同時代の映像/音響作品について
──牧野さんは普段、大衆映画を観ますか?
渡邊 牧野さんはご自身の作品からは到底推し量れないような映画も観てますよ(笑)。
牧野 カラーリストとして会社勤めをしていた二〇〇二年から二〇一二年までは、映画だけではなくて、手術の映像や三島由紀夫の隠れたフッテージに至るまでありとあらゆる映像・映画を観ていました。とにかく当時は自分が予期しなかった映像を観続けるということをやっていたんです。映像と音楽の関係上も驚くべき映像はたくさん有りました。一つ印象的だったのは、X線で人体を撮影して、人の声帯や舌がどのように動くのかを確認する医学的な映像だったのですが、いきなり骸骨が現れて島崎藤村の詩を朗読し始めるんですよ。ものすごい体験でした。その他にもいろいろ楽しい思い出がありましたね。
元々僕は映画好きで、八歳のときに初めて(自分の作品ではない)上映会も開催しました。スタンリー・キューブリック『Full Metal Jacket』(一九八七年)を観て、これはすごい映画だから友達に見せたいと思ったんです。みんな途中で飽きていなくなりましたけれど。。できる限り映画は観て来たと思います。最近で言えば、ハリウッド映画は飛行機の中で観て、アートフィルムは映画祭で観ています。また、ヨーロッパやアメリカの映画批評家や映画マニアから大量にコピーしてもらった映像アーカイブを時々観ています。あとはサウンドトラックを評価する対象として観ているのは、商業映画ではない映画祭で上映される作品ですね。僕は映画を商業映画と芸術映画で完全に分けて考えています。とりわけ映画祭で自分が審査員の場合は、映像と音の使い方に注意して観ています。一方で商業映画を観るときは映画音楽はまったく気にしていないですね(笑)。ひたすら楽しんでいます。
渡邊 牧野さんに最近観た映画を聞くとB級映画ばかり上げてくるので、意外と好きなんだなと。
牧野 そうですね。今でも少なくとも一日一本は必ず観ています。でも批評的な視座では観ていない(笑)。芸術映画を観るときは耳も目もオープンにして、分析しながら観ていますが、そういう観かたって疲れるんですよね。自分だったら絶対こんな事しないな、とか考え始めてしまって。
──牧野さんは以前、会場であくまで知り合いとの会話の中だったと思いますが、「デジタル動画であまりに綺麗すぎるのは下品だ」「映画はもうだめだ」との発言をうっすらと記憶しているのですが、デジタル全盛の現状に対して違和感があると捉えてよいでしょうか?
牧野 その発言がどういう文脈で発言したのか不明瞭ですが、僕はフィルムをデジタルへ変換する仕事を長らくやっていたので、映画を観るときには映像の質感がすごく気になるんです。フィルム撮影でビデオ編集された作品でも、どのように変換作業が行われたのかも気になります。どこまで意識的に作り込んでるのかなと。おそらく僕が言ったのは、映像が高解像度になればなるほど、いろんなインフォメーションが映像に入って来るので、カメラマンが何を撮らなければならないのかそうとう明確にしなくてはならないのに、そういうことに気を遣っていない映像に対する批判だと思います。例えばどこにでもピントが合っているような、ただワイドで撮っているようなGoProや携帯で撮ったような映像は見るに堪えない。そういうことに対して僕は批判したんだと思います。僕にとって高解像度になるということは使用できるキャンバスが広がっていくというか、映像で表現できる領域が増えるという事なんです。8mmで撮っていた頃と比べると今は何倍も表現できる領域は増えているので、そのこと自体は肯定的に捉えています。ただ同時にレンズワークに再三の注意は払うようになりました。
なのでデジタルのすべてを否定しているわけではないんです。最近の若い作家の作品を観ても、けっこうおもしろいチャレンジをしているものもあります。僕は最近古い16ミリカメラのレンズを4kのカメラに装着して撮影しているんですけど、そのインスピレーションを与えてくれたのはスウェーデンのJohn Skoogという若い映画作家です。以前彼と一緒に上映会とトークをハンブルグで行いました。僕は長い間カラーリストとして働いていたので、映像を見る目はあると自負していたのですが、ジョンの作品はフィルムで撮られたのか、デジタルで撮られたものなのか、わからなかった。実際にJohnに訊いたら、古いシネマスコープのレンズを4KREDに装着して撮影したらしいです。彼の試みから教えられるものがありました。
写真の世界ではともかく、日本の劇映画は画質に個性が無い事が多いと思います。よく海外で「なんでいくつかの例外をのぞいて日本の劇映画の多くは画質が同じような感じなのか?」とは訊かれます。それは予算の問題とかいろいろあるのかもしれませんが、表現者として、画質、映像の物質性に気を配る事はとても重要だと考えています。
──牧野さん、渡邊さんが評価する現在の映像、音楽の作家・作品にはどのようなものがあるのでしょう?
