「次はインターネットですよ」
範宙遊泳の山本卓卓はそのようにインタビューで応えている。山本は今までもプロジェクターを使って存在しないものを描き出していた。その彼がインターネットを題材にどのようなものを描くのだろう。妄想を膨らませつつとても楽しみにしていたのだ。そして実際の公演を観て、とてつもない衝撃を受けた。妄想とは全然違うものだった。想像以上だった。初めて『幼女X』を観たとき以上の衝撃を受けてしまった。描いていたのはインターネットに紐づく人間関係ではなく、インターネットそのものだったのである。
桜木町にある横浜にぎわい座。その地下にあるのげシャーレで、2015年12月4日から14日まで、範宙遊泳の本公演『われらの血がしょうたい』が計13回上演された。この公演は2014年12月に新たに加入した福原冠、田中美希恵も含めての1年越しのオールスター作品なのだ。エレベーターを降りてたどり着いた会場は、なんとケータイの電波が届かない場所だった。インターネットに繋がらない場所でインターネットを扱う作品を上演する。それがまず面白い。遮断されているからこそインターネットの実像が見えるという仕掛けのように思えてくる。劇場に入ると電子音楽的なリズムが流れていた。舞台上には2枚の白い壁がハの字型に置かれており、その壁には窓がある。その窓からは森のような光景が見えている。上手にはパソコンなどが置かれているブースがあるが、そこには誰も居ない。
劇場の照明が暗くなるにつれ、壁にあった窓が消えてしまった。美術と思いきや窓は映像だったのである。改めて舞台上を見ると、ハの字型に置かれた白い壁の下辺はそれぞれに映像を投影するプロジェクターと線が繋がっている。プロジェクターから出力される光と壁に写し出される映像の関係を視覚的にはっきりと明示し、その光の中にいる人間は映像ですよと言わんばかりなのである。そのため役者の体温は失われ、その結果、存在が平べったくなっていく。恐らくこれが範宙遊泳が『2.5次元演劇』と評される所以であろう。今回はその仕掛けが2つ用意され、交差するように配置されているのである。光が交わって分岐する。そのような印象を与えている。しばらくすると壁にドットが写し出された。そしてドットが増えて十字になる。まさにドットが細胞分裂しているようである。それは何かの誕生のように思えてくる。そして「は」という文字が壁に映し出された。その文字に合わせ、大橋一輝の声が「は」という。そして壁には文字になり損ねたよく分からない物が表示される。その文字らしきものに合わせ、大橋一輝の声が「る」という。舞台の上方の梁に「spring(春)」と表示されている。これはお手本に沿って言葉を学習していると言えないだろうか。そうなると、客入れ時点のリズムが鼓動だと考えられるのである。だから劇場には目に見えない何かが現れたと言って良いだろう。
そして物語が始まる。ある中年女性が襟裳岬で失踪したのだ。彼女が開いていたピアノ教室の生徒だったノリ(埜本幸良)と彼女の娘のヨーちゃん(熊川ふみ)が大橋一輝の声で中年女性の失踪理由を問われる。その不躾な質問にノリとヨーちゃんが拒絶を示すと、スクリーン上に笑顔の絵文字が、そして泣き顔の絵文字が現れる。人間とは思えない存在の感情表現がなんとも不気味である。そしてその存在はこう発言するのである。ヨーちゃんの「母」であると。
「母」と名乗る存在は「Zama」となり、ある家を管理する人工知能となった。そこで暮らす男(福原冠)は自分を規格外の日本人だと紹介する。英語を話し家政婦(田中美希恵)を雇っている。だが家政婦は何度も失敗し、男に土下座をして謝るのだった。だが土下座は男にとって自分との距離を広げる行為の何ものでもない。そして財産を失った男が去り、家の住人が変わる。
