マルグリット・デュラス作品は、いうまでもなく、三人称語りの手法で知られる作家だ。自己と他者の臨界を曖昧にし、物語表現の多様性を提示する。ここ最近の7度は、限定された舞台空間の中で、デュラス作品との対峙を通して、その音響面での参照を通して、モノローグ演劇の可能性に挑み、新境地にたどりつつある。モノローグ演劇はどこに向かうのだろうか、主宰の伊藤全記に聞く。
『廊下で座っているおとこ』公演の山口真由
――この度の7度『DIM VOICES4』の『廊下で座っているおとこ』(註:2023年7月2日(日) 東京都 サブテレニアン 演出:伊藤全記 出演:山口真由)は打ちのめされたと言っていい強烈な舞台でした。この作品は、現存在としての自分の性を焼き焦がされるようであり、沈黙せざるを得ない状況になりました。
伊藤 第三者だったはずの観客や読者が、いつの間にか当事者としてしか受け止められないようになってしまう、そんな恐ろしさを、デュラス作品は持っていると感じています。そして真摯に受け止めてしまった場合、言葉にする前にまずは「沈黙」を経由しなければならない。そういった状態になっていただきたい、彼女の言葉に一度ダメージを受けてほしい、創作時にはそういったことを特に意識しています。
――同じデュラス作品の演出が続きました。翻訳はまた小沼純一氏によるものでした。翻訳が幾多ある中で、彼のテキストをなぜ選んだのでしょうか?
伊藤 私たちは様々な理由、状況から、古今東西のテキストを選んでいます。言葉の好みという点では、こんな言葉があるかわかりませんが、プレーン状態と感じる言葉が好きだったりします。言葉を言葉のまま味わいたい。そんな欲求です。作家の思い描いているイメージが、読む人の頭の中ですぐ実を結んでしまう言葉でないほうがいいなぁと。小沼訳の『廊下で座っているおとこ』を見つけたときは、直感的にこれだ!と感じました。
複雑な内面が、とても平易な言葉で書かれていることにまず惹かれます。そして、平易だからといって、わかりやすいということでは、全くない。小沼先生の翻訳の場合、私の思うデュラスの特徴を、視覚的、音楽的に体感できるようになってるのがとても魅力的です。白い余白の中に黒い言葉が浮いている感じが、とてもいいんです。余白の白と文字の黒が紙の上で緊張状態を保っている。そしてこの余白と文字の関係は、私が舞台で一番大切にしている、沈黙と声にそのまま当てはまります。
デュラスの文体に特徴的な面もあるとは思いますが、小沼先生が訳された『廊下で座っているおとこ』と『大西洋のおとこ』は、句点、読点が多く、文が短いセンテンスで切られ、それらが連続していきます。そしていくつかの塊になった後、空白をはさみ、また繰り返すように進みます。文章が短く切れることで、一回、一回、ブレーキを踏まれるんですよね。スピードが出せず、止まってしまうこともある。これがまた、いいんですよ。読み進めるだけではない、その一節の言葉だけで読むのをやめてもいいような自由さがある。部分と全体、単発と連発により、時間と空間が立ち現れてくる。この瞬間はとても感動的です。黙読の時は視覚的に、音読の時には音楽的に、両方の面でからだに影響を与えてきます。ここら辺は音楽に造詣が深い小沼先生らしさが出ているのかなと思いますが、先生は詩の世界でも活躍されていて、言葉そのものの奥行と広がりも利用しているのではないかと思います。ひらがなを使い、言葉の意味を一つに限定していない、あるいは一つの意味があまりにも普遍的で大きく、逆に決定ができない。このように私たちを言葉でもって宙ぶらりんにすることで、言葉の向こうを見せようとしている点で、デュラスと小沼先生はとても相性が良かったのではないでしょうか。
禁欲的な静寂の中、音を立てて椅子にガムテープを貼る山口真由
――音響面について振り返ると、前回の『太平洋のおとこ』(2020年2月14日、15日『dim voices3』於 七針 翻訳 小沼純一 構成 ・演出 伊藤全記 出演 中山茉莉 山口真由 竹村沙恵子)での互いに独立した音響が重なり合うという方法論は、デュラスの映画にその類似を見ることができるかと思います。しかし、今回は照明とも相まって、繊細な音量の調整などが行われた音響の抑制があり、まず何より山口真由の熱演が思い起こされます。彼女が椅子にガムテープを貼る、あの強烈な音が今も蘇ります。彼女の存在を前提として、精妙な音響/照明の演出がなされていました。長時間にわたって微細な変化の起こるドローン、または微弱音などは、ある種の禁欲的な実験音楽の感触を与えました。創作の過程などを少し聞かせてもらえますか?
