのかを明確にしたかったからなので、このお話ができうれしいです。これは僕が授業時によく使うテキストで、マックス・エルンスト(註:シュルレアリスムやダダイズムを牽引した画家。フロッタージュ、コラージュ、デカルコマニーの技法を用いたことで有名)が書いていたことなんですけど、コラージュとは

「さまざまな存在および物体を、それらの物理的ないし解剖学的な外観を修正しあるいは修正しないで、全面的に変形させてしまうという奇蹟である」『コラージュ論』

 と。このテキストを僕は一七歳くらいのときに発見しました。その頃は35mmの写真フィルムを使って重ね撮りの実験を始めていました。動画にどうやってその技術を落とし込むかという実験をひたすら繰り返していた時期だったんです。

 複数の全く異なるものが存在して、それがぶつかり合って新しいものができていくっていうのはすごいシンプルなアイディアですが、それがものを作るということの本質を言い当てているような気がしました。エルンストは多重露光については言及してはいないんですが、この方法論は多重露光にそのまま応用できるという事に気付いたんですね。そして、とても重要なことは、コラージュという手法は自分自身の想像力を自分でも予測ができないくらいに拡張して飛躍させる事が出来るという事なんです。作り始める前には全く考えてもいなかったものや風景が突然目の前に出現します。それは大げさに言わなくても奇跡的な瞬間なんです。自分自身の内部にある無意識の領域に飛び込みながらも、この世界に既に存在しているものと新しい関係を築き、発見する事ができます。

 シュルレアリスムに興味を持ったきっかけは、彼らの取る方法、例えば自動記述とかフロッタージュやデカルコマニーやコラージュのような、自分以外の外部や無意識の力を積極的に取り入れて作品を作る姿勢に気づいたからです。それらすべての手法も試しましたが、自分は結局それらの経験を多重露光に置き換えて発展させていこうと考えたんです。ルイス・ブニュエルやジョセフ・コーネルのようなカット編集による映画コラージュのアプローチともまた異なる形態の映画が出来るかも知れないという予感が有りました。ですから大学生の時は、五〇〇本以上の8ミリフィルムを使って多重露光の研究を続けていました。8ミリフィルムは解像度が低くて粒子が粗いので、とてもよく映像と映像が溶け合うのでわりとすぐに達成感は有ったのですが、それが16ミリ、35ミリ、SD、HD、2K、4Kとなると全く結果が異なってくるので、四苦八苦しながら実験を続けていました。今ではなんで作り手が映像のフォーマットに振り回されなきゃいけないんだと思い、好きなフォーマットで自由に作る事が出来るようになってきましたが。

 大学を卒業して、二〇〇一年から二〇〇四年くらいまで、舞台照明や映像のポストプロダクションのカラーリストとして働き、経済的にも時間的にも映画は全く作れない状況でした。その中で一日一枚コラージュを作る課題を自分に設定し、どんな状況でも作っていました。深夜バスで移動しなければいけないときは深夜バスの中で作っていたし。自分の創造性をいかにして保つかということを確かめながら、自分にはどういうことが出来るのか、自分とは何者なのか、この世界と関わりながら作品を作り続けるということは一体どういうことなのか、考えながら実践していました。あれから一八年ほど経ち、作品を作り続けるという事の難しさを未だに痛感していますが、同時にコラージュ的な発想(受け入れる寛容さと発想のとんでもない飛躍)を持てていなかったら、ここまでやり続けるのは困難だったと思います。コラージュ制作は、本当に自分にとって重要な経験となりました。

牧野貴のコラージュ作品(2003年)

 頭に思い描いたものをそのまま形にすることに、全く興味がないんです。それは、技術力が高まればどんどんそうなってしまう。例えるなら、自分の誕生日に自分の食べたいものを自分で料理して自分にプレゼントを決められた時刻に送るようで、非常に虚しいと感じます。そうではなく、自分にとって制作とは、他者や自分を取り巻く世界と関わり、共有し合う事だと思っています。

 僕がアニメーションやCGで映像を制作することは無く、常に自分で撮影した実写の映像を使用しているのも、この世界とどう関わって生きていくか、という根本的な問いがあるからなんです。僕の映画作品は、ほとんど全て、自分の無意識の領域と自分を取り巻く世界を受け入れてそれらをコラージュし、最初と最後にほんの少しの自分の意志をプラスして仕上げていると言えます。

――牧野さんの作品には細部から、より雄大なものというか、大きなものを見ようとしていると感じます。

牧野 スケールに関しては、どこまでも大きくどこまで小さく感じられるように、星と細胞というようなことは考えてますね。最終的につぶつぶが大事になって来るんです。フィルムによる映像が魅力的なのは、たとえ静止画でも粒子が動いていることだと思います。あとは強烈なコントラスト。デジタルにはマテリアリティが無いので、自分は映像制作を完全にデジタルに移行するのに一五年もかかってしまったのですが、最近ではデジタルでも映像の物質性を感じられるような映像が作れるようになってきました。無いものは自分で作ればいいんだって思ったんです。二〇一八年の『Memento Stella』や一〇年前の作品『Still in Cosmos』も身近なものを撮影しながらも、どんどんイマジネーションを遠くに運んで、体内に戻ってくるみたいな感覚で作っています。Eva Szasz の『Cosmic Zoom』(一九六八年)のような感覚は常にあります。

