特別対談:牧野貴×渡邊琢磨 映像音響の前線へ


渡邊琢磨の作る、映像のための音――『Origin of the Dreams』から『Ecto』へ

――音楽家として渡邊さんは、『Origin of the Dreams』をどう捉えましたか?

渡邊 私個人の印象としては、牧野さんの作品はどのような環境、媒体を通しても楽しめると思ってます。劇場や映画館に限定されない。勿論、牧野さんが仰る体感的なことも理解できますが。個人的に『Origin of the Dreams』以前に二〇分地続きの抽象映像作品に、所謂、劇伴という形の音楽を作ったことはなかったので、作曲中に何度か挫折しそうになったのですが、持続している映像と時間のどこから音を開始しても、あるいは中断しても良いのかも、ということを発見してから作曲が進捗するようになりました。

牧野 琢磨さんとのコラボレーションが最初から決まっていたので、だいたい五分ごとの曲を作ればいいような構成にしました。例えばフラッシュするところとか、映像の変化のきっかけは琢磨さんが作曲しやすいように意識して作りました。

渡邊 なるほど。音がない状態で観ると身構えるというか、どう解釈したら良いのか漠然とし過ぎていて(笑)。

牧野 それは関係としてはグラフィックスコアを見ながら作曲していくようなことですよね。

渡邊  そうですね。イメージに対してまずは自分なりに解釈しなければならない。牧野さんとハンブルク国際短編映画祭で『Origin of the Dreams』を上演した際、終演後、ドイツ人の観客の一人から、「牧野の作品になんでこんなモダンクラシックみたいな音楽をつけたんだ」とディスられたんですね(笑)最初は、面白い意見ですねと聞いていたのですが、モダンクラシックなんて定義は大嫌いですし、お互いお酒も入ってきて黙っていられなくなり、映像と音に関するディベートになったんです。抽象映像にあえて古典的な映画音楽の手法でアプローチするのも面白いじゃないかというのがこちらの主張でしたが。

牧野 たぶんそれは、Klab Kataraktという音楽祭を主催しているギタリストのJan Feddersenですね。彼も作曲をやっているんでライバル心かなと想像できます(笑)。彼とも一緒にライブ上映をした事があります。

渡邊  アブストラクトな音にアブストラクトな映像がいいのか?ノイズでいいのか?それはそれでステレオタイプなのでは等々のやり取りだったのですが。牧野さんは文脈に依過ぎないというか、自身の審美性だけで完結しない作風ですし。『Origin of the Dreams』の音の付け方は、どちらかというとナラティヴな映像作品の──音楽の起承転結と言うか──手法をあえて採用するということだった。それに対して前述のような批評がくるとは思わず、僕自身、自己批評しながら作曲を進めた感じでした。標題音楽的というか、音の演出が際立つと、牧野さんの映像のイメージが限定化されてくるような気もしましたし。

牧野 それぞれのミュージシャンに得意分野があるので、思う存分にやってくれれば僕は幸せですよ。受け止めて、共に走りますから。

渡邊 プレッシャーでしたよ。牧野さんの映像作品はいろんな意味でパワフルなので。通常の映画には俳優の演技やドラマに沿った演出など、作曲する上で指標となる要素がありますし、そこに沿ったやり方ができますが、(牧野作品には)そうした拠り所がないので、逆に自分の視点を一層明確化しなければならない。

牧野 そのまま音楽が映画の性格を変えていきますからね。それでいいと思います。今まで四〇本くらい、短編長編含めて作って来たんですけれども、あの作品は異質だとよく人に言われますね。インドネシアのドキュメンタリー映画祭、Arkipelでも上映されたのですが、選考の理由をプログラマーに訊いたら、あの作品だけ他の牧野の作品と全然違うから、と言われました。昨年ニューヨークのAnthology Film Archivesで上映した時も、観客の意見は面白いくらいに真っ二つに別れましたね。(笑) 上映中は、僕は「琢磨さん頑張れーっ」て思っていました。

『Origin of the Dreams』ツアー、ハンブルグ滞在時 2016年

渡邊 オーディエンスからは半ば批判のような批評もいただきましたよ(笑)非常に面白い経験でした。牧野さんとのコラボレーションの後に映像に対する音楽の当て方は変調したかもしれません。

──それは具体的にどのように変わったんでしょう? 

渡邊 より一層、音のテクスチャーに意識が向くようになりました。音楽の和声進行やモティーフを映像の流れに沿って動かしたり構成するのではなく、映像の質感や雰囲気に音を当てていくような感じです。『Origin of the Dreams』の作曲時は自分なりに構成を作りました。小さな炎がだんだん大きくなっていって、メラメラ燃えてくるまでが序章で、その後、水の映像にディゾルヴしていくところが第二楽章というように。それまで自分がやってきた映画音楽のやり方を、牧野作品にも応用したわけですが、色々意見を伺っていくうちに元来の手法が変遷していった感じです。映画の劇伴もこういうムードやテクスチャーにフォーカスして当てるのも面白いと思うようになりました。映像との関わり方は、牧野さんの作品を機に逆に用心深くなったかもしれません(笑)。まあワイドになったということですよ。

牧野 琢磨さんが炎のシークエンスと言いましたが、あれも全て水なんです。 

渡邊 ええ、あの赤いやつは水?