伊藤 前述した通り、 7度の創作で大切にしているのが、「沈黙」と「声」なのですが、この2つをつなぐのが、俳優だと考えています。なので、まずは目の前に俳優のからだが在ること、それをを感じてもらえるよう心がけています。その点をふまえ、照明と音響のテクニカル面についてお話ししますと、この2つを舞台上に入れていく際に、ベースにしている状態は「暗闇」と「沈黙」になります。私はこの状態を、人と人が共有することができる根源的な状態と今のところは考えているので、この強烈な緊張状態を保つことを前提としながら、俳優、光、音の関係性を探っていきます。
ご質問にある、音響の面に話を戻しますと、まずは音響の金子翔一さんに稽古してきたものを観てもらい、作品の言葉や俳優の状態から得た印象をヒアリングします。この時彼に、音響はいらないんじゃない?と言わせるように稽古しておくことが重要です(笑) 。俳優と言葉の緊張感の中に、どんな音を入れられるのかが、ヒアリングからの話し合いになります。音響の金子さんは、旗揚げから一緒にやってきている仲間なので、私たちのことを熟知しながら、変化などにも敏感に反応してくださいますし、感覚も信頼しています。一般的な舞台音響のように、きっかけを決めて音や曲を入れるという事もないわけではありませんが、特徴的な点があるとすれば、俳優と観客の間にいつの間にか立ち現れたり、もしくは俳優と観客よりも前に実はそこに流れている、といったような、現われる音、在る音として考えていることかもしれません。音響は観客に劇の理解を促す大切な役割がありますが、私たちは、場転時やシーンの説明、役の心情などを、わかりやすく観客に伝えるような方法はとっていなくて、俳優のからだとことばがなぜか際立って見えたり、聞こえたりするように、俳優の存在感と音を拮抗させます。これはどういったことかというと、空間の中で俳優と音が溶けあわないように、意識しあい続け、俳優と音が同時にあることを、俳優自身が意識し続けながら舞台上に居続けるといった感じです。所属俳優の山口真由さんは、仲間でありながら、舞台上で存在するためには、音と光との闘いがあると言っています(笑)もちろん、俳優と観客の関係は日々変化していて、同じことはまずありません。いきなり新しい音を入れることはありませんが、作品ごとのベースの中で、DJのような具合で毎回変化させつつ、常にその空間が緊張状態を保てるよう揺らぎや、流れを感じながら音を入れているそうです。
ガムテープの音に関して言いますと、今までお話してきた音響空間を引き裂く、俳優からの抵抗、それは時として作品の奥底にあった抵抗として、電子機器からの音ではない、人々の叫びとして響いて欲しいということがあったと思います。
こういった舞台上でのせめぎ合いからか、音響、照明、俳優、舞台上にあるもの全部を観客の皆さんが感じとってくださり、それらをトータルした感想をいただくことが多く、これはとても嬉しいことですね。
舞台上の俳優のからだと声という具体的なものから、その言葉がどこからやってきたのか、作家の中のずっと遠くまで、イメージが広がっていく。見えているものから、見えていない景色が立ち上がり、発することの叶わなかった人たちの声が聞こえてくる、そんな瞬間に辿り着きたいと思いながら毎回作品に挑んでいます。舞台芸術を自己表現やメッセージの伝達にとどめず、書かれた言葉の向こう側のイメージにたどり着く為に、俳優、光、音が全力を尽くすという点において、デュラスが自分の映画を監督する際に、自分の言葉が一番聞こえるように、映像や音楽に対して独特な手法を用いたということと共通点があるのではないかと思ったりしています。
――ここ最近ずっと続けられているモノローグ作品における、山口真由さんの存在について。
