「SUSHI食べたい」ー謎の動画制作集団AC部とバッドセンスの逆襲


ツイッターを触っている人たちの中には、近頃、

『SUSHI食べたい』

とコメントする、異様な人々を眼にしたことがあるのではないだろうか。実際

『SUSHI食べたい』

と検索すると、異様な数の結果が現れ、その熱気も伝わってくる。

だが、もちろん、彼らは本当にSUSHIが食べたいわけではない(いや、寿司はいつでも食べたい、それは間違いないのだ)。

彼らは、ある動画に強烈に感化され、魅了されている。

ゼロ年代前半にその雑食的なセンスでポップシーンを席巻したORANGE RANGEが出した新曲、それに付されたPVの異様な映像が、ニコニコ動画ほか各動画サイトで発見されて、一気にブームになった。

まぁ、論より証拠、とりあえずご覧頂きたい.

どうだろうか。わけがわかったか否かはとにかく、この動画が持っている異様な熱気、特異な世界観が伝わったのではないだろうか。

冒頭から、ニューオーダーのような80’sテクノの芳醇な雰囲気を漂わせたシンセドラムの音が、とぼけた緊張感を漂わせるなかに、「SUSHI食べたい」と異様な言葉が繰り返される。

その後に、高音域ボーカルを担当するYAMATOが、都会的で寂れた雰囲気のラブソングを唄いはじめる(そしてそこに映るのは、淡い色調のなか、頭が微妙にデカくなったり小さくなる、寝苦しそうな女性、そして彼女は眠れず、張り手のような非常な腕の突き出し方で、泣きながらネオン・ナイトを走りだす…)。

やがて彼女は、閉められたシャッターの前にたどり着く。すると、シャッターが片手で開かれ、中からは『地獄のミサワ』のキャラのような(顔のパーツはリアルなのに、顔における比率がおかしい)イナセな板前が現れ、肩をシャキシャキいからせながら寿司を握るジェスチャーを画面に繰り出してくる(そこに、低音ラップ担当のRYOのメロウなラップがかぶさってる)。

そして、サビでは(寿司だけに…)、「SUSHI食べたい」の歌詞と共に、身体の大きさがぐにゃぐにゃに変わる板前のアニメが、ひたすら寿司を握ってこちらに差し出してくる。

いやはや、全てが今風のセンスではない。でも本気でやっているのはヒシヒシ伝わってくる。というか、本気でやっているとは、例え狂ってても、世界観がそれだけで完結しているというであり、この作品は、なんとなくやったらできちゃったみたいなノリとは、一線を画してくる。

そしてこんな作品を作ったAC部が、定期的に同じ構成を持った作品を作ってくることから、これが偶然の産物ではないことが明らかだろう。例えば、二人組のサウンドアーティストであるgroup_inouのMVとして発表した、THERAPYとHEARTを紹介しよう。 こちらは、「SUSHI食べたい」に比べて、物語性がかなり明確で、しかもなかなか哀感の漂う内容と、軽快で語感を重視したgroup_inouのラップに魅せられることだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=w_os8HqfxHc

 

しかし、特筆すべき演出はいくつもある。どちらも、かなりオールド・ファッションで、ギラギラとした広告のコラージュや、キュピズムなどが散見される。いくつかの広告は明らかにパロディだが、元より色調を強く、どぎつくしてある。トレンディドラマの雰囲気をそのまま再現しているのも芸が細かい。

HEARTの最後に登場する、顔面に角度を無視した無数の表情を挿入される部分は、小さいころにみたことがあるかもしれない、シンクロヴォックスという、口だけを実写で撮る米国産アニメの技術に似ている。

そして、教科書や掲示板の端のスペースに載っているような、ヘタウマな落書きみたいな絵が、トリッキーに動きまわる。そして異様な劇画調。

とにかく、今のセンスからすると、何もかも外しすぎて、ほとんど悪夢とすら言える演出だ。しかし、軽快でモダンなgroup_inouのビートと不思議な歌詞に乗せられることで、悪酔いのような、不思議な感覚に導かれていく。

多摩美大を卒業した三人組によって構成されるAC部の作品は、当世流行りの文脈に沿うと、「狙ってやったダサさ」ということになるだろう。

精神科医にして、アニメー文化批評家でもある、斎藤環は、ヤンキーの美観を説明するために、「バッドセンス」という便利な言葉を作った。それは要するに、コンビニにプーさんのジャージで来たり、一昔前なら浜崎あゆみ、今はジェーソウルブラザーズが爆音でかかった四ドア車のフロントガラスに供犠のようにディズニーのぬいぐるみを陳列したりする、あのとんでもないセンス……。だが我々は実はどこかで、あの感じに居心地の良さとか、安心感を覚えてるんじゃないのかね、というのが斎藤の持論だ。(詳しくは「世界が土曜の夜の夢なら」を参照。)

 だが、近年のこのけばけばしさや、やりすぎ・ゴテゴテ感の喚起するノスタルジックな雰囲気へのバックラッシュは、もはや居心地の良い安直なセンスを超えて、マッドセンスとでも言うべき状況を作っている。そしてそれは、何も日本のヤンキーに限ったことではない、というのが、持論である。

