1. なぜセリフ通りに読むのか――平田オリザとロベール・ブレッソンの方法論
濱口は脚本のセリフを「電話帳のように」俳優に読ませる。これは一方では棒読みによって脚本が期待するような俳優が「キャラクター」の役目を、放棄・逸脱する行動ではあるが、もう一方では一字一句脚本のセリフを遵守することにもなる。
もう少し具体的に見よう。濱口がこの「電話帳」の先駆者として挙げる3人の監督がいる。ジャン・ルノワール、小津安二郎、ロベール・ブレッソンだ。ここでは予告通り、小津の発話の現代的な後継者である演劇作家・平田オリザとブレッソンの類似性について取り上げよう。この組み合わせを意外に思う方もいるかもしれない。映画と演劇をむやみに組み合わせて論じることも乱暴にも思われるかもしれない。しかし、この二人はある一つの問いにおいて必然的に重なりを持つ。それは、なぜ俳優は脚本の通りに発話せねばならぬのかという問いだ。やや長くなるが、濱口について論じるために、濱口から少し離れたところから話題を始める。
別の稿7で私たちは小津安二郎の奇妙な日本語の発話方法と、その現代的なアップデートとして平田オリザの演劇があることを確認した。小津映画の俳優の発話が不自然なほど平坦なことと、その延長で濱口にも「電話帳を読むような発話」が発見されることに異論はないだろう。平田は、アクセント構造の違いからヨーロッパ言語に比べて日本語がどうしても平坦に聞こえるとした。彼によれば、デフォルメされた小津映画の発話の不自然な平坦さは、外国人の耳で日本語を聞くときに生じる違和感の内面化だった8。小津の発話を「自然な平坦さ」にアップデートしたのが、彼の「現代口語演劇」といえるだろう。
また、平田演劇は即興を拒む。彼は、戯曲のない状況を用意すると俳優が自ら何かを表現しようとすることを指摘し、それを避けた上で自己表現以外なら俳優は舞台上で何をしてもよいという立場をとる。では、俳優が舞台上で何をしてもいいのであれば、「何をしている」ことが平田の作品のアイデンティティになるだろう。それは彼が書いたセリフを一字一句、正確に発話しているということに他ならない。つまり演出家平田の方法論とは、劇作家平田の仕事、戯曲に依存するのだ。平田の俳優に対する「何をしてもいい」は、「何もしなくてもいい」であり、何もしなければしないほど戯曲の仕事が際立つ。演出家平田は劇作家平田の仕事を生かすための「見張り番」なのだ。
「何をしてもいい」俳優が唯一してはいけない表現とは何か。平田は俳優が役を演じることの困難さを「郵便局員」の役の例をあげて説明している。舞台においては、「彼は郵便配達人だ」という命題は不可能で、「彼は郵便配達人のように見える」という命題だけが可能なのだ。だからこそ逆に、「郵便配達人のように見える」というその一点に頼って、俳優は自由を得ることができる。平田によれば、「郵便局員」役の俳優は郵便局員として見られることが重要なのであり、観客に「郵便局員」らしく見られさえすれば何をしてもいいとしている。一方で、平田が禁止するのは、俳優が「郵便局員」という役を記号的な動作として示すことだ。しかし、もう少しだけ平田が拒む俳優の自己表現というものを詳しく見てみよう。
明治期に日本で成立した新劇はスタニスラフスキー・システムという演技方法論を大きな拠り所にしていた。20世紀初頭、ロシアの演出家コンスタンチン・スタニスラフスキーは外面的で記号的なジェスチャーを排し、内面から沸き起こる喜怒哀楽の表出を重視した方法論を立ち上げ、ロシアリアリズム演劇の基礎を築いた。西洋人が発明した西洋の戯曲を上演するときの「リアリズム」が日本人にとって決して「リアル」ではなかったことは後に平田の「現代口語演劇」の動機になる。 もう一方、スタニスラフスキー・システムは映画にも大きな影響を与えた。ハリウッドの演技教育者リー・ストラスバーグはこのシステムを「メソッド演技」として映画に輸入。俳優の内面から感情が沸き起こるのを待つ間延びした表現が前時代の「語りの省略」に取って代わった。また、マーロン・ブランドのような代表的なメソッド演技俳優の成功で、「演劇的」記号表現に反発するはずだったスタニスラフスキー・システムもまた別の「スター俳優」という別の記号の定着に寄与する。平田演劇が拒んだ俳優の自己表現とは結局記号的ジェスチャーとスタニスラフスキー・システム、広義での演技の記号性だった。