伊藤 戯曲を中心とした様々なテキスト群を、一人の俳優のモノローグとして語り直す。山口真由さんという俳優無しにはそんな無謀ともとれる野望は抱かなかったと思います。7度は、2024年で旗揚げから10年になり、山口さんとも長い付き合いになるため、創作時の安心感や信頼はもちろんですが、共同作業を通じて特に感じるのは、言葉に相対する時の姿勢と眼差しの独自性です。山口さんは、俳優でありながら、研究者でもあり、批評も書かれています。そのため、歴史や文献にあたることも多く、言葉に触発される体験が身体に刻まれている。それも数多ある要因のひとつにすぎませんが、いわゆる台詞術や解釈とは違った、言葉に対する独自の距離感や視点、皮膚感覚が、現在のモノローグ作品の大きな手助けとなっていることは間違いありません。
――モノローグはディアローグではないので、本来相手を持たない。それにも関わらず、観客にとって迫力のある舞台を作り出します。伊藤さんの作品ではそれが1時間から、長い場合で90分、観客を退屈させることなく続きます。佐々木健一の『せりふの構造』の第1章から拝借するならば、モノローグは詩情であり、さらに言葉の迫力があります。詩情には、内世界を定位し、ドラマを乗り越える言葉の質がある。山口さんとの綿密な話し合いがあり、言語表現にも細心の注意が払われていることがあるのでしょう。
伊藤 モノローグとディアローグについては、まだ言葉にできないのですが、現状、モノローグは、宛先のない対話、行きつく先は見えない、でも、眼差しはある、みたいな、うまく言えませんが、金井美恵子さんの小説のタイトルを借りて、岸辺のない海のような、そんな状態としています。、『せりふの構造』の引用部分には、とても共感するというか、感覚的にそういったことを感じていたからこそ、モノローグにこだわりはじめたように思います。詩情の魅力や、謎めいた効能に惹かれてチャレンジしているといった状況ですね。
私たちは、人が人の前に現れ、話す、それを聞いてもらう。ピーター・ブルックの『なにもない空間』の冒頭に書かれているような状態を基礎に、創作を始めるようにしています。本当にシンプルで、言葉と体をまず聞いてもらい、見てもらうことになるので、言葉を発するまでの準備は、入念に、慎重に行っています。先ほど引用されていた文中にあった言葉ですが、言葉には質が、メディアやジャンルごとにってことになるのかな、それぞれ異なった質が確かにあって、さらには作家たちの、言葉に対する手触りもありますよね。演出する際、物語の解釈も重要ですが、まずは作家の、言葉に対する質感や距離感を探ることに重点を置いています。初期段階の稽古では、シンプルに読んでもらい、聞く。それから、その言葉をきっかけに、とりとめのない話をたくさんする。とりあえず稽古場では雑談が多いですね。そんなことを通して、いろんな角度から、言葉に近づき、肌触りを確かめています。次に、文字を声にしていく手続きがあって、そこにとても気を遣うんですよね。書かれた言葉と声の関係性から、言葉の発生源、行き先、距離感などを測り、辿っていくことで、言葉の中に刻みこまれた、空間や時間を浮き上がらせてみたい。そんなことを念頭に、試行錯誤の日々です。そう言った意味で、俳優の身体に言葉を通すことは同じでも、人間を演じて見せるタイプの演劇とは違った、声を通して見えてくる、言語表現としての演劇を模索しているのかもしれません。
――伊藤さんの演劇作品には、特に、光、音、言葉の対立がなされ、これらの要素は単に調和するのではなく、互いに緊張感を持って絡み合っています。音楽的な比喩を用いると、伊藤さんの演出は「対位法」に似ています。対位法とは、複数の旋律が独立して存在しながらも全体として調和を生む技法ですが、しかしそれは安易な調和ではなく、むしろ緊迫した状態が続くことが特徴です。これもあくまで比喩的としてですが、音楽用語で言う「ストレット」に例えることが可能なのではないでしょうか。 ストレットはテーマが終わることなく重ね、緊張感を高めていく技法です。伊藤さんの作品にもそのような感覚を受けます。 このマルチモーダルな方法論を毎回少しずつ深めていらっしゃるのかと思いますが、近年の変化など、何か具体例から説明していただくことは可能でしょうか?
