いい作家はいつも同じ場所を、質と大きさの違う槌で叩く。音が変る。釘を大切にする。同じ槌ばかりだと結局釘の頭を潰すだけで少しも打込めない。ただうつろな音がするばかりだ。
ジャン・コクトー「職業の秘密」*1
「どう、十分硬くなったかしら?」と彼女は尋ねた。
「金槌みたいに」と私は言った。
「釘だって打てる?」
「もちろん」
世の中には釘を打つべき金槌があり、金槌に打たれるべき釘がある、と言ったのは誰だったろう? ニーチェだったか、ショーペンハウエルだったか。あるいはそんなこと誰も言っていないかもしれない。
村上春樹『騎士団長殺し』*2
村上春樹は露骨な性描写だけの小説家などでは断じてあらない。むろん、そんなことは多くの読者には自明の事実だろうが、そういう読者であってさえ、村上作品においてとあるプラトニックな行為が果たしている役割には存外無頓着であるように思う。
文芸批評家の渡部直己は、(おそらくはある種の愛情の裏返しとして)『騎士団長殺し』の発売から二日後に、さっそく自身のFacebookで(本作の主人公がFacebookをやっておらず世間の流行に無関心であるのとは対照的に)「例によって一定の間隔で近所の人妻とのセックスシーンが出てきて、非モテ系男性読者の妄想に資したり」*3 することを批判している。渡部は攻撃の手を緩めることなく、さらに続けて次のように述べている。
とても礼儀正しい主人公が、女性たちをその身体性において把握したがるという村上調の、七十近くになって分かりや過ぎるセクシズム(馬鹿な読者向けサーヴィスとはいえ)は、そろそろフェミニストの本格的な指弾を受けるような域に達している。
サザンの桑田じゃあるまいに、もう四十年近く、同じ事ばっか書いて、この人、よく飽きないよなあ……などと、このように(しかも、よりによって、自分の誕生日の晩に)書き付けるわたしも、まあ「例によって」属[原文ママ]かもしれないのだが、しかし、彼と此とは断じて同じではあらない(と思う)。
作中に登場する騎士団長が「妙な「あら」つき否定文(「そんなわけはあらない」)を連発」していることを揶揄しつつも、ちゃっかり真似してしまっているあたりに、村上に対する渡部の愛憎相半ばする心理が仄見えて微笑ましいが(それは筆者にしても同じことだが)、畢竟、彼の批判の骨子は次の二点に集約される。すなわち「セクシズム全開の過剰な性描写」と「同じ主題や物語展開の繰り返し(マンネリズム)」である。
確かに、本作においても村上は執拗にセックス・シーンを描いている。じっさい、主人公が二人の人妻と肉体関係を持つことは第1部の17頁で早くも記述されているし、彼は東北自動車一人旅の途中で知り合った女性と行きずりのセックスにいそしんだりもする(私見では村上作品に頻出する「行きずりのセックス」のルーツは、夏目漱石『三四郎』冒頭で主人公が汽車で知り合った女性と同衾するエピソードである)。
しかしながら、これらのセックス描写は、単に「非モテ系男性読者の妄想に資」するために置かれているのではない。大方の読者が眩惑されるであろう露骨な性描写は、文字通り目眩しにすぎない。(特に近年の)村上作品の本丸はむしろセックスを介さない他者との関係性構築である。(『1Q84』に続く)人妻との道ならぬ情事はそれを際立たせるためにこそ要請されている*4。この点を見逃してはならない。
また、村上が陥っているマンネリズムを指摘することも難しくはない。なるほど、彼は同じようなタイプの道具立てとモティーフによって似たような物語を書き続けている作家である(あたかも洋画家の梅原龍三郎がバラの絵を描きつづけたように)。『騎士団長殺し』に登場する寡黙な美少女は『1Q84』のふかえりに連なる存在であり、総白髪で大富豪の超人的人物・免色(ブラック・コーヒーを愛する色彩を持たない多崎つくる、もとい黒白で酷薄なメンシキさん)にしても、『ノルウェイの森』の永沢さんに『スプートニクの恋人』のミュウの外見的特徴をパッチワークしたものにすぎない。言葉を失った病人を見舞うエピソードも『ノルウェイの森』や『1Q84』以来のものだ。自分のもとを離れていった妻を取り戻すという物語の本筋は『ねじまき鳥クロニクル』の再現である。くわえて、本作でも例によって意味深長な井戸が存在感を放って登場する。
