「幽体離脱」する「わたし」 ――山下澄人の小説における越境する「記憶」について


――ときどき思うのです。わたしの書いた作品(エクリチュール)はすべて向こう、田んぼと森と孤独のあいだから生まれたのではないかと

(マルグリット・デュラス『私はなぜ書くのか』)

 「わたし」の記憶とは何か。
 このような問いを立てたとして、至極まっとうな次のような応答があるだろう。「わたし」の記憶は「わたし」自身にまつわるものであると――。
 しかし、と続ける言葉を継ぐならばこの「わたし」自身にまつわるものが「わたし」の記憶であるとすると、その定義は実は曖昧なものではないだろうか。どこからどこまでが「わたし」であって「わたし」でないのか、果たして明確な境界線はあるのだろうか――仮に「わたし」性における記憶の明確な境界線があったとしよう。しかし、そのような境界線を越境してしまう「わたし」の記憶が在るとしたらどうだろうか。「私」性を越境する記憶があるとしたら、「わたし」の記憶は「わたし」自身にまつわるものでありながら、同時に「私」性を乗り越えるものになるのではないだろうか。
 私がこのような「わたし」に関する記憶に対する懐疑を述べたのは、小説家山下澄人の作品がこの「わたし」の記憶に関わる作品だからである。山下澄人の小説は処女作『緑のさる』から一貫して「わたし」に関わる記憶の作品を生成し続けている。また「記憶」に関する思案の発端をもたらしたのはマルグリット・デュラスの作品といくつかのインタビューを通してである。字数の都合上、デュラス自身や彼女の作品自体にはほとんど触れられないが、デュラスも山下澄人作品同様、あるいはそれ以上に「わたし」に関する「記憶」を思考させる作家である(ぜひ『私はなぜ書くのか』および『マルグリット・デュラス 生誕100年 愛と狂気の作家』所収のインタビューを参照してほしい)。

 したがって本稿は山下澄人作品、およびマルグリット・デュラスの言明から思索する「記憶」についてのある「とりとめのない」記述である。
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 山下の小説では「わたし」や「ぼく」といった(形式上は)一人称が用いられている。この山下の小説は個人の記憶にまつわる話であるが、この記憶は同時に「私たち」の記憶でもあるのだ。すなわち、一人称の機能がもたらす「記憶」とは大きく逸脱しているのである。語り手でもある「わたし」は登場人物の一人でもあるのだが、この一人称である「わたし」は小説内で複数化(!)しているのである。どういうことだろうか。
 例えば『ルンタ』では、「わたし」が馬のルンタに乗りながら、雪が降り注ぐ山を登る描写がある。「わたし」は雪の降る山を見たことがないと記憶している。にもかかわらず、「わたし」は同時にいつかどこかでこの景色をみたことがあるという感覚を抱く。遠く太古の記憶に誘うような牧歌的な景色の中、「わたし」はオートバイのゴーグルを外し、激しく泣く。それは同時に笑っているようにも見えた。そして……

  わたしは、泣いているわたしをわたしが見ていることに気がついた。

  わたしはわたしを見ていた。わたし、が、わたし、を見ていたのだ。それは不思議な光景だった。わたしの視界にわたしがいた。実際には見たことないはずの雪景色は見たことがある気がすると強く中に起こさせたわたしにも、この光景は異様で感動した。