渡邊 最近だとビー・ガンBi Gan『Long Day’s Journey into Night』(二〇一八年)、シャンタル・アケルマンChantal Akerman『I’m Hungry, I’m Cold』(一九八四年』、コゴナダKogonada『Columbus』(二〇一七年)がよかったです。
牧野 パッと浮かばないですね……。先ほども言いましたが、商業映画と芸術映画は明確に分けて考えていますし、誰かのファンになって作品を追いかけるということはもう長らくしていません。ただ今日まで作品制作を続けていくなかで、いつも心の中に有るのは二〇〇八年にロッテルダム映画祭で出会った同世代の世界中の映像作家たちです。彼らの作品で行われている新しい試みに触発されることは多いです。いま感じているのは、僕の世代の芸術映画作家は活動の場を映画館から美術館に移行し始めているという事だと思います。表現領域を拡張する段階に入っているのでないかと感じています。表現領域を拡張し、簡単にカテゴライズできないような表現をしている同世代の作家からの影響はとても大きいです。
──いまの牧野さんのお話を聞いて、真っ先にアピチャッポン(註:アピチャッポン・ウィーラセータクン Apichatpong Weerasethakul, タイの映画監督、映像作家、美術家)のことが頭をよぎりました。彼もまた従来の映画表現に留まらず、インスタレーションなどその表現領域を拡張している作家です。
牧野 アピチャッポンの影響でタイの映画界も完全に変わりましたね。最近東南アジアがおもしろいと思うのは、タイにはアピチャッポンがいて、フィリピンにはラヴ・ディアスLav Diaz(註 : 長尺の作品で有名な、スロー・シネマの主要人物)、キドラット・タヒミックKidlat Tahimik(註 : フィリピンにおける、第三世界における実験映画のムーヴメント、サード・シネマの主要人物)がいたり。インドネシアのドキュメンタリー映画もすごく盛り上がっていて、Hafiz Rancajaleという映像作家・美術家が先導して牽引しています。彼らも表現領域が広く、現代美術と映画を跨いだ表現をしています。。おそらくですが、そのような状況を作るきっかけを起こした革命的な存在がアピチャッポンなのではないでしょうか。そして彼のパートナーだったアーティストのチャイシリChai Sirisの存在も大きかったと思います。だからいまの東南アジアの若い映画作家達は自分の表現を拡張する術をみんな十分に心得ています。シンガポールでも若い世代の作家たちが積極的に上映会を開催していて、ひと昔前の台湾のような熱気を生み出していると言われています。
しかし日本にはまだそういう流れがあまり見られないので、せめて自分が映画芸術と現代美術を横断的に活動する作家として少しでも足跡を残せればなとは思っています。
──渡邊さんは、いわゆるポスト・クラシカル以降の映画音楽に関してはどう思われますか。亡くなってしまいましたが、ヨハン・ヨハンソンJohann Johannsson(註 :アイスランド出身の作曲家。パンクロックからポストクラシカルまで幅広いジャンルを手がけた)やその弟子で先日『ジョーカー』でアカデミー賞を受賞したヒドゥル・グドナドッティルHildur Guðnadóttir(註 : 有名バンドmúmのメンバーとしても知られるアイスランド出身のチェリスト、作曲家)、重要な映画音楽家の活躍がここ数年目立ちます。最近の映画音楽で評価しているものはありますか。
渡邊 ヒドゥルの『チェルノブイリ』(註 : 第七七回ゴールデングローブ賞を受賞したテレビドラマ)のサウンドトラックにはかなり驚きました。彼女のアプローチは批評的なところもありますし、『チェルノブイリ』に関してはロケ地リトアニアの廃炉になった原発で、クリス・ワトソン(註 :キャバレー・ヴォルテールとハフラー・トリオの元メンバーでフィールド・レコーディング・アーティスト、録音技師)も共に音の集音を行うなど制作プロセスも徹底しています。それがコンセプチュアルに終わらず、ドラマにとって不可欠かつ圧倒的な音像に作り上げるのが凄い。
牧野 僕は映画音楽の研究はしてないのですが、ミュージシャンとは頻繁にエクスチェンジしています。最近だとリズ・ハリスLiz Harris (Grouper/Nivhek)(註 : 独特のドローン・フォークの音世界を作り出す、アメリカ・オレゴン州出身のアーティスト)のヨーロッパツアー用に一時間の作品を作りました。リズとは今後もそのようなプロジェクトを続けていくかもしません。あと最近音楽を聴いて感動したのはジム・オルークがBandcampで発表している『SteamRoom』シリーズです。とりわけ最近アップしている作品はとてもよかったです。
僕はミュージシャンには二種類──というと乱暴な言い方ですが、映画に関心がある人とない人ではっきり分かれるように思っています。僕は音楽を聴いてるとそれがよくわかるような気がするんです。そういう人たちと今後共同作業をする可能性は多分にあると思います。
──映画に関心がある人が作る音楽とは、つまりイメージを喚起させるサウンドとか映画のような音楽だとか、そういった意味でですか?
牧野 例えばクラシック音楽でもノイズ音楽でも、誰かが作った音楽を聴いた時に明確に映像が見えてくる事が有って非常に映像的だと感じる事があります。かというと、全く映像が見えてこなくても、好きな音楽というのは有ります。自分には共感覚というものがちょっと有るのかもと考えていて、それは音楽を聴いていると明確な映像が見えることなんです。もしかしたら人によってはその逆も有るのかも知れません。つまり、映像を見ていると音楽が湧いて出てくるというような。全部自分の思い込みかも知れませんが。琢磨さんは音楽を作る時に、最初に映像的なヴィジョンがあったりしますか?
渡邊 既存の媒体ありきで作曲する際は、勿論そのイメージなどから着想することになりますが、音楽のみで完結する委嘱作などをつくる場合は、あまりイメージに依り過ぎないようにしています。というのも、映像はイマジネーションを掻き立てる一方、情報量も多いので、音が入り込む余地が無かったりもします。映画音楽を手がける時の悩みでもありますが、音楽を入れる前段階から既に鳴っている音──それは要するに、俳優の声や雑踏の音、犬の鳴き声や靴の音などですが──だけで必要十分なことが多々あります。なので、なるべく音にフォーカスして作曲するようにしてます。映像のマジックが効いている間は良いですが、夢から覚めた後に何も残らないのは嫌ですからね(笑)それに音に関しても、未だ興味が尽きませんし驚きの発見もあります。
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