こうした「表現」を拒む自身の演劇を平田は東洋思想に基づいて「無為」の表現だと主張している9。ここまでの議論を見ればそれは確かに理にかなっている。しかし、実務のレベルにおいて作品があるのだから何もしていないということはない。平田はなぜ日常の会話など真似せねばならず、何も表さない表現、シニフィエを持たないシニフィアンの試みは何を賭金に開始されるのだろう。彼の芝居に出る俳優は何に従っているのか、あるいはなぜ俳優は戯曲=脚本に従わねばならないのかという最初の問いに戻ろう。
脚本をセリフ通りに読む。その試みを映画で徹底的に実践したのがロベール・ブレッソンだ。先に「電話帳のようにセリフを読ませる」作家であることは触れたが、彼の俳優の扱いは群を抜いて独特だと言える。ブレッソンはプロの俳優を嫌い、「モデル」という演技素人の出演者にセリフから発話者の意図が消えるまで何度もセリフを読ませ、その意図が消えたショットだけを実際のカットに採用した。彼もまた平田同様「セリフ」のために俳優に「何もしないこと」を望んだ作家だった。一方、これは彼が熱心なカトリック教徒だったことと関係している。
三浦哲哉によるブレッソンとパスカル思想の比較分析10によれば、彼は厳格な不可知論者としてのカトリック教徒だった。彼は記録された映像のイメージそのものに価値を見出さず、編集を経たそれらのみ何らかの意味を持ちうると信じた。彼はそれを「私たちは謎 mystere をそのままに残しておかなければならない」という言葉で語る。つまり彼にとって映画は不可知でヴァーチャルな「謎」の準備だった。こうした態度は平田の「無為」の思想と符合し、カトリック志向はさらなる分析を可能にする。
三浦はブレッソンの「表象」に関わる「信」の問題をパスカルの「表徴」の理論によって読み解く。パスカルの『パンセ』では「旧約聖書」における「ノアの箱舟」の「表徴」が、教会制度を確立したあと「教会」という形で「受肉」する。つまり「受肉」とは先行するイメージについての遅れてくる正しい解釈のことだ。ブレッソンに置き換えれば、映画は「受肉」を待つ「ノアの小舟」の表徴=表象なのだ。
これを演技の面から考えてみよう。ブレッソンはなぜプロの俳優を、平田はなぜ俳優自身の自己表現を拒むのか。それは彼らが自分の作品を「受肉」へと開くためである。それはいつ開かれるのか。紛れもなくそれは上演(上映)の瞬間に、観客の複数の解釈へと開かれる。両者はその作品が正しい解釈を受けるまで誤ったバイアスにさらされないようにする見張り番なのだ。
議論を整理しよう。まず旧来の演劇に作品の内容を伝えるための記号的なジェスチャーがあり、それを映画的に方法論化した説話の効率を重視する古典ハリウッド映画があった。スタニスラフスキー・システム=メソッド演技はリアリズムのためにこれを解体し、内面の感情表現に特化したが、一方でそれはスターによる特定の感情表現の抽象記号となった。平田とブレッソンは記号的ジェスチャーもスタニスタフスキー・システムも拒む実践者としてある点では共通の演出方法に至った。
これは物語芸術をめぐる意味と解釈の追いかけっこの歴史なのだ。つまり、20世紀の映画・演劇を取り巻く「物語」芸術において、演技が脚本のいかにして作品が記号的意味性から逃げるかというのが一つの大きな命題であった。彼らにとって、脚本とは(またはブレッソンにおける編集とは)「正しく解釈」の「受肉」を待つものだった。
彼らの実践が俳優のセリフの棒読みによる「どの意味でもない」の実践であったとすれば、カサヴェテスはまた別の方法でこの問題に取り組んだ作家だった。次章はその実践を確認するところから始めよう。
(次ページへ続く)
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