 「わたし」が分裂し、「わたし」がわたしを見るという奇怪な視点が突如現れる。このような分裂した「わたし」の視点や描写は『ルンタ』に限ったことではなく、山下の小説ではたびたび見受けられる。語り手である「わたし」と登場人物のわたしは同一性を逸して、乖離してしまう。「幽体離脱」のような一人称「わたし」の複数化は固有性を奪い、匿名性を付与しているように思える。換言すれば、この「私」性の無化、あるいは人称のゼロ地点とでもいえる境地ではもはや、主体と客体、自己と他者といった二元論さえも解体されているのだ。そして同時にこの人称のゼロ地点にこそ、「私」性の「記憶」は越境していくのである。どういうことだろうか。
 「幽体離脱」した「わたし」は他の登場人物の「わたし」へと憑依していく。『ルンタ』ではナギノという人物が「「わたし」がわたしは性癖が悪いと語り始める」。『鳥の会議』においても同様の記述が見られる。一人称である「ぼく」は記憶を拡張するようにおばあちゃんの記憶の視点へと移行する。自己であり、他者でもある越境の記憶。そこには万物流転の如し小宇宙が形成されているのである。山下澄人の小説は形式上は一人称の体裁を取っているものの、その内容からは「一人称小説」「三人称小説」といった区分は意味を成さない。試しに上述の『ルンタ』の抜粋の「わたし」を「わたしたち」に置き換えても違和感なく読めてしまうだろう。この一人称の「わたし」はわたし以外の何もののでもないともいえるし、わたし以外の誰かであるともいえる。すなわち、いったん解体され複数化した「わたし」のなかには「あなた」も「わたしたち」も存在するのである。このような「わたし」の絶えまない拡張と結合を繰り返し、多重化することによって「わたし」の濃度は高まるのである。
 そして、この「わたし」の濃度とはなにか。むろん、ここまでの私たちの議論を踏まえれば、記憶の濃度にほかならない。なぜならば山下澄人の小説における一人称「わたし」の「幽体離脱」も「記憶」に大いに依拠しているからである。
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 山下澄人のプロットはまったくといっていいほど時系列順には配置されてない。一見すると支離滅裂に展開されているように思われるが、実はそうではない。視点や場面が次々と入れ替わり、ノン・リニアに進んでいるように思われる無数の出来事は、実は群像劇のようにすべてが並行して進んでいるのだ。
 山下澄人の小説の大きな特徴のひとつとして、小説内の前の出来事、すなわち記憶につられるように物語は跳躍的な展開がなされる。くりかえし述べるが、山下澄人の小説では、時間は直線的に流れておらず、無数の場面や視点がバラバラに破天荒なやり方でコラージュされている。誤解を恐れずに言えば、そこに時間は流れていない。いや、時間が永遠回帰し続けているというべきだ。これは私たち人の記憶の構造そのものではないだろうか。時間が記憶化するということは、空間化することにほかならないからだ(この空間とは私たちが想い出などの過去の記憶を想起するときのことをイメージするとわかりやすいかもしれない)。無数の断片的記憶が織りなす空間では、「わたし」のように他者を語ることもできるし、他者のように「わたし」を語ることできる。だから、一人称「わたし」の「幽体離脱」が起こり得るのだ。したがって「わたし」の濃度≒記憶の濃度と同義なのである。
 山下澄人の小説では「忘れた」「思い出せない」「知っている」など記憶に関わる言葉がよく出てくる。そればかりではなく、「記憶」の化身となった人物も登場してくるのだ。例えば『コルバトントリ』では、ぼくの死んだ母親が女の子になって突如ぼくの前に現れる。


  ぼくは女の子のことを大人になった時に忘れる。こうして一日に二回も電車で会った子のことを 覚えていない。それどころか、ぼくは今日のことをほとんどおぼえていない。ぼんやりとアパートへ行き、モリのおっちゃんと会ったことは覚えているけど、それがいつのときで、そこで何があったかはおぼえていない。ただ、それでも一度だけ女の子のことを思い出そうになる。

 このような幼い姿になって出てくる記憶の化身は他の作品でも登場してくる。この記憶の化身は大概『コルバトントリ』の母親のような死んだ登場人物である。そして、幼い姿の登場人物は姿を変えて死後も「記憶」を語り始めるのである。山下澄人の小説には「生」と「死」の境界線も存在しない。
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 ここまで山下澄人の小説における一人称「わたし」と「記憶」について議論をしてきたが、私はこの二つの問題を考えるときに、山下澄人とマルグリット・デュラスの小説がどこかでシンクロしていように思えてならない。かつてデュラスは自身の小説を「文学ではなく、文学以上、文学以下のなにか」と述べていた。デュラスはベトナムで過ごした幼少期の苛烈な性体験の「記憶」と非常に平易な文体(エクリチュール)で書かれた小説の生成を通じて、「生」と「死」の境界線を問い続けた作家でもある。また彼女が「出来事をつかみよせ、内部の複数性と同化させてしま」うと語るエクリチュールの本質が「わたし」の「記憶」と密接に関係していることはいうまでもない。思えば、山下澄人の小説も非常に平易な言葉で綴られているし、彼は阪神淡路大震災の時に家族から離れて一人北海道にいた体験の追憶によって(?)、今も小説の執筆期間は北海道で書くという(飴屋法水演出の『コルバトントリ』にて飴屋は山下にこの点について舞台内で問うていた)。デュラスは「意識の中で反響し合い、木霊のようにあるいは水面の輪のように広がりながら、そしてそのたびに交互に入れ替わりながら、わたしたちの過去と未来のあいだを揺れ動く」と述べていたが、この言葉が山下澄人の「記憶」の循環を端的に正確に言い表しているように思う。


 これ以上本稿では山下澄人とマルグリット・デュラスの「記憶」や共通項を探ることはしないが、この二人の作家の間隙からさらなる「記憶」についての一考する価値はあるだろう。

  佐久間義貴