やがて来る〈危機〉の後のドラマ――濱口竜介論


3. なぜわたしたちには嘘が必要なのか――これからの濱口竜介について

 「カイロス(kairos)」という時間の概念がある。古代ギリシャ語において、時計で計量可能な時間「クロノス(Kronos)」に対して、カイロスはクロノスの流れを断つ質的な時間、主に歴史的な決断や災害のことを指す。20世紀にそれは神学者ポール・J・ティリヒによって正式に理論化された。濱口映画の「はらわた」の次元とは劇中の日常としてある「クロノス」の中に現れる「カイロス」のことだ。そのように作劇することで、彼はフィクションを現実のクロノスにおける擬似のカイロスとして出現させる。

 彼の新作『寝ても覚めても』(2018)は「恋」という最も凡庸でありふれた「カイロス」についての作品だ。そしてこの映画の「はらわた」の次元は麦という一人の奔放な青年に伴われて登場する。大学生の朝子は、大阪の国立国際美術館で開かれた牛腸茂雄の回顧展で麦という青年と突然出会い、恋に落ちる。二人は束の間の楽しい時間を過ごすが、ある日、麦は突然朝子の前から姿を消す。数年後、東京のカフェ「うにミラクル」でアルバイトしている朝子は、得意先のオフィスで麦にそっくりの青年亮平と出会う。亮平が麦のことを想起させるとして、何も言わず執拗に朝子は彼のことを拒むが、朝子の彼に対する意識が反対に伝わってしまい二人は付き合うことになる。再び時は流れ、朝子は麦が芸能人となってCMやドラマに出演するようになっていることを知る。自分が亮平と知り合ったのが麦のせいであると朝子は亮平に打ち明けるが、彼はあっさりと受け入れる。亮平の大阪への転勤が決まり、朝子は彼と共に引っ越すことに決めるが、麦はある日、彼女たちの食事の場に訪ねてきて朝子を連れ去ってしまう。

 濱口はあきらかに同一人物である東出昌大が麦と亮平の一人二役を演じる本作について「あからさまな嘘」であるが、「それを信じますか信じませんかっていうところから始められるところがとてもいい」と語る15。それは本当に「とてもいい」ことだろうか。濱口竜介の映画における「いい」とはどのような状況を指しているのだろうか。

 確かに、この映画はあからさまな嘘から始まる。麦と朝子が恋に落ちるシークエンスで、二人は言葉も交わさず突然見つめ合い、唇を重ねる。すると近くで鳴っていた爆竹の音は聞こえなくなり、音楽が流れ始める。二人がバイクで出かけ、カーブに失敗して転倒するも、怪我一つ負わない。二人がいればありえないことがどんどん実現していく。あからさまな嘘を信じて生きる関係として、二人の恋は始まる。

©2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS

 鑑賞者にはそれは亮平の眼を通して彼の受難として描かれる。麦のことを何一つ知らない亮平の前に朝子は突然、彼を拒む奇妙な人物として現れ、二人は恋に落ちる。朝子が彼を拒むことが最も重要なのだ。劇中で明確な理由は説明されないが、それは朝子が麦との思い出を思い出すからかもしれないし、麦のことを亮平に重ねるのが失礼だと感じるからかもしれない。もしくは、麦に潜在するなにか破滅的な要素を予感しているからかもしれない。実際に、麦が朝子の前から突然消えたように、朝子は亮平の眼の前で彼の元を去る。こうして朝子は亮平にとって一連の災厄となる。

 二人が付き合うことになる最終的な外因は朝子が拒むことをやめる瞬間とともに訪れる。あさこは、亮平との連絡を絶ち、仕事を辞めて彼の前から一度姿を消す。しかし、亮平は彼女と会おうと共通の友人であるマヤが出演する舞台の観劇日を朝子が観劇すると言っていた日に変更する。しかし、会場に彼女は見当たらない。そしてその日にちょうど震災が起きる。亮平は他の多くの被災者と共に、混乱する街の雑踏を歩き回るうちに偶然、朝子と出会い、彼女と結ばれる。二人が決定的に恋に落ちる瞬間は正に災害としてやってくる。

 「拒む」といえば、濱口は小津安二郎の映画『東京物語』の原節子演じる紀子について、彼女のキャラクターが「いいえ」というセリフに特徴付けられるとする興味深い論文を書いている16。濱口は、本作における紀子の「いいえ」というセリフを丁寧に辿り直し、亡くなった夫昌二の父親・周吉=笠智衆が「ええんじゃよ、忘れてくれて」と息子の話をするくだりで、「でも」「このままじゃいられないような」「寂しい」「何かを待っている」紀子=原の変化を受け入れようとする自分を隠す演技に注目している。そうして自分の本音を晒しそうになり、舅に「ええ人」と言われ、「とんでもない」と声を荒げる原を濱口は「自身の最も柔らかな秘部を晒すことの限界」と言い表し、それを正面からの位置で捉えた小津の手腕を「映画が映画であることの臨界」と評す。濱口は紀子を「『いいえ』を否定とし得ない」人物とするが、やはり、これは紀子のセリフが「いいえ」から「とんでもない」へと至る、否定によって自己を保とうとする紀子について論じた論考なのだ。
 濱口が原節子の演技について述べた部分を引用しよう。