伊藤 私にとって緊張感はとても大切にしている感覚です。できれば日常生活ではあまり使っていない感覚を働かせて欲しいと思っています。それは、イリュージョンやファンタジーによる、非日常感とか現実を忘れるような体験ではなく、神社の敷地内に入ると、なんか静かになったなと、ふと空気の感じ方が変わっている、ある境界を越えると身体感覚のモードが変化するというような、普段と違った感覚が空間との関係で表れてくるような感じです。勿論、親しみやすさ、祝祭感、笑いや面白さによる居心地の良い空気感も重要ですが、それと同様に、じーっとして、凝視しなければ、見えてこない、聞こえてこないものもあるはずです。俳優と観客で一緒に薄いガラスの上に立つような、ひりひりした空気が会場に満ちるのは、空間を共にする、演劇ならではの体験であると捉えています。
おっしゃる通り、光、音、言葉の関係に加え、体、さらには観客の視線を含めて、調和ではなく、それぞれが反射し合うよう、空間と時間の輪郭が際立ってくるよう、意識して創作をしています。自分たちの創作が、音楽とつながっているという感覚はずっと持っています。空気を震わせ、届く、というメディアとしての共通性をみているのかもしれない。
近年、野外での公演やこれまでより大きな会場での創作、久々に三人芝居を改めて経験したりして、空間と自分たちの方法論との関係性や射程距離について考える機会を得ました。演劇について、今一度向き合い、再考することになりました。演劇は、俳優と観客が向かい合うわけですが、お互いが見ている眼差しや、期待について、そして物語について。テキストそれぞれの手触りは、観客にとってもそれぞれ違うわけです。これまでは私たちの手触りが中心でしたが、観客にも言葉に手を伸ばしてもらいたい、触れてもらいたいと思い、最近の公演では、これまでの観劇体操に加え、上演テクストの解説やレクチャーを取り入れ、テキストに向かいあう準備時間を作ったりしています。これは深化というより、拡張なのですが、この間、京都で『ソクラテスの弁明 ~あるいは たたかわなかった わたしについて』(2024年6月15日(土)~2024年6月16日(日) 於 京都芸術センター フリースペース)を上演しました。これも山口さんの、モノローグ作品です。ご存知の方も多いと思いますが、賢人ソクラテスの有罪、無罪を決める裁判を舞台にした、哲学者プラトンの著書です。ソクラテスが弁明するという状況に合わせ、当時会場で、彼の言葉を聞いた陪審員である、アテナイ人の役を、観客に担ってもらい、簡易的な楽器とフエラムネで言葉に反応しても、しなくてもいいという状況をつくった上演でした。上演中、観客が、隣の観客の存在を忘れずに意識しながら、座って、そこに居ました。全部で三回の公演で、毎回反応が違いすぎたんですが、そんなアンコントロールな状態は、とても新鮮で、上演における観客という立場も可視化できたのではないかと思っております。しかし、そういった挑戦ができたのも、『ソクラテスの弁明』というテキストに、もともとそういった声や風景が刻まれていたということだと思っています。だから、これはこれとして、公演で得た貴重な感覚を持って、改めて、深化を進めようと、新作に取り組んでいます。俳優と観客が向かい合う時、そんな必然とも偶然とも呼べる環境の中で、どう言葉と一緒に在れるのか。声でもってどれくらい遠くまで望めるのか。自分たちの生きている時代と向き合いながら、テキストに刻まれた声を聞き逃さないよう、まだまだ演劇観を深めていきたいですね。
『三月の5日間』 原作 岡田利規 構成台本 7度
2024年12月5日〜8日 会場 BUOY
主宰の伊藤全記