牧野 あれはサンセバスチャン(註:スペイン・バスク州ギプスコア県の基礎自治体)で撮影した川なんです。サンセバスチャンは街の光が全部赤いんですよ。海につながった川が夜にすごい勢いで海に流れ込んでいたので、カメラを縦にして燃え上がる炎のように撮影ではしているんです。その映像を見て炎を連想したのは琢磨さんですね。それでいいと思います(笑)

渡邊 そもそもイメージというか映像素材を見誤っていたんですね(笑)

牧野 いやいや、色々なものに見えるように作っているんで。そう言えば琢磨さん焚き火の音入れてましたね。

渡邊 僕は炎に見えてました。牧野さんも種明かししてくれないもんだからメラメラとかバチバチとかいう音を当ててしまったんですね。安易だったなぁ。

牧野 素直というか(笑)。

──渡邊さんの武満徹やミュージック・コンクレートからの影響、また過去の映画音楽からの影響があれば教えてください。

渡邊 武満さんの映画音楽を意識して聴くようになったのは──勿論、諸作は聴いていましたが──自分も映画音楽の仕事をやるようになってからです。近頃の映画音楽においてミュージック・コンクレートは──ノイズや電子音も含めて──汎用されていますが、映画音楽史の上で研究していくと、先駆者である武満さんのアプローチは、未だに新鮮かつ、大変異色だと思います。映画音楽に関して言えば、米国のジェリー・ゴールド・スミスJerry Goldsmithやマイケル・スモールMichael Smallらの作品に顕著な、通常の管弦楽と電子音やノイズの混在とか、機能和声と不協和音の併用など、方法論、文脈を交錯させる作家に魅了されてきました。ジェリー・ゴールド・スミスの『Omen』、『Chinatown』のスコアや、マイケル・スモールの『Parallax View』のサントラを聴いていただけると分かりますが、手法自体は、現代音楽のみならず、後期ロマン主義にも、かたやジャズにも見出せます。ただ、その方法論を映画の演出効果として用いたことで、映画音楽以外ではあまり聞き馴染みのない響きが生まれたと考えます。音楽を研究してきた者にとってこれは大変な発見で、その響きの謎を解明したいと思い、レコードの採譜に明け暮れた時期がありました。ただ前述の通り、牧野さんとの共同制作以降、よりテクスチャーを重視するようにもなりましたので、近年はそういう映画音楽の文脈に拠らない劇伴を考えていますし、牧野さんとの仕事を期に、武満さんや日本の電子音楽、デイヴィッド・テューダー(註:David Tudor ジョン・ケージと長年にわたり共同作業していた現代音楽のピアニスト、後半生はライブエレクトロニクスを用いた音楽家)、それから牧野さんと共通の友人でもある、中原昌也さん等の作品研究をするようになりました。映画音楽の大家のディスコグラフィを多岐に聴いていくと、作品によっては、あまりらしくない音楽を作っていたり、ステレオタイプな解釈でダンスミュージックをやっていたりするのですが、映画においては、時代の変遷に応じた音楽や監督のリクエストもありますし、音楽家の不器用さが露呈することも多々あって──それは適材適所ということではなく──寧ろその作家らしくない感じも映画音楽の面白いところでもあります。個人的には「映画音楽のような」映画音楽を作ろうとして一時期、四苦八苦していましたが(笑)

――『ECTO』(註: 二〇一九年五月二五日二六日に水戸芸術館ACM劇場で、二〇二〇年二月一一日に東京都写真美術館でそれぞれ上映)では生演奏されていました。いわば作曲家が映画を作ったのですが、音楽と映像の関係では、音楽が先に来るようなものなのでしょうか?どのような制作過程で行われていたのでしょう。

渡邊  音楽の制作自体は、通常の映画音楽の作業行程と違いはありませんでした。制作に先立って、企画として成立させる為のプロセスが諸々あり、こちらは少々難航しました。制作スタッフの方々に自分のイメージを伝える為に──これは完全に監督としての力量不足ゆえですが──なにがしかのスチールとか音とか、そういう素材をお送りして言葉足らずなところを補足しましたが、かえって混乱を招いたかもしれません(笑)。音楽と映像どちらが先行したかという点では、文字通り監督と音楽家を兼任して同時に行なった感じです。

牧野 『ECTO』の話が出たのでお訊きしたいんですけれど、映画を作るアイディアっていうか発端は、自発的に作りたいと言って始まったのか、企画があって頼まれたのがきっかけだったのでしょうか?

渡邊  当初、水戸芸術館から舞台作品というか実演作品の制作依頼がありまして、初回の打合せでは映画制作の話しは全くありませんでした。その頃、デヴィッド・テューダーの『Rain Forest IV』をよく聴いていて、その作品から着想したアイディアを企画主旨として提出しました。『Rain Forest IV』は、ざっくり言えばライブエレクトロニクスを使って熱帯雨林を音像化するというものですが、それを自宅で聴いていたときにラップ現象が起きたのです。いい意味で怖いというかザワザワするような雰囲気に取り巻かれているような体感、気持ちにおそわれて。そういう気配やザワザワっとするムードを水戸芸術館の舞台に立上げることができないかと思い、そこから色々リサーチしまして、ホログラムやファンタスマゴリアで幽霊を会場に浮遊させる案とか、実際に幽霊がギミック的に登場するなどの案を出しました。それが二転三転するうちに結果として、サントラ生演奏付きの映画上映という形に着地して、その上映用の映画作品を制作することになったのです。

――水戸と恵比寿の演奏家の人数編成が異なりましたがコンセプト上の違いはありましたか?

渡邊  コンセプトというより上演する会場にあわせて調整やアレンジを行ったのですが、オーディエンスの反応によって作品が変調したり、会場の雰囲気によって映画や音が歪んだりするので、大小いずれの編成であっても面白く発見がありました。

渡邊琢磨監督作品『ECTO』
『ECTO』©️ 2019 MITO ARTS FOUNDATION