「私はその紀子=原節子の表情を見たときに『まるで自分のよう』に感じたのだ。他者から見たら笑って肯定し得る程度の「秘密」であることを理解しつつ、それを決して差し出せないこと、そのことが尚更恥ずかしく、しかしそれを勇気をもって差し出そうとして起こるすべての仕草の中に年齢・性別・生きた時代・あらゆるプロフィールの違いを超えて、私は自分自身のうちに在る最も高貴な一片を見せてもらったような、その存在を教えてもらったような気がするのだ。(…)「あらゆる人の中の私」をこの瞬間、原節子は垣間見せてくれているのではないか。」17

 濱口が映画を見、映画を撮る理由がこの一節に現れているように思われる。やはり彼の映画には日常と、その日常を壊すべくやってくるほとんど災厄のような「はらわた」との二つの次元があり、それを受け入れると人は同一性を保てなくなって変化してしまうのだ。紀子にしても朝子にしても、その同一性を保とうとする否定の身振りの瞬間に、「あらゆる人」の内にある「最も高貴な一片」を表出させる。『寝ても覚めても』にはそうした内面での同一性の危機と、外面での生命の危機が災害として同時に訪れてしまうことを描いた作品という側面がある。

 本稿における「新しさ」とはそうしてやがて災害のようにやってくる予期せぬ「カイロス」の時間なのだ。そこでフィクションとはどんな意味を持てるのか。フィクションとは、その災害を予期し、シニフィエとしての災害に備えるシニフィアンなのだ。私たちは嘘のような本当のことが起きた時、それに耐えるためにあらかじめ「あからさまな嘘」を信じる訓練をしている。濱口はそうしたやがて来る危機の「方舟」として「受肉」するようにと、脚本を改稿し、作品を磨きなおす。私たちには危機を乗り越えるためにいつもフィクションが必要だ。しかし、その最新の危機がやってくるその日までどのフィクションが本当に役立つかはわからない。濱口竜介とはその前線に立って、いつも世界の臨界を目の当たりにしようとする勇敢な芸術家の名だ。

 では、濱口は我々にどんなメッセージを残すのか。本作を朝子の目線で見るならば「災厄」は二度起きている。1度目は麦との出会いとして彼女に降りかかり、そして2度目は震災を契機に彼女自らが亮平への災厄そのものとなる。「災厄」は起きるだけでなく、私たちも(そして私たちの親しい誰もが)また「災厄」になりうるということは注目に値する。

 最後に帰ってきた朝子と川を眺める亮平の二人を映したショットはなんの答えも示さない。きっと二人は、そのように毎日止まることなく流れ続け、決して同じ形に止まることのない川の前の家で暮らしていくのだろう。亮平とともに観客には、挑戦が突きつけられる。あなたは、それでもなお変化し、信用ならず、ときに災厄となって私たちを滅ぼそうとする他人とともに暮らすことができるかと。その約束が結べるかと。濱口は勇敢な芸術家であるだけでなく、勇敢であることができるかと、観客にも問いかけるのだ。

〈参考文献〉
コンスタンチン・スタニスラフスキイ『俳優の仕事』全3部、山田肇訳、未來社、1955年
リー・ストラスバーグ『リー・ストラスバーグとアクターズスタジオの俳優たちーその実践の記録』ー、高山図南雄、さきえつや訳、劇書房、1984年

〈註〉
1 塩田明彦「映画術 この演出はなぜ心をつかむのか」イーストプレス、2014
2 同1 「古典ハリウッド映画」
3 定型化された「キャラクター」という文化について現代日本を生きる私たちは2000年を挟み、大塚英志から東浩紀へと引き継がれ「データベース消費」と呼ばれるようになった「キャラクター論」にそのより身近な例を見ることができる。ここでは、定型化されたキャラクターの身体的特徴、行動の特性がそのキャラクターが登場するフィクションのコンテンツから自立して消費されることに注目されている。本書で試みるのは、キャラクターを演じるのが生身の俳優であるがゆえの、キャラクター=役からの俳優の自立についての論である。
4 筆者加筆
5 同1「ジョン・カサヴェテスと神代辰巳」
6 https://www.nobodymag.com/interview/happyhour/index1.html#n
7 http://ecrito.fever.jp/20180613225042
8 平田オリザ「平田オリザの仕事シリーズ 現代口語演劇のために」1995年、晩聲社
9 同8
10「仕草とセリフは、たとえばそれが戯曲の実質をかたちづくるのと同じような仕方では、映画の実質をかたちづくることはできない。そうではなくて、或る映画の実質とは、仕草やセリフが喚起し、君のモデルたちのうちに模糊たるかたちで生み出されてゆくこの……事物、これらの事物たちであろう。君のキャメラはそれらを見て、記録する。かくしてわれわれは芝居を演じている俳優たちの複製写真から脱することができるのであり、それと同時に、新たなるエクリチュールとしてのシネマとグラフは発見の方法となるのだ。」ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書ー映画監督のノート』、松浦寿輝訳、1987年、筑摩書房より

三浦哲也「映画とは何か:フランス映画思想史」2014年、筑摩選書
11 船橋淳「Cinemascape2 人生の複雑さ受け止めるためにー反メソッド論」「10+1」2002年4月号、INAX出版
12 三浦哲也「ハッピーアワー論」羽鳥書店、2018年 における三浦の『ラヴ・ストリーム』についての分析を参照。
13 三浦哲也「ハッピーアワー論」羽鳥書店、2018年 における三浦の『ラヴ・ストリーム』についての分析を参照。
14 本誌インタビュー
15 本誌インタビュー
16 濱口竜介「『東京物語』の原節子」2016年、ユリイカ、2月号
17 濱口竜介「『東京物語』の原節子」2016年、ユリイカ、2月号

濱口竜介インタビュー:連載【新時代の映像作家たち】
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