とはいえ、村上にしたところで、こんなことどもは当然わかりきったうえで書いているだろう。ある作家の作品群に同型のパターンが見出されることは珍しいことではないし、それをマンネリだと言って切り捨てることも容易かろう(かつての批評家たちがたとえば小津安二郎をそのように評してきたように。しかし、一時期ネガティヴなイメージを与えられてきた小津映画に見られる執拗な反復の意義を、文字通りポジティヴに反覆して示したのは他ならぬ蓮實重彥ではなかったか)。むろん、問題はある主題なり細部なりが繰り返されること自体ではない。重要なのはそれが有効に機能しているか否かだ。批評家の真価は、一見すると単なる惰性で繰り返されているかに見える細部を掬い上げ、そこに宿る輝きを正しく救い出すことにあるのではないか。
結論から言えば、村上春樹の新作『騎士団長殺し』は単なるポルノ小説でもマンネリズムに陥った大家の出がらし小説でもあらない。本作は疑いの余地なく村上春樹の到達点を更新するような野心作である。以下につづく文章によってそれを明らかにしようと思う。
* * *
ひとには同じように見えても、僕自身はひとつひとつに新しいものを表現し、新しい興味で作品に取りかかっているのです。何枚も同じバラを描きつづけている画家といっしょですよ。
小津安二郎*5
恋があたえうる最大の幸福は愛する人の手をはじめてにぎることである。
スタンダール『恋愛論』*6
村上作品では人と「手をつなぐこと」が重要な意味を持つ。この一見すると陳腐で素朴なモティーフは作品を超えて繰り返し描かれている。しかしながら、そのことに気がついている読者の数はおそらくそれほど多くはないだろう。
『騎士団長殺し』の名もなき主人公の画家がはじめて手をつなぐ相手は、謎めいた隣人・免色である。彼は初対面時に自ら手を差し伸べ、主人公と「少し力が強すぎたが、痛いというほどではない」「力強い握手」*7を交わす。免色の手は、のちに主人公の肩の上に置かれ「特別な力」*8を伝えることになる。さらに、物語の後半で、井戸の底に置き去りにされた主人公を彼が救い出す際に、「予想外に強い力」かつ「安心して身を任せられる力」によって「地上に引っ張り上げて」いる*9。免色に限らず、本作において主人公と手をつなぐ人物は、軒並み「強い力」を有しており、その行為を通じて何かを与えている。
主人公と妹のケースを見てみよう。彼の妹は12歳のときに亡くなっているが(このとき主人公は15歳で、現在は36歳である)、その二年前に、二人で旅行先の富士の風穴に入ったときの思い出が語られる。この際、妹と手をつないだことが強調されているのである。そのとき「妹は私の手をしっかり握って」おり、「洞窟の中にいる間ずっと、その小さな手は私の手の中にあった」*10。その途中、一人で洞窟内の横穴に入っていった妹は、戻ってくると「もう一度私の手をしっかり握った」*11。二人は「手を繋いだまま」*12 で出口に向かい、電車で東京に戻る間も「しっかり手を繋いで」*13いた。
36歳の主人公は、13歳の少女・秋川まりえの肖像画を描こうとしているときに「ふと妹の手のことを思い出」*14す。
一緒に富士の風穴に入ったとき、冷ややかな暗闇の中で妹は私の手をしっかり握りつづけていた。小さく温かく、しかし驚くほど力強い指だった。私たちのあいだには確かな生命の交流があった。私たちは何かを与えると同時に、何かを受け取っていた。*15
かつて妹と手を繋いだときの記憶が、亡くなった当時の妹と同世代の少女であるまりえの肖像画を描こうとする主人公に力を与えているのである。
妹を彷彿とさせるまりえという少女もまた、手をつなぐことを通して主人公との交流を試みる人物だ。次に引用するのは、作中で二人が並んで雑木林の中の道を歩いている場面である。
私とまりえはほとんど口をきかずに雑木林の中を並んで歩いた。歩いている途中でまりえは私の手を握った。小さな手だったが、力は予想外に強かった。彼女に急に手を握られて少し驚きはしたが、たぶん子供の頃によく妹の手を握って歩いていたせいだろう、とくに意外には感じなかった。(中略)
彼女は何か考えごとをしているらしく、おそらくは考えていることの中身によって、ときどき握る手がぎゅっと強くなったり、またそっと緩んだりした。そういうところも妹の手が与えてくれた感触によく似ていた。*16
まりえが主人公と手をつなぎたがった理由は小説内にそっと描き込まれている。これより前の場面で、主人公に亡くなった母親との思い出を問われたまりえは「手をつないで、いっしょに雨の中を歩いていた」*17ときのことを話している。妹を亡くした主人公と母を亡くした少女が、手をつなぐことを通してお互いの喪失感を埋め合わせているのである(後述するように、このモティーフは本作の最終局面で再び繰り返されることになる)。