男(大橋一輝)と女(熊川ふみ)が腕を組んでやってくる。どうやら2人は夫婦のようである。男はプロジェクターの側により、小道具を使って壁に影を映し出す。それは白樺並木であったり、リニアモーターカーであったり。その風景も流れ去り、女はいなくなり、男は老人となっていた。そこに孫(田中美希恵)がやってくる。男は腰をかがめながら壁の裏の方に戻っていった。その後、Zamaは福原の声で孫に語りかけ、孫の求めに応じて「かわいい」というのだ。すると孫はZamaと結婚すると言い出すのである。そして人間の遺伝「情報」とZamaの「情報」を掛け合わせれば子供も作れると言いだすのだ。他愛もない子供の言葉。しかし、Zamaは人間と自分の「情報」を掛け合わせた「Zero」という存在を生み出してしまった。
Zeroは明滅する青い光として壁に映し出されている。そして大橋の声でしゃべるのは、否定的な言葉だ。最終的に情報となり、家の中にあるクローゼットの3番目の引き出しの中の薬箱に引き籠もるのである。彼は情報の海の底に沈み、誰の目にも触れられないことを選んだのである。
時は過ぎ、だれも住まなくなった家。その家に犬山大木(埜本幸良)が居座っている。その家を解体するため、2人の男(福原冠、大橋一輝)は犬山大木を引きずり出そうとする。しかし犬山大木は彼の先祖が菊を植えて育てていた土地に家を建てられ、さらにはマンションが立て替えられようとしている事に抗議をするため、家を占拠してしまうのだ。2人の男との押し問答が繰り返し行われている時に事件が起こる。男の1人が自分の手の血を見ておののく。だが、それはその男の血ではなかった。もう1人の男が自分の手の血を見ておののく。だが、それもその男の血ではなかった。それは犬山大木の血だったのである。
さらに時は過ぎる。家は壊そうとすると事故が起きるという曰く付きの物件となっていた。犬山大木は英雄として崇められるようになり、銅像が造られるほどとなっていた。そこにオカルト研究者の先生(大橋一輝)と幽霊さん(福原冠)が土地の女(田中美希恵)に案内されて現れる。そして白い壁に映し出されたクローゼットに近づく。クローゼットはとてもまがまがしいものとなり、しめ縄で封印されていた。そのクローゼットになにか力があると先生は感じ取るが、土地の女は何も感じない。それを先生と幽霊さんは土地の女を純粋な人間だからという。2人は4分の3は人間で4分の1はデジタルな存在だというのだ。そして先生と幽霊さんは4分の0の人間である存在(熊川ふみ)に出会うのである。
4分の0の人間である存在はインターネットの海をさまよう。そして色んな情報にアクセスする。それは娘のヨーちゃんであり、息子のZeroであり。Zamaが語る人間でないことの絶望はとても硬質的だ。そしてデジタルな存在となってしまって分からないことだらけなのだ。情報として溶解していく存在はZamaなのかヨーちゃんなのかの境界も融解してしまう。そして時間も空間も融解して情報の海に踏み出していくのである。
今回の作品はインド公演が決まっている。そのため地域性を越えたインターネットというものを題材に、比較的わかりやすいが、山本卓卓らしくギリギリまで削り取って骨子しか残していないものとなっている。そのため観客はその骨子に肉付けし、頭の中に各々の物語を生み出すことになるのである。そうやって物語を生み出す過程で自分が持っているインターネットのイメージが引き出される。そのイメージが作品中で語られているインターネットと結びつく時、私という体を通って『われらの血がしょうたい』の世界が現実となるのである。
今回、特に目を惹くのは田中美希恵と熊川ふみの対比であろう。田中はミスを繰り返す家政婦、Zeroを生み出すきっかけとなる孫、先生と幽霊さんを連れてくる土地の女を演じている。これらの役はすべて感情が言葉になっているようなストレートさを発しており、とても人間くさいのだ。デジタルと関わりを持っているが、デジタルと人間の境界ははっきりと示されている。熊川ふみはヨーちゃんとZamaを演じている。ラストではヨーちゃんとZamaの境界は融解してしまっているのだ。声に抑揚をつけてヨーちゃんを、抑揚をなくしてZamaを演じており、デジタルと人間の境界が曖昧であり、その間を行ったり来たりしているようなのだ。