やがて来る〈危機〉の後のドラマ――濱口竜介論


2. なぜ脚本は一度、放棄されるのか――ジョン・カサヴェテスと濱口竜介について

 序章で、カサヴェテスが感情表現によって古典ハリウッド的な「省略」と「行動」の語りから区別される作家だとしたことを思い出そう。ここまでの文脈から映画の感情表現について「メソッド演技」のことが想起されると思われるが、カサヴェテスは「メソッド演技」の批判者でもあった11

 先に挙げた塩田のカサヴェテス分析の慧眼は、カサヴェテスの感情表現と「メソッド演技」の区別にある。カサヴェテス映画の俳優の感情は単一ではないのだ。『ミニー&モスコウィッツ』(1971)では、女(ジーナ・ローランズ)が、愛人(カサヴェテス)と喧嘩するシーンでは、従来の脚本であれば、仲違いと仲直りの二つのブロックに分けて描かれるべきところを、「あんたなんか大嫌いだ」とシーンとしてひとつの結論が出たあとも数分続けて引き伸ばし、「帰らないで」と同じ俳優が言うまで撮り続ける。こうしてシーンの延長がキャラクターの感情の分裂を待ち、それが元々あった脚本のプロットを壊す。カサヴェテスの感情表現は、「メソッド演技」のように一つの感情たり得ない。つまり、感情表現の徹底によって「メソッド演技」を内部破壊するのがカサヴェテスなのだ。

 平田オリザ(≒小津安二郎)、ロベール・ブレッソンとの対比で言うならば、ジョン・カサヴェテスもまた、作品を特定の意味から解放し、解釈へと開く作家だ。前者が「無為」や「不可知」によって「どんな意味でもない」作品を志すのだとすれば、後者は過剰に「どの意味でもある」ことによって特定の意味を持たないに至る。カサヴェテスとは、テーマにおいても方法においてもそれ以前の映画が「省略」し、捨て去ったものを拾い集める。彼は「捨てられない作家」なのだ。
 『フェイシズ』(1968)の例を見よう。ここでは関係の冷え切った夫婦が互いに別々に過ごす36時間を描かれ、男女がそれぞれに浮気相手や娼婦とわめきちらしたり、踊りまわったり、セリフにならない言葉を喋り、ほとんど幼児退行的に振る舞う。

 しかし、その奔放な方法論は作劇全体の構成においてはずいぶん保守的な構造に至ることになる。彼の作品の多くがその奔放さゆえに、ほとんど同じプロットを辿るのだ。彼の多くの作品では、まず登場人物たちが置かれた状況を提示され、彼らはなにかしらの非日常を経験し、もう一度スタートライン(多くの場合それは劇中の日常の生活である)に戻る。この「回帰パターン」は後ほど確認する、劇中で映画や演劇、ワークショップを多用する濱口の映画と酷似するのだが、まずカサヴェテスの特徴から、詳しく確認しよう。

 「回帰パターン」はさらに二つに分けることができる。夫婦が寄りを戻すプロットだ。いくつかの彼の作品では夫婦や親子が主題となり、主人公が家庭を出ていき、また戻ってくる。『フェイシズ』と『ミニー&モスコウィッツ』(1971)では、一組の夫婦の仲が険悪になるところから始まり、別のパートナーとの人生を試みるがまた元の鞘に納まる。『ハズバンズ』(1970)では奔放な一夜を過ごした男たちが家庭に帰る。

 もう一つは何かの危機や好機が物語の契機となり、主役がそれを回避しようとして失敗し、最初の結論に戻るパターンだ。『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)のコズモは賭博の借金でマフィアに殺される運命を背負い、借金のチャラをかけてマフィア「チャイニーズ・ブッキー」を暗殺するが、コズモが殺される運命は変えられない。『こわれゆく女』(1975)では精神に異常をきたした主婦メイベルは入院するも、結局症状は改善せず自宅に帰る。『オープニング・ナイト』(1978)で舞台の初日を控えた女優は交通事故を間近で目撃し、上演の危機に陥るが、最終的には無事に初日を迎える。『ラヴ・ストリームス』(1984)ではある姉弟が愛を追求しながら束の間の共同生活を送るが、結局は共に暮らすことを選べない。本作こそ「捨てられない」作家カサヴェテスの集大成だ。弟ロバートには恋人が多すぎ、姉スーザンは多すぎる荷物のせいで空港で立ち往生し、終盤二人が住む自宅に大小様々な二人が購入した動物が押し寄せ身動きが取れなくなる。省けないせいで、変化できないというのが彼の一貫したテーマで方法論なのだ12

 結論から言えば、濱口竜介とは、この相反するかに見える平田−ブレッソンとカサヴェテスの二つの方法論を行き来する作家なのではないだろうか。『ハッピーアワー』においてそれはワークショップという形式の中に顕著に現れる。つまり、ワークショップを通じて何度も脚本を改稿するという段階では濱口はある意味で(カサヴェテスのように)脚本を放棄する演出家として振舞うと言えるだろう。しかし、即興によってOKテイクを求めるということはせず、続いて仕上がった新しい脚本について、俳優に棒読みを求める。その作風は彼のフィルモグラフィー全体を通じて見られる特徴ではないだろうか。順番に見ていこう。