例えば、以下の三十分程度の映画「KUNG FURY」は、クラウドファンディングで資金を集めて「今年」制作されたが、高い再生数を記録している。そしてその内容は、終始八十年代の特有のうさんくさいトンデモ映画の雰囲気を凝縮したような映画のパロディだ。どこか懐かしい感じとエッジの立ち方に新鮮さを感じるが、80年代の要素のミックス具合とカットの仕方が絶妙であり、何が客に望まれているかを巧みに見抜いている。好きな人はもう涎ダラダラの品だろう。因みに僕も大好きだ。(安易な歴史改変SF、カンフー、ヒトラー、トリケラ・コップス(警察)、バイキング、スーパーカー、そして、チップチューンと、シンセロック…)

この他にも、アメリカの作家によって、ツイッターを通して投稿されていたサイバーパンクSF小説「ニンジャスレイヤー」が、数年前から日本人向けに翻訳されるときに、わりととんでもない翻訳をされたのだが、それがむしろ、イカサマでペテンのきいた80年代の、アメリカ人の都合のいい日本解釈(ブレードランナーの中の日本のような)にぴったり合致して人気を博し、関連書籍やアニメが作られてしまう、なんてことも近年の出来事だった。

この作品の、毒々しい絵柄と雰囲気、言語センスは、どこかAC部の作品に似ている。アニメも個性的だが、未読の方はネットに無料でまとめられているツイッターの原作小説を読むと雰囲気は伝わるはずだ。そのままニンジャスレイヤー愛好家の「ヘッズ」に加わるのもいいかもしれない。

しかしこれら全ては、決して時代の雰囲気への懐古主義とか、そういう安っぽい文化時評がしたいわけではない。第一、誰も本気で80年代のバブリーな雰囲気に思いを馳せているわけではないし(なにせ若者は誰もその時代のことを知らないからだ)。

むしろ、一見は冗談のようだが、ここには現代の広告文化への挑発があると思う。どうしてAC部は、執拗に古い広告文化や、商業的な映像をカットして重点的に扱うのだろうかを考えてみると良いのだが、しかしそれにしても、この大手スーパーSEIYUのCMは、とてもSEIYUのイメージアップをしてるとは思えないのだが、誰がゴーサインを出したのだろうか(むしろこんなCMに金を出した西友はかなり株が上がってしまった。)

AC部や「KUNG-FURY」や「ニンジャスレイヤー」の対岸にあるのは、近年一挙にデザインの主導権を握りつつある、グローバル/ユニバーサルデザインの洗練だと思う。つまり、例えばアップル社が自社製品の発表の度に使用しているような、匂いを極力消して、減菌された、化学製品のような表現だったり、有名な英語圏の様々な内容のプレゼンテーション企画サイトのTEDでは、レクチャーを受けたかのように、誰もが同じ、大げさな身振りと数字を強調して「印象的な」「人を動かす」プレゼンテーションを行うようだ。

それは、毒が少なくて危険も少ない、とても良い表現でもある。誰が作ったのかはわからないけど、とにかくセンスだけが良い。結構なことだとは思う(僕もアップル商品は使ってる。)

だがいま、モダンであり洗練されているとは、同時に、出自の忘却と抹消、透明さを意味している。アップルが何度も唱えるように、「誰でも、よりシンプルで、より使いやすく」が、合言葉になれば、特異なもの、異質なもの、異様なもの、匂い立つもの、使いにくいものは、排除されていくことだろう。

だがもうそんなのは結構だ。僕は愛用のmacbookにはアニメやシュプリームのステッカーを貼ってベタベタに汚したいし、ディオールのジャケットにも、ビレッジバンガードで買った安い缶バッジをバチバチつけてやるぞ、と、要はそういう話である。

ここで紹介した作品を構成する、80年代、90年代の過剰な広告・ファッション・映像文化は時代を経た結果、今やあまりに露骨で、いかつくて、自分の出自や、背景や、胡散臭さを隠そうとしない。

それは今や確かにとんでもなくダサいし、その突き抜け方に大抵笑ってしまう。だが同時に、人はそこに懐かしさを感じる。その土臭さ、ダサさは、自分だけの唯一無二の表現になる可能性を秘めているのだ。縮こまって引っ込んでいた「ダサさ」がポテンシャルを引きずり出されて「ヤバさ」になる瞬間、それは、八十年代にマーティン・スコセッシが撮ったマイケル・ジャクソンの「bad」の正規版MVを見れば、おのずと予感できるのではないだろうか…。大学に通いながら、黒人のフェロー達ともこっそり仲良くしている内気なスクールボーイを演じるマイケルが、黒人の昔のフェロー達に、”doing bad!”と挑発され、そしてあの黒いジャラジャラしたレザージャケットを着て暴力を使わずに歯向かう、そこには最早有無を言わさぬ、オンリーワンの格好良さがあるのだ。英語が聞き取りづらくても、活きのいいスコセッシの熱量とマイケルの怪演が伝わるはずだ。

 AC部の作ったMV群にも、エッジの中に何度も見直したくなるような暖かさがある。何度も見返してるうちに、その力強い表現に、今や突き抜けた先のかっこよさすら感じてくるはずだ。

執筆者 横山 祐(@karoshininja)