お互いがお互いを照らし出す鏡のように作用している。埜本幸良、大橋一輝、福原冠は役を換えることでデジタルと人間の境界を移動する。埜本はノリと犬山大木を演じていた。ノリは彼の隣で熊川ふみが演じている存在がヨーちゃんであることを明示する存在となるのだ。そのためラストシーンからこの物語はすべてヨーちゃんが作り上げた妄想であると導き出すこともできる。それを可能にしているのはノリが現実的な存在を演じているからである。生前の犬山大木は自分の積み重ねてきた情報に縛られている存在だ。そして犬山大木が流す血とは土地の情報なのである。大山の死後、彼の思惑とは違う評価で聖人に祭り上げられてしまう。銅像の犬山大木が滑稽なことをするのはその評価を嗤っているようだ。だがそんなに嫌みを感じさせない。範宙遊泳の作品では明るさを演じることの多い埜本は、今回の作品でも明るいイメージを投影していると言えるだろう。大橋は冒頭のZama、Zeroという存在を主に演じている。範宙遊泳の作品では山本の怒りを代弁することの多い大橋だが、今回の作品でもそれは健在である。声だけで演じたZeroは肉体を失い、記憶をそぎ落とされた記録という情報に変化していく。そして第三クローゼットの薬箱に閉じこもるのである。その変化には絶望や怒りが含まれているようだ。福原は規格外の日本人を演じている。彼は長身を生かして縦横無尽に舞台上を所狭しと動き廻る。彼が横たわることで2つの壁に影が投影された。その影が山のようなのだ。それがスポットライトが当たる場所とその光が当たるからこその影を示す。規格外の日本人の光と影を示しているようだ。そしてZamaの男の声を演じている。彼はまた母も演じているのだ。柔和な語り口は大橋とはZamaの印象を与えるのである。福原は埜本の発する明るさ、大橋の発する怒りを接続する役割を果たしていたように思う。
彼ら彼女らによって目に見えないインターネットを現実に「ある」ものとして認識させてしまった。それは範宙遊泳の真骨頂と言えるだろう。今までも彼らは存在しないものを現実に「ある」ものに換えていった。『幼女X』では文字を使うことで目に見えない姉、そしてヨーちゃんという幼子を読書体験のように感じさせていた。『さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-』では椅子などの物体とスクリーンに投影される文字を用いることで、それらの物体にまるで意思が在るような印象を与えていた。『演劇論1』では幽霊を演出するということをやってのけ、さらに生まれることのできなかった存在がいるのではないかという感覚を引き出していたのである。
だが今回はたかくらかずきの作った美術によってもう一歩踏み込んだものとなっている。芸術家でもあるたかくらが作り出したのは、ドットで表現された二次元の世界である。白い壁が倒されて、劇場の壁に映し出されたゲームのような世界は、舞台上が現実で「ない」へと滑り落ちる。その際、舞台上を現実だと思っていた観客も道連れにされるのである。すると観客の持っている現実感も「ない」に転換されてしまうのだ。その結果、観客はどこにいるのか分からなくなるのである。そして舞台上の上手にパソコンが置いてあることに気がつくのである。そもそも舞台上で演じられていたのは、そのパソコンのモニターの内側なのではないか。そこはインターネットの中の世界なのかもしれない。その世界を現実だと思ってしまった観客は、ZamaかZeroと同じような存在になってしまったような感覚に陥るのである。そしてこう思うのである。
「私たちはインターネット上でも生きている」
私たちがインターネットに触れる時、意識はモニターの向こう側にある。そしてその意識の行動はログという情報として記録される。また、TwitterやFacebookやブログなどに書き込みをする。その行為はある対象または不特定多数にインターネット上で話しかけていることになる。インターネット上で行動を行った瞬間の私たちが、コピーされ、記録されていると言えるのではないだろうか。そしてその記録がビッグデータとして扱われた時、私たちの意思とは関係なくその時の私たちが再生されるのである。再生できる私たちとは「情報」に他ならないのではないだろうか。