――先ほどおっしゃったようにいろんな視点が加わるように、加工や編集などされてると思いますが、自分の中でここまでやれば作品としてOKという水準はありますか。最初は具体的な形象で、一部、都市の一部とか、それを何回かの過程で変えていくことは伺っているんですけれども、牧野さんなりの基準というものがあれば教えていただきたいです。

牧野 いつも作品を作る時には明確な目的があって、それぞれの作品で目的は違うので一概には言えないんですけれども、まずヴィジョンが頭の中にあって、例えば『Memento Stella』では、とにかく世界中からいろんな素材をできる限り自分で集められるだけ集めて、五つのシークエンスに分けて、ひたすら消滅と生成を繰り返し続ける映画を作ろうという考えが有りました。それは他の星にいくような感じもあるし、何かが生まれて死んでいくという生命のサイクルとか、そういうものを作ろうと思ったんです。

 まずだいたいこういうものになるだろうという設計図をノートに書いて、あとは実際に撮影して編集して映像を重ねていって、具体物が名前を持たない想像的な状態になるまで編集していきます。さらにそこから次の段階、映画作品としての編集へと進んで行きます。

  映像を、言葉とか、人種とか、社会とか偏見とか思い込みとかそういうものによって区別がつかなくなる、有機体に戻して行くというか、いろんなものが集合して人類共通の記憶みたいなものに到達するまで、抽象化していくんです。技術的にそれ以上重ねられなくときもあるんですけれども、突然「ああ、ここまで行けばOKだな」と感じられたら、そこで次の段階に進むことを考えます。いつも編集しては最初から見て直して、編集し直すという作業をひたすらひたすら繰り返します。

 自分が疲れたときはそれ以上作るのはやめます。短編がだいたい一五−二〇分の尺になるのはそれ以上自分自身が集中して見られなくなるからなんです。長編になっても一五−二〇分の流れの反復構造になっています。何も極限まで抽象化された映像を一時間見せたいわけではなく、素直に自分で見せたい、こういうものなら見られるという状態まで持っていけたら完成としてます。身体と感覚を完全にオープンにして編集に取り組みます。オンラインで僕が作品を見せてないのも、オンラインで抽象映像を一時間以上見るのは不可能じゃないかと思うからなんです。自分が不可能なことをやりたくないですね。それはものを作る立場からして無責任すぎるなと思っていて。

 繰り返し映像を見ながら、「ここにこういうものがあればいいな」と自分が感じた事を現実にしていくんです。割と自分の体の反応を素直に受け入れながら編集してます。編集自体はパソコンでやってるんですけれども、時間軸の作品なので何回も何回も最初から見て、磨き上げていって、もう文句ない、何回見ても修正箇所が無い、と感じたらそこがとりあえずのゴールですね。サウンドトラックを自分で作るときもそうなんです。

 映画を作り始めた初期の一九九七年から二〇〇四年までの間に、かなり多くの未発表の作品があります。それらの作品の音楽は全て自分で作っていました。オフィシャルに上映会を開始したのが二〇〇四年の一二月だったんですけど、まず上映会をすべて一人でオーガナイズしたいと思いました。会場を予約し、映写機を持っていき、会場を設営して、チラシも自分で作って配って、映像も音楽も照明も全て自分一人でやって、自分に何ができて何ができないかを明確にしたかったんです。終わってみて気づいたのは、自分には宣伝がうまくできないということ(笑)。

渡邊 僕も自主企画やるのでわかります(笑)。

牧野 あと映像と音楽との関係性が良くないということだったんです。

渡邊  良くないというのはどういった点で?

牧野 「自分が作ったものが作ったそのままにしか見えない」という印象を受けたんですね効果音を作ってただ当てはめるということではなくて、コラージュの概念をここでもう一回持ち込んで、外部のクリエイティヴな人と関わって、作品を広げていきたいと思いました。それがたとえ自分が当初は思い描いていたものとは違うものが来たとしても共同作業をするミュージシャンを決めてからは覚悟して、こういうふうにやってくれとかあまり具体的な指示はし過ぎないようにしますが、作品の内容と目的については詳しく説明します。重要なのはタイミングとか雰囲気とかラウドネスなどではなく、一つの作品を作るために同じ時間軸の中で交差したり高め合ったりする有機的な関係性を異なる感性が作り上げる事だと考えています。

 基本的に映像と音を組み合わせるときも、コラージュ的な発想や飛躍を期待します。映像と音が違う、あるいは同じ方向に向かって行ってもいいのですけれども、何かがぶつかり合って新しい炎が生まれるという、構造や状況を作り出す事を重要視しています。自作において、BGMとして音楽を考えたことは一度もありません。