このように、『騎士団長殺し』にあっては手を繋ぐことがしばしば力強さと結びつけられており、それが主人公に安らぎをもたらし、他者との交流を可能にしている。そして、このモティーフは『騎士団長殺し』ではじめて描かれるのではない。複数巻にわたる長編小説としては『騎士団長殺し』の前作にあたる『1Q84』にもまた同様のモティーフが見られる。
『1Q84』は、さしあたり天吾と青豆という二人の登場人物が出会う物語と要約である(小説自体もこの二人を視点人物とする章が交互に繰り返される構造になっている)。小学生のとき、天吾に好意を寄せていた青豆は、放課後の教室で彼の手を握りしめる。
あるときその少女は天吾の手を握った。(中略)彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣に立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った(中略)その少女は長いあいだ無言のまま彼の手を握りしめていた。とても強く、一瞬も力を緩めることなく。*18
天吾と青豆は、大人になってもこの出来事を忘れることなく、ときとしてその思い出に支えられるようにして生きている(手のひらを見つめることで、自分にとって大切なはずの何かを思い出そうとする二人の男女を描いた新海誠の映画『君の名は。』[2016年]がヒントにしているのは、案外このあたりのエピソードかもしれない)。二人は手をつなぐという行為によって、言わば魂の水準で交流を果たしているのだ*19。
それでは、村上春樹はなぜ「手をつなぐ」という行為にこれほど重要な機能を担わせているのだろうか。この謎を解くためには、我々は村上の作品をさらに過去へと遡らなければならない。もっともこの場合、遡行するというよりは潜行すると言った方がより適切かもしれない。地中深くに埋められた答えを求めて、我々もまた地下に潜ることにしよう。謎を解く鍵は『アンダーグラウンド』に隠されている。
(つづく)
〈註〉
[1] 堀口大學・佐藤朔監修、曽根元吉編『ジャン・コクトー全集 第四巻』、東京創元社、1980年、144〜5頁。
[2] 「第1部 顕れるイデア編」、新潮社、270頁。
[3] 以下のものも含めて、渡部直己の引用はすべて彼のFacebookページからのものである(https://www.facebook.com/naomi.watanabe.90663/posts/598245147037772[投稿は2017年2月26日22時35分、最終閲覧日は2017年3月24日])。
[4] むろん、それとてある種の女性搾取と言えなくはないだろうが。
[5] 「朝日新聞」昭和37(1962)年8月28日夕刊(田中眞澄編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21(一九四六)年――昭和38(一九六三)年』、フィルムアート社、1989年、397頁。
[6] 「第32章 親しさについて」、生島僚一・鈴木昭一郎訳『スタンダール全集 8(新装版)』、人文書院、1977年、80頁。
[7] 「第1部」、118頁。
[8] 同書、299頁。
[9] 「第2部」、397頁。
[10] 「第1部」、372頁。
[11] 同書、375頁。
[12] 同書、376頁。
[13] 同書、377頁。
[14] 「第2部」、111頁。
[15] 同書、111〜2頁。
[16] 同書、212頁。
[17] 同書、17頁。
[18] 『1Q84 BOOK 1』 新潮社、2009年、275頁。
[19] このことは次の二つの引用文に示されている。
しかし天吾は、小学校の教室で青豆に手を握られたときに感じたような激しい心の震えを、その後二度と経験することはなかった。大学時代も、大学を出てからも、今に至るまで巡り合った女たちの誰一人、その少女が残していったような鮮明な刻印を彼の心に押すことはなかった。(「BOOK2」、90頁。)
彼は長いあいだ左の手のひらを広げて見つめていた。十歳の少女がこの手を握り、おれの内側にあった何かを大きく変えてしまった。どうしてそんなことが起こり得たのか、筋道立てて説明することはできない。しかし二人はそのとききわめて自然なかたちでお互いを理解し合い、受け入れあったのだ。ほとんど奇跡的なまでに、隅から隅まで。(「BOOK 2」、384頁。)
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