 まずは、濱口とカサヴェテスの映画の相違点を確かめる。両者の作品は、ごく親しい間柄同士の心情の吐露によって物語が進行するという点でとてもよく似ている。また先述の通り、劇中に非日常的な出来事が起きたあと、もう一度日常に戻るという点でも似ている。しかし濱口のキャラクターは決してスタートラインには戻ってこない。

 『何食わぬ顔』(2003)では映画の撮影に参加した女性が創作の醍醐味を知ってバイトを辞めてしまう。『PASSION』(2008)では、「本当のことしか言ってはいけないゲーム」をした男が恋人との婚約を解消する。『親密さ』(2012)では劇団の稽古と上演が描かれ、数年後に劇作家の男は傭兵に転職している。『不気味なものの肌に触れる』(2013)では舞踏の稽古に参加した少年が同級生の女子を殺害する。『ハッピーアワー』(2015)ではワークショップと朗読イベントに参加した女性たちが配偶者との関係を解消する。『天国はまだ遠い』(2016)では、降霊術のロールプレイをしたあと霊能者の男と女子高生の幽霊の関係が変化する。
 濱口の作品では「非日常」がカサヴェテスのような「夜遊び」や「入院」や「事故」といった偶発のイベントではなく、「映画製作」や「演劇の稽古」「ワークショップ」といった自覚的に設定されたゲームとして登場することも特徴的だ。彼は日常の外を意図的に、呼び起こすのだ。それは作品が来るべき何かを受肉する準備なのだ。

 『PASSION』では、「本当のことしか言ってはいけないゲーム」を同級生の若い男女が行うシーンがある。ゲームの末、男が「こんな女は一回ひっぱたいてやりゃあいい」と啖呵を切ると、女が「ひっぱたけば」と喧嘩を買い、「ひっぱたいたって変わんねえよ」「変わるかもしんないじゃん」「お前はそんなんじゃ変わんねえよ」「私じゃなくて、あんたがだよ」と続き、男が女をひっぱたく。その後、いがみあっていた二人が風呂場でシャワーを浴びながら格闘し、キスするに至る。セリフが行為を駆動し、そうして駆動された行為によって今回で言えば、ひっぱたかれた側もひっぱいた側も関係が変わる。こうしてやってくる劇的な次元を濱口は「はらわた」という言葉で説明する。

「制作の過程において大きな改稿が加えられた理由はおそらく二つに集約される。一つは「脚本が演者にふさわしくない」ということだ。(…)もう一つの理由は「より、望ましく、ドラマを語ること」だと言える。(…)脚本の改稿作業は、先述の二要素の葛藤とともに為された。執筆者には進行させたいドラマがある。正確にはドラマによって到達した異次元がある。それは日常には容易に現れない「はらわた」の次元だ。(…)脚本を改稿するとき、我々は行き会ったのは具体的な「演者のからだ」だった。(…)執筆者がどれだけ効果的にドラマを進行させる台詞を書き込みたいと望んでも「あの人の顔、体からこのような言葉が発されていることがどのようにも想像できない」という事態が発生する。執筆者は演者のからだの「言えなさ」に直面する。」13

 映画そしてあらゆるドラマ一般と言ってもいいのかもしれないが、少なくとも濱口の映画においては二つの水準があるようだ。一つはその映画の中のリアリティをつくる、映画内の日常の水準であり、もう一つはその日常に潜在するありえない出来事、劇的な水準だ。濱口は後者を「はらわた」の次元と呼んでいる。濱口はそのような、日常に潜在したありえない自体も起こるのが現実だと強弁する14。ここで注目すべきはその「はらわた」の次元が脚本家に一方的に設定されるのではなく、現場での実践を経て再設定されていくものであるということだ。濱口は脚本の設定したドラマと俳優の身体とのずれである「恥」をテコにして、その「はらわた」の次元を軌道修正していく。そうして、作品が最終的に受肉する何かは再想定されていくのだ。 

 ここに私たちは、作品が私たちにもたらすであろう意味とか、テーマとか、シニフィエといったものが単なる情報ではないことに気づく必要がある。それはより効率よく手渡される何かの答えではなく、私たちがそれとどのように出会うかが重視される体験的なものなのだ。それゆえにここで論じている芸術家たちは、何を伝えるかではなく、どうそれを伝えるか、あるいはどのようにその体験を組織するかという戦略を練っていることに気がつくだろうか。

 ブレッソンと平田においてその試みは、言葉や編集におけるイメージの連なりを徹底的に編み、「はらわた」の次元を実現しまいとする緊張のドラマを作り出した。カサヴェテスは、絶えずゆるやかにそうしたドラマの網目がほつれることによって、過剰な感情のホワイトノイズの中でその「はらわた」の次元と戯れることを可能にした。濱口は、その作劇と即興性とを行き来しながらより効率的な、やがて来る「新しさ」=「はらわた」との遭遇を策謀した。最後に彼の最新作である、初の商業映画での実践を見てみよう。そこで私たちは彼を通じてなぜ、私たちにフィクションが必要か、なぜ私たちは「はらわた」との遭遇をセッティングされねばならないかを知ることとなる。

(次ページへ続く)