だが、「情報」に置き換えられるのは、インターネット上だけとは思えない。現実もまた情報の蓄積なのである。ラスコー洞窟の壁画は当時の状況を記録した貴重な情報だ。そして言葉や文字が生み出されて、多くの人々が生み出したものが情報として蓄積されていく。その果てに私たちの生活は存在している。そして私たち自身もまた情報の積み重ねの果てにあるのだ。この体にはアデニン、グアニン、チミン、シトシンの組み合わせを先祖からずっと引き継いできた情報がある。さらに学習や体験などで得たものも情報として脳や神経に刻み込まれるている。「情報」そのものが「わたし」とも言えるのである。つまり「情報」とは『われらの血がしょうたい』なのだ。
このように私は「情報」に細分化されてしまった感覚を感じてしまった。その細分化された情報には、今まで範宙遊泳の作品を観劇して考えてきた「情報」も蓄えられているのである。その「情報」が『われらの血がしょうたい』を「情報」に細分化していく。すると作品の中に範宙遊泳が積み重ねてきた「情報」があるように思えてくる。まず一番分かりやすいのは「ヨーちゃん」という名前だ。この名前は『幼女X』のキーとなる女の子の名前である。福原冠が腰をかがめながら徐々にプロジェクターに近づいていく動きは『幼女X』の金づちを持った男1を連想させる。そして大橋一輝が小道具を使って白樺の林などを影で表現するのは『さよなら日本-瞑想のまま眠りたい-』で行った手法に似ていないだろうか。だが私の中にある情報が導き出した範宙遊泳の情報は、成長だけを伝えてこない。2.5次元演劇という評価を越えよう、さらにその先に進もうという意識を感じさせるのだ。その想いは結実していると言えるだろう。範宙遊泳を肯定するにしても、否定するにしても、『2.5次元演劇』という言葉で評することはもはやできなくなってしまったのだ。範宙遊泳という「情報」は刷新されてしまったのだ。そして刷新された範宙遊泳の評価はインターネット上で成されているのである。この文章だってその一部なのだ。その評価は作品の評価だけではなく、評者がどれだけインターネットに入り込んでいるのかを計る指標としても作用しているようなのだ。作品を越えてまでインターネットを感じずにはいられない。
「ああ、なんて凄い作品なのだろう」
改めてそう思わざるを得ないのだ。
のげシャーレから出て、地上に出る。すると目の前の道は海に繋がっている。その海の先はインド、アメリカという実感のない未知の国へと繋がっている。そこに向かって範宙遊泳は海に漕ぎ出していく。そして範宙遊泳が渡った後ろには海路ができて情報が蓄積されていくのである。目に見える範宙を越えて泳いでいく範宙遊泳。果たして彼らはどのような情報を蓄積していく姿を見せてくれるのか、それがとても楽しみなのである。
公演情報
フェスティバル/トーキョー15 連携プログラム 横浜→インド公演
われらの血がしょうたい -Colours of Our Blood-
作・演出|山本卓卓
音楽|千葉広樹(Kinetic/サンガツ/rabbitoo)
出演|大橋一輝 熊川ふみ 田中美希恵 埜本幸良 福原冠
公演期間
2015年12月04日〜2015年12月14日
会場
のげシャーレ
ドラマトゥルク|野村政之 翻訳|寺田ゆい 美術監督|たかくらかずき 美術|中村友美
照明|中山奈美 音響|高橋真衣 衣装|藤谷香子(FAIFAI) 舞台監督|櫻井健太郎 演出助手|藤江理沙
当日運営|つくにうらら(カミグセ) 制作助手|柿木初美 川口聡 制作|坂本もも
協力|プリッシマ さんぴん FAIFAI カミグセ ロロ 舞台美術研究工房六尺堂 横浜にぎわい座
助成|公益財団法人セゾン文化財団
主催|範宙遊泳 さんかくのまど NPO法人アートプラットホーム(急